木内由晴(大阪府在住)さんの先祖の「木内武次郎」と見延典子の先祖の「井川嘉平(惣助)」「井川平八」は明治22年、徳島県から北海道篠路兵村に屯田兵として入植。そのことを見延がブログで書いたことから交流が始まり、目下、協力して互いのルーツについて調べている。

2017・9・7 長寿の秘訣

 

札幌で暮らす老母が卆寿(90歳)を迎えた。私は参加できなかったが、姉や妹の家族に祝ってもらったそうだ。老母に見る長寿の秘訣は

①一日3食、自分で料理して食べる。②畑仕事で身体を動かす。③カルチャーセンターに通って人と接する。④よく笑う。⑤なにごとにも前向きというところかな。老母の誕生日は愚息の誕生日。不思議だな。

Happy birthday!!

 

 


2017・8・26 山口雅史さん 🔁 見延典子「井川平八の子」

 

見延典子さんへ

早速の返信、ありがとうございます。

札幌の母に聞きましたら、平八じーさんの長男は戦死したとのことでした。

現段階ではこの程度しかわかりません。お役に立てなくてすみません。

                          山口雅史

 

山口雅史さんへ

 

北海道に渡ってからの井川一族については、老母の従兄弟で、今は亡き中山富照さんが「私たちの家系と篠路兵村』(平成7年刊 左の写真)という私家版を残しています。

わずが20ページ足らずの冊子ですが、私の先祖についての多くの情報が詰まっている一冊です。


 

この中で、山口さんのお祖父さん「井川文治さん」についても触れています。井川平八とリキ夫妻には5男1女がいて、「井川文治さん」は4男のはずです。(中山富照さんは屯田墓地に通い、墓碑などから系図を割り出していったようなので、多少間違いはあるかもしれません。)

 

さらに出典を『屯田九十年史』と明記した上で、「井川文治…満州事変、日支事変、太平洋戦争に出征し、無事帰還」と書いています。

 

「井川文治さん」は北海道の第七師団から三度も出征し、無事生還。だから山口雅史さんのご母堂、そして山口さんがお生まれになったのですね。

 

山口さんが書かれている「井川平八の長男は戦死した」という話は初めての情報です。屯田兵として四国徳島から遠く北海道に渡り、開墾と兵役の日々、挙句、大切な息子を戦争で失った井川平八がどのような思いを抱いたのか、聞けるものなら聞いてみたい思いです。

 

今後ともよろしくお願い申し上げます。

                          見延典子

 

2017・8・25

       山口雅史さん「初めまして。井川平八は私の曽祖父です」

                         🔁 見延典子

 

はじめまして。井川平八は私の母親側の曽祖父に当たります。

 

私は大学卒業までは札幌在住でしたが、今は香川県高松市で起業しています。親戚からは「平八じいさんに代表して四国呼ばれた」と言われています。私の祖父は井川文治で平八じいさんの次男?(平成17年に他界)らしいです。

 

情報交換できれば幸いと思い、メールしました。

                        山口雅史

 

山口雅史様

 

驚きました。嬉しいご連絡をいただき、ありがとうございます。

 

以前も載せましたが、札幌の屯田資料室にある「井川平八」(前列右端)の写真です


 

伝わっている話としては、「井川平八」は子どもの頃、両親を含む家族をすべて病気で亡くし、そこで私の高祖父が育て、長じて娘の婿としたというものです。

 

残念ながら、「井川平八」の「井川」になる以前の姓は伝わっておりません。何かご存じでしょうか?

