「私のルーツ」もご高覧ください。

父方のルーツについては「がんばれ!見延和靖選手」

 

熊本から入植した「小谷家」の顕彰碑
熊本から入植した「小谷家」の顕彰碑

ただ、インターネットには心ない言葉が見られる。

老母と初めて屯田墓地を参った私はむしろ清々しい思いを抱いた。老母も同じことをいっていた。

屯田兵の歴史を学び、先人の労苦の日々を想像してください。よろしくお願い致します。 

         (この項 了)

 

2016・12・17

屯田墓地④

 

屯田墓地には、篠路兵村で開墾と兵役に生涯を捧げた戸主と一族が眠る。「先祖を偲んで」と刻された碑も何基か建っている。

同じく熊本出身「西村家」の皆さんは井川嘉平の右隣に暮らしていた。
同じく熊本出身「西村家」の皆さんは井川嘉平の右隣に暮らしていた。

2016・12・16

新琴似神社「屯田兵中隊本部」

 

屯田墓地に参る前日、新琴似神社に行った。ここには「屯田兵中隊本部」がある。明治19年に建てられ、2年後に新琴似兵村の入植がはじまったのである。

札幌市西区新琴似神社境内にある「屯田兵中隊本部」。見学は無料。但し年内は11月末までであった。残念!
札幌市西区新琴似神社境内にある「屯田兵中隊本部」。見学は無料。但し年内は11月末までであった。残念!

ところで屯田中隊本部では、明治23年、中隊本部にいた第三中隊長安東貞一郎大尉が銃撃されるという事件が起きた。なんだかの不満を抱いた屯田兵が起こした事件で、7名が軍法会議に掛けられ、処罰された。

 

この時、篠路兵村から襲撃に加わり、後に拳銃自殺した屯田兵がいた。福岡県出身の江良清吉という男である。私が屯田墓所に行き、「江良」と刻まれた墓を見て「あ」と思ったのは、この事件を思い出したからだ。

                        

 

井川兼吉が建てた父井川賢蔵、母ダイ夫妻の墓も。私たち子孫が知り得る最も古い先祖である。写真右

2016・12・13

屯田墓地③

 

中山家の墓参のあと、引き返して井川家の墓へ。関係分のみ掲載する。大正11年に井川平八(妻が賢蔵の娘リキ)が建てた墓。写真左。

屯田兵として北海道に渡った井川嘉平(惣助 賢蔵の子)ムマ(ウマ)夫妻の墓も。写真左。

 

墓参の後、思いがけない出会いがあった。通りがかりの家に「井川」の表札。思いきってピンポン。


出てきた老齢のご夫婦に事情を話すと、なんと井川兼吉の孫だという。老母とはハトコ(北海道弁で二従兄弟)にあたることが判明。

 

「井川」は「いかわ」と読むといい、近くに住む従兄弟の方は徳島までルーツ探しの旅に行かれたとか。

 

嬉しい出会いに老母も大喜び。

先祖の墓参りがとりもつ忘れがたい一日になった。

 

札幌市が管理している墓所だという。
札幌市が管理している墓所だという。

山の斜面のところどころに墓が建つアバウトな感じの墓所。車を降りて最初に目についた「江良」と刻まれた墓をみて「あ」と思った。篠路兵村に入村した220戸の中にこの姓の戸主がいたのを思い出したのだ。

「井川家」の奥に「中山家」の墓所が。
「井川家」の奥に「中山家」の墓所が。

 

まずめざすのは曽祖父と曾祖母の墓。あった! 話にこそ聞いていたものの、場所までは知らなかった老母も感激の面持ち。墓の裏には老母の母(私の祖母)ら建立した子らの名前。側面には「中山茂三郎」「中山サト」はじめ、若くして亡くなった2名の名が刻まれている。 

          続きます

 

 

2016・12・7 屯田墓地②

 

そもそも「屯田墓地」なるものがあるということさえ知らなかった。偶然、見つけた義兄によれば「車でこの墓の前を通ったとき、〃屯田〃とついていたので、降りて探したら見つかった」という。こんな話がほんとうにあるのだ。