 

いずれにしても、「井川平八」の妻は私の曽祖父の姉ですので、山口さんと私は縁戚関係があることになります。

 

今後とも情報交換をよろしくお願い致します。

                        見延典子

 

 

2017・8・15 見延典子 → 木内由晴さん

                  「国家プロジェクトの末路」

木内由晴様

お問い合わせ結果をご報告いただき、ありがとうございます。

 

現在「頼山陽文徳殿を考える」を書いており、その中で「国家プロジェクト」という言葉を使いました。屯田兵制度も明治6年に実施が決まり、明治37年に終了した「国家プロジェクト」です。神奈川県以外の45都道府県から集められた屯田兵は7、337名。家族を含めれば14、000名余りが北海道の開墾と防衛に携わりました。

にもかかわらず、屯田兵の個々に関する記録が残っていないなんて…

 

先日、広島市比治山にある陸軍墓地に参ってきました。ここには西南戦争、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などで戦死した全国46都道府県の兵士の墓が並んでいますが、驚くことに地図に載っていません。頼山陽文徳殿とともにこの陸軍墓地は、「国家とは何か」をダイレクトに考えさせてくれる数少ない場所です。

地図に載っていない広島市比治山陸軍墓地 写真 / 見延典子 2017・8・9
地図に載っていない広島市比治山陸軍墓地 写真 / 見延典子 2017・8・9

北海道に置かれた大日本帝国陸軍第七師団は明治29年、屯田兵が母体となって創設されました。明治37年、日露戦争の旅順攻略戦、二百三高地の最終戦に決死隊として投入された中にも第七師団の現役兵がいますし、その後満州にも派遣され、太平洋戦争も戦いました。調べてみると、私の遠縁の者も出征し、命を落としています。

 

木内さんのご先祖一家は満州に渡り、そこで終戦を迎えたのでしたね。屯田兵だった私の曽祖父中山茂三郎一家は樺太で8月15日を迎えました。昨夜NHKの番組で、樺太では終戦後も戦争が続いていたことが放送されていましたが、その通りです。曽祖父一家は南の真岡方面には逃げず、居住地(ロシアとの国境あたりに住んでいた)にとどまり続ける判断をして命は助かったそうです。8月15日は終戦の日ということで、とりとめもなく書きました。

 

現在、ルーツについてまとめ、篠路兵村の地図を取り込んだところですので、載せます。「188木内武治郎」「169井川嘉平(中山茂三郎の実父)」「229中山茂三郎(但し養子縁組後)」。明治22年、私たちの先祖は確かに札幌の篠路兵村の地で暮らしていたのです。

                         見延典子

 

2017・8・14 木内由晴さん → 見延典子

                「屯田兵の情報収集の結果」

 

見延典子様

ご無沙汰しております。暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、その後国立公文書館、国防省、防衛研究所、アジア歴史研究センター及び日本郵船に問い合わせて屯田兵の情報を収集しましたが、屯田兵の記録や志願時の情報は残っていませんでした。徳島県や徳島市や北海道や札幌市の情報も皆無でした。

 

屯田兵の歴史についても小学校でほんの少し教える程度ですが、北海道に行けば屯田兵の歴史が学べるだけでも幸せなのかもしれません。従って、私の先祖の木内武治郎が徳島のどこの出身なのかは永遠にわからないのかも知れません。また、稲田藩か徳島藩かも知ることはできないかも知れません。

 

少なくてもしなければならないことは家系図を作成して子供たちに伝えることなのかなと思っています。久しぶりに歴史の旅をさせていただいたように思います。

ありがとうございました。

 

2017・7・19 木内由晴さん 🔁 見延典子「田宮村」③

 

見延典子さんへ

 

見延の問い

「稲田家家臣は稲田騒動の折 り、無抵抗を貫いたとあり、木内さんが最初におっしゃっていた「先祖は人を斬った」という話と矛盾します。」

 

木内由晴さんの答え

「先祖は人を斬った」とは伝承です。正確性がありません。実は木内重幸が満鉄に勤めていたお話をさせていただきましたが、概ね正確に伝承されておりましたが、満鉄の天野さんによりますと騙されて中国の裁判に掛けられるケースがあったが、戦犯容疑ではなかったそうです。満鉄には社長以下取締役がいる国策会社であり、惨事とはいえ取締役以下の役職ですので、戦犯容疑は間違っていたものと思います。このように伝承の部分についてはあいまいな事項が入っているものとわかりました。大変申し訳ありませんが、「先祖は人を斬った」と言うのは不適切でした。正確性に 欠ける内容をご報告してしまいました。