 「江良」の姓が読める墓
 「江良」の姓が読める墓

2日前まで積雪があった札幌。この日は小春日和。老母と腕を組み、落ち葉を踏みしめながら、義兄の後からついていく。

「あった!」 右から妹、老母、典子
「あった!」 右から妹、老母、典子

久しぶりのジンギスカン。札幌の妹宅で。
久しぶりのジンギスカン。札幌の妹宅で。

二人からみて孫にあたる老母でさえ知らなかった墓の所在が、義兄の調査によって明らかになった。

石狩市にある「屯田墓地」である。今やルーツ探しは一族あげての調査になりつつある(笑)

2016・12・5

屯田墓地①

 

昭和21年に亡くなった曽祖父の中山茂三郎(=井川宇八)と、昭和22年に亡くなった曾祖母サトの墓はどこにあるのだろうか。

札幌の寿司
札幌の寿司

その日、たまたま札幌にいた私は老母を誘い、義兄の運転で「屯田墓地」へ出かけることに。

 

 

子育て中から親しくしているママ友9名の毎年恒例の「ランチ忘年会」。ここ2、3年の話題は親の介護、孫の誕生、病気の話など。
子育て中から親しくしているママ友9名の毎年恒例の「ランチ忘年会」。ここ2、3年の話題は親の介護、孫の誕生、病気の話など。

30年ほど続いているママ友との「忘年会ランチ」の席で、その話をしたところ、昨年、結婚されたKさんの娘さんのお相手が徳島県の「井川」さん。親御さんは今も徳島に住んでいる地主で、しかも先祖代々の家系図をお持ちの家柄だという。

2016・12・2 

思いがけない〃つながり〃

 

私の母方の高祖父は徳島藩の郷士で、「井川」という姓であったことは繰り返し書いてきたが、思いがけない展開があった。

 

ランチをいただきにいったはずが、      思わぬ方向に話がとんだ。
ランチをいただきにいったはずが、      思わぬ方向に話がとんだ。

「読み方は、〃いがわ〃じゃなくて、〃いかわ〃」とのこと。そうかもしれない。いずれにしろ、何かご存じのことがあるかもしれないので、その「井川」さんに手紙を書いてみようと思う。

 

 

北海道新聞から
北海道新聞から

2016・11・10

中山菊雄さん 旭日双光章防犯功労

 

中山菊雄さん、といってもほとんどの方はご存じないだろう。私も1週間くらい前まで知らなかった。

 

私の高祖父井川嘉平の曽孫の夫。私の母の従兄弟の旦那さんにあたる。ちょうど井川家、中山家のルーツを調べているところなので、祝いの思いをこめて載せる。


それにしても「防犯」とは、憲兵の役も担っていたという屯田兵の縁者らしい話ではないか。

 

 

永山記念公園(札幌市)
永山記念公園(札幌市)

永山武四郎は薩摩出身の陸軍軍人。北海道庁長官、第七師団長、屯田兵司令官などを歴任した。屯田兵の歴史を紐解くと、同じく薩摩出身の西郷隆盛、黒田清隆とともに登場する人物だ。ただ、私は小学校時代に教わった郷土の開拓史で、この人の名前をまったく記憶していない。

永山武四郎           (1837-1904)
永山武四郎           (1837-1904)

ロシアの南下政策に対抗するため、屯田兵を設置するというのは西郷隆盛の案だったといわれる。そこで〃子分〃の黒田や永山が動いたが、皮肉なことに西南戦争が起きた時、永山は反乱鎮圧のため屯田兵を熊本に出動させなければならなかった。

和洋折衷様式を採用とか
和洋折衷様式を採用とか

2016・11・4 

旧永山武四郎邸

 

札幌駅や大通り公園から徒歩15分のところに永山記念公園があり、旧永山武四郎邸が遺されている。

修復工事中のため内部見学はできなかった。
修復工事中のため内部見学はできなかった。
玄関付近
玄関付近

明治10年代前半に建てられたといい永山武四郎邸。とうぜんというべきか屯田兵が住んだ家屋より格段に大きく、立派である。

この界隈には開拓使の麦酒会社、製糸所、紡績所、病院、屯田指令部などがあり、北海道開拓の拠点であった。

永山は「死後、自分の躰は北海道に埋めよ」と遺言したというが、薩摩の星西郷を討ったことで、二度と故郷に帰ることができなくなった、というのが本当のところではなかろうか。ある方にに聞いたところによれば、薩摩には永山に関するものはほとんど残っていないそうだ。

 

 


明治22年北海道篠路屯田兵村の居住地図。
明治22年北海道篠路屯田兵村の居住地図。

「188木内武次郎」は木内さんのご先祖。「169井川嘉平」は見延の高祖父。徳島県出身。篠路兵村に限らず屯田兵はすべての名簿が残っている。

2016・11・2

木内由晴さん

稲田騒動に関して」②

 

数年前まで下記情報がWEBに沢山記載されておりましたが、今は稲田藩一色となってしまっており、情報が削除されておりました。

稲田騒動に参加した斉藤盛衛は明治35月に稲田騒動に参加し、9月に謹慎処分を受けたが、10月には謹慎が解かれた。廃藩置県後東名県、高


知県、徳島県で雇われて出納課出仕、副戸長、戸長など歴任し、明治21年に徳島県を依願免職し、明治22年に屯田兵に応募するという記録が残っております。

 

木内由晴さんへ

稲田騒動は北海道の開拓史を調べれば必ず出てくる出来事で、映画や小説の材になっていますが、自分の先祖が関わっているらしいと知り、驚くとともに納得できるところもありました。

最初の屯田兵村である琴似は、東北、北陸の出身者で構成されており、斗南藩士となった会津藩士も含まれています。西南戦争以降は、四国、九州など西日本からの屯田兵が増えますが、これも反乱分子を北海道に送ろうという政府の方針と考えられます。稲田騒動も喧嘩両成敗の名のもと、厄介払いされたという一面があるのではないでしょうか。

今回の件で、自分がなぜ長きにわたり頼山陽を調べてきたのか、わかったような気がします(笑)

                          見延典子

 

2016・11・1

 

稲田騒動に関しては私の父木内博幸から先祖がたくさんの人を切ったと口頭伝承しており、WEB上にも稲田騒動により徳島藩士が謹慎を受け、謹慎が解けて屯田兵として北海道に入植したという記事がありました。

当該記事が見つかり次第報告させていただきますので、お時間を頂戴したいと思います。

 

「屯田」2016年10月60号
「屯田」2016年10月60号

私は木内武次郎の子孫で大阪府河内長野市に在住しております。先祖の歩んだ道のりを調べております。井川嘉平様は木内武次郎と同じ徳島藩出身で明治227月に篠路に入植しております。

2016・10・31

木内由晴さん

「私の先祖も篠路に入植」

 

はじめまして

北海道屯田倶楽部の会員で木内と申します。

北海道屯田倶楽部に201610月第60号に掲載されております件でメッセージを差し上げました。

同号に木内さんのお名前も掲載。
同号に木内さんのお名前も掲載。

徳島大学附属図書館で蜂須賀家家臣団にお二人の名前を確認しました。ご存知のことと思いますが、私の先祖は稲田騒動に加担して明治政府から謹慎を受けて、その後謹慎が解けて北海道開拓団として相模丸に乗船して小樽港を経由して篠路に入ったものと思われます。相模丸に乗船するためには荷物制限の関係で私財を処分したと考えられます。篠路に入植したときにはかなり貧乏だったと推測します。その後おそらく食べていけない状況から木内武次郎の子孫が満洲を目指して南満洲鉄道の技師として働いていたこと考えられ、当該事項から戸籍謄本と伝承で確認できました。戦後中国から舞鶴を経て伊丹に移り住みました。このように歴史の表舞台には登場しませんが、すさまじい人生を幾度となく繰り返してきました。まだまだ不明のところが在りますが、情報を交換できれば、幸いです。

何卒よろしくお願いします。

 

木内さんへ

うれしいご連絡をいただき、ありがとうございます。

木内さんのご先祖の木内武次郎と私の先祖の井川嘉平とが、同郷で、明治22年篠路兵村に屯田兵として入植したのですね。

私も最新号の「屯田」を読み、先祖が稲田騒動にかかわっていたのかと考え始めていたところでした。この点、くわしく教えてください。

念のため、これまで一部実名を伏せてきた高祖父(井川嘉平)はじめ、私が把握している先祖について書きます。(生年は省略)

  