また、明治3年に稲田騒動と明治22年7月に北海道篠路に入植したことも、かなり年月が経過しているので、関連性が低いものと考えております。、見延様の推察どおり、貧困であったので、屯田兵に志願したと言うところだと思います。

 

木内武治郎が徳島県の何処の出身か調べております。この出身地がわかれば、すべて解決できるものと考えます。

現在防衛省に屯田兵に関する人事記録を確認しております。また、相模丸の乗船記録や乗船名簿をもあわせて確認しております。なお、日本郵船について

は相模丸の乗船名簿や記録は存在しないことを確認しております。

 

最後に木内家には記録されたものは存在しません。すべて口承であり、大変ご迷惑をおかけします。只今順次照合しておりますので、もうしばらくお待ちください。その他お伝えしたいとこがありますが、本日はこれで失礼します。今後とも何卒よろしくお願いします。

 

                                   木内由晴

木内由晴さんへ

 

これまでお伝えいただいていることが「伝承」ということで、そこに私の勝手な「空想」をまぶすと、とんでもない「虚構」が一人歩きしそうですので、確実な事実が出て来るまで、木内家のルーツについての言及は避けたいと思います。

 

とはいえ、あれこれ調べ、想像した結果、見えてきたものがあることは、お互いにプラスであったと思います。

 

私のルーツについてはまとめの段階に入っています。

母方の中山(井川)家が屯田兵に応募したのも、福井県の父方見延が北海道に移住したのも、生活の困窮が原因だと考えています。ただ、中山(井川)家にしろ見延にしろ、生活が困窮してもなお、故郷に残り続けている親族はいるわけです。移るか残るか、そのあたりの葛藤と判断について思いを馳せる日々です。

                          見延典子

 

2017・7・18

 木内由晴さん 🔁 見延典子「田宮村」②

 

見延典子様

 

・田宮村について徳島県立文書館に問い合わせをした結果の内容を切り取ってそのまま記載します。尚、田宮村については、唯一(木内の)戸籍に井内家と養子縁組をした記載がある だけです。

 

「田宮村は、もともと徳島市内近郊の村(徳島の町外れである佐古・助任などと近接しているような村です)で、余り大きな家臣の一円給地のようなものはなく、小さな家臣が少しずつ給地を持っている村です。約748石の村の内、52石が蔵地(徳島藩の直轄地)、その他17人の家臣知行地と3ヶ寺の寺領があり、大きな給人は、山内忠兵衛108石、長谷川所左衛門112石、西尾数馬172石、片山勝三郎52石、等となっています。 直接本を見ていただければと思いますが、稲田の関係者の給地は見えないようです。参考文献『旧高旧領取調帳 中国・四国編』近藤出版社(現在は倒産)より」

 

・見延の問い

「旧蜂須賀家と旧稲田家の混合チームではなく、旧稲田家の単独チームだったのではないでしょうか。」

 

木内由晴さんの答え

「あくまで伝承ですが、私の先祖も郷士だったように聞いております。」

 

徳島県立文書館からの回答。

「徳島からの渡道の内屯田兵については、直接の募集に応募をした可能性が高いと考えられますので、蜂須賀家の家臣か稲田家の家臣かはあまり関係がな

いと思われます。特に徳島県内では直接の衝突はなかったため、大きなしこりにはなっていないように思えます。(北海道でも蜂須賀家と稲田家は交流があっ

たとも伝えられています) 」

                                 木内由晴

                                       続きます。

 

徳島城下稲田屋敷があった場所。オレンジ色
徳島城下稲田屋敷があった場所。オレンジ色

さらにインターネットには徳島城下の地図が多数載っていることに気づき、田宮村を調べました。赤丸〇が田宮村の位置です。江戸時代初期も、中期も、田宮村には「侍屋敷」などの書き込みがありません。

徳島城に近いことから、木内家は蜂須賀家に家臣と考えてきましたが、失礼ながら、これらの地図からはその想像にはムリがありそうです。

2017・7・14 

見延典子 🔁 木内由晴さん

「田宮村」

 

木内由晴様

 

徳島城下にも稲田屋敷があったことを知り、調べてみるとJR徳島駅南東の「幸町」という場所でした。

練兵場がある明治の地図でも白紙に近い状態です(下)


逆にわかったことは、屯田兵を出している「富田浦町」「寺嶋町」は比較的稲田屋敷に近いということです。

 

屯田兵に応募した人々はなんだかの水害、洪水で土地を失った人であるという考えに変わりはありません。その上で、明治21年の新琴似兵村、22年の篠路兵村とも、旧蜂須賀家と旧稲田家の混合チームではなく、旧稲田家の単独チームだったのではないでしょうか。つまり木内さんのご先祖も稲田家の家来ということになります。

 

しかし稲田家家臣は稲田騒動の折り、無抵抗を貫いたとあり、木内さんが最初におっしゃっていた「先祖は人を斬った」という話と矛盾します。またこれらの地図だけで、田宮村が稲田家の配下にあったことは証明できません。

 

あっちへいったりこっちへいったりで、申し訳ございません。お時間のある時にでも、またご意見を聞かせてください。

                       見延典子

 

 徳島県 木内家の子孫分布図
 徳島県 木内家の子孫分布図

その後私は満鉄会が解散した記事を見たため、時すでに遅しかと少々焦りましたが、満鉄会の天野様に連絡が取れまして、南満州鉄道での祖父木内重幸に関する情報を取得することができました。

徳島県 井川家の子孫分布図
徳島県 井川家の子孫分布図

2017・7・12

木内由晴さん 🔁 見延典子

「徳島県 子孫の分布図」

見延典子様

 

ご無沙汰しております

徳島県の井川家の墓所に行かれた記事を拝見し、とうとう核心部分に到達されたものと思いました。

徳島県 井内家の子孫分布図
徳島県 井内家の子孫分布図

北海道は屯田倶楽部の梶田様及び札幌市公文書館のお蔭で、篠路屯田についてご教示をいただき、木内武治郎に関する情報を取得することができました。

 


戸籍に残る田宮村に関しては徳島県立文書館に情報の収取を依頼しましたが、木内家に関する情報を取得することはできませんでした。明治227月に見延様のご先祖様とともに、おそらく咸臨丸に乗船しているだろうと仮定しまして、徳島県に乗船記録の類や屯田兵に関する記録等の情報を頂戴したい旨連絡をしております。しかし、現時点では徳島県に記録が殆ど残されておらず、徳島県民の記憶からも屯田兵に関する歴史が消え失せてしまっているものと感じました。だだ、現存する井川様の子孫、木内の子孫、井内の子孫の分布図を見て、井川様の子孫、井内の子孫は吉野川に沿って分布しており、木内の子孫は南北海に沿って分付していることが分かりました。

                                            木内由晴

 

 

木内由晴様

 

先祖墓参の報告が諸事情により切れ切れになったことをお詫び致します。

今回の徳島行きでは、これまで以上の調査結果は得られませんでしたが、父祖の地を自分の目で確かめられたことは大きな感動でした。

 

父祖の地「美馬郡郡里(こおさと)村」は間違いなく稲田氏の知行地です。「郷士」であった先祖がどのような暮らしをしていたか定かではありませんが、扶持をもらったとしても微禄で、農民として独立し、逆に稲田氏を支える側に回っていたのではないかとも考えております。

 

徳島城下も訪れました。「田宮村」にお住いだったという木内さんのご先祖は私の先祖とは違い、蜂須賀家の直臣だった可能性が高いのではないか、というこれまでの想像が変わることはありませんでした。

 

送っていただいた「子孫の分布図」ですが、井川家の子孫については300名ほどの名簿を持っております。徳島に残る者また徳島から離れている者、様々で、「人というのは移動するもの」との感を強く致します。

 

余談ながら、私の先祖の「井川惣助」は屯田兵に応募する際、年齢制限に引っかからないように、年齢を偽り、名前も「井川嘉平」に変えています。また息子の「井川宇八」は長男にもかかわらず、生きていくため株養子となり、「中山茂三郎」と改名します。あるいは木内さんのご先祖にも同様の試練があったのではないかと思い、書き添えます。

 

                         見延典子

 

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