     井川賢蔵(阿波国三好郡祖谷村で出生)妻はダイ

          蜂須賀家に仕える郷士と伝え聞いている。

        ❘

     井川惣助(後に嘉平と改名)妻はウマ  屯田兵篠路兵村入植

        ❘

     井川宇八(篠路屯田兵に同時に入植した中山景太郎

        |  株養子になり、中山茂三郎と改名)妻はサト

          日露戦争に出征、南カラフトに移住。

          姉の夫が井川平八、同じく屯田兵篠路兵村入植

     中山カツヱ(石川県出身の長濱家に嫁ぐ)

        |

        母(福井県出身の見延家に嫁ぐ)

        |

       典子

木内さんがおっしゃるように、私たちが教わる歴史は表舞台に現れた一部の人々にまつわる話です。その陰で地を這うように生きた私たちの先祖のような者たちもいたのだということを、微力ながら掘り起こしていきたいと思っております。

父方「見延」のルーツについてもこのホームページを通じて、福井県の見延家から連絡をいただき、いろいろなことがわかってきました。インターネットの力はあなどれません。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

                       見延典子

 

 

屯田郷土資料館(北区屯田町づくりセンターに併設)を見学中、多くのパネルの中に、曽祖父の弟の井川兼吉と義兄の井川平八の写真を発見。

前列右端が曽祖父の義兄の井川平八。後列左から2人目が曽祖父の弟の井川兼吉。
前列右端が曽祖父の義兄の井川平八。後列左から2人目が曽祖父の弟の井川兼吉。

弟の井川兼吉も曽祖父一家と共に徳島から篠路兵村に入った。長じては曽祖父に代わって井川家を継ぎ、篠路兵村に残った。

2人とも名前だけは知っていたが、写真を見るのは初めて。

中隊本部のあった辺り
中隊本部のあった辺り

明治22年、最後の士族屯田兵として220戸1056名の屯田兵とその家族が入植した篠路兵村。今は閑静な住宅街になり、かつての歴史を知る人は少なくなっているという。

 

 

2016・10・29

屯田兵 縁戚の写真を発見

 

札幌市西区で屯田兵の史跡を巡ったあと、札幌市北区屯田へ。ここは私の曽祖父が入植した篠路兵村があった場所だ。

徳島県出身の井川平八は子どもの頃家族を失い、井川家で育てられた。明治22年、曽祖父の姉と結婚し、曽祖父とは別口の屯田兵戸主となって篠路兵村に入植した。

周辺には篠路兵村関連の記念碑が建つ
周辺には篠路兵村関連の記念碑が建つ

井川兼吉は祖母の兄弟にそっくり。血縁とはすごいと思う。係員の話では、井川家の子孫は今もこの屯田の地に住んでいるとのこと。

かつての防雪林
かつての防雪林

「屯田の森」は札幌西区役所の横にある。
「屯田の森」は札幌西区役所の横にある。

琴似屯田兵村兵屋と同じ年に建てられたが、移築されたため国の指定史跡にはならなかったという。

2016・10・28

屯田の森&琴似神社

 

琴似屯田兵村兵屋跡から徒歩5分のところに「屯田の森」があり、ゆかりの碑が数基建っている。

さらに「屯田の森」の正面にある「琴似神社」の境内にも屯田兵が暮らした兵屋が移築されている。

間取りはまったく同じ。ただ、こちらの兵屋のほうが当時の屯田兵の暮らしぶりを生々しく伝えているように感じた。

 


9時~16時 入場無料 管理人が常駐
9時~16時 入場無料 管理人が常駐

宮城県出身の屯田兵と家族が実際に住んでいた兵屋を解体、昭和47年に復元したもの公開されている。

入地したのは屯田兵198人、家族とあわせて965人。兵屋は一戸あたり、150坪の敷地。開墾地はこれとは別に一戸あたり5000坪が与えられたという。

兵屋の裏の畑には、屯田兵や家族たちがつくっていた大根などの野菜類が育てられている。

2016・10・25

国指定史跡 琴似屯田兵村兵屋跡

 

函館本線JR札幌駅から西に2駅の琴似(ことに)は、明治8年屯田兵が初めて入植した地である。

当時の屯田兵
当時の屯田兵

居間兼台所の10畳ほどの板張り、8畳と4、5畳の畳の和室、土間という造り。いろり一つで、冬の寒さをのりきらなければならなかった。苦労がしのばれる

8畳間に置かれた銃座(銃を立てかけておくもの・写真上)は開墾とともに課せられた屯田兵の「防衛」という勤めを物語る。


   見延典子
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