そうそう、お盆を過ぎた頃よりめっきり稲穂が出てまいりましたでのう。昔の体育の日ごろにゃあ、いよいよ稲刈りとなります。トンボも乱舞しております。そして、朝にはもちろん朝露が朝日に輝き、梅庵のこころも益々清浄になってしまうんで~す?
しかし、山を越して広島市内に買い出しに行った日にゃ(今日22日のことですが)、雲がもくもく出とったんじゃが、暑い暑い。まちはいけませんの。ビルだらけじゃ。梅庵、早々に山へと退散した次第であります。
2017・8・23
梅庵さん「里山に秋の気配」
朝晩はめっきり涼しくなりましたのお、などと言うと怒られそうじゃがここ山里では本当なんです。田んぼに引いた水のお蔭か山の木々のお蔭か、つい朝方にはタオルケットを腹に掛けねば風邪を引いてしまいそうなんです。
ついでに田んぼの端っこに植えた栗の木もイガをタワワに実らせ始めとります。まあ、つまり、秋はすぐそこに来とります。
実は、梅庵、たまにホームセンターで桜の幼木を買うて来て、気が向いたら川ゲシに植えとります。何でかというと10年先には川沿いで花見と時化込みたいと思うんです。成長した桜の下、草の上に大の字に寝っころがって、燗酒をちびりちびりと参りたいぞと思うんです。どなたか、お付き合いくだされ~
次の涼を呼ぶ写真はこちらでございまする。(右下)
おお、大西さんとこのイノシシ檻の中に、かわいい熊さんが。梅庵の背中には、やがてヒンヤリしたものが流れ落ちました。こりゃあ、山の芝刈りは当分控えんとなりませんの。
2017・7・24
梅庵さん「涼を感じて…」
こんにちは。はや夏バテの梅庵です。今年は暑い。昔は暑くても30度ぐらいで、今にして思えば過ごし易いこと限りなしのパラダイスの日々じゃったですの~ 今日は皆さんにもいささかの涼を感じていただきたく、梅雨明け前日の朝の様子をお見せいたしましょう。
この谷はすぐ霧が立ちまする。よういやあ、神錆びた、朝霧立つ山里でございまする。なお、田圃の水は『切って』おります。
菅原道真伝説の当事者・Rさんのfacebookよりお借りした檻の中の子熊くん。目つきがええですの。じゃけど今頃、お母さん熊は、相当怒っとるじゃろうの~
どうですかの?いささか寒うなったですかの?
この谷にゃ、猿やタヌキやイノ猪はようおりますが、熊さんはアジア大会以来ですかのう。
ピントがずれとりますが、許してつかあさい。携帯のカメラで肉薄した蛍(写真上)であります。深夜、オッサンが道でヘンな格好してようやっとこの映像をゲットしたわけです! お詫びにというか、いかに梅庵の里が自然豊かかということをお見せいたしましょう。まず最初は、田圃で蠢くおたまじゃくし(右の写真)
ざっと、50センチ四方に50匹はおります。低農薬栽培のタマモノですのう(エヘン)。じゃが、オタマさんがカエルさんになった暁にゃ、ご存じかもしれませんが、夜ウルサイのなんの。
2017・6・21
梅庵さん「気楽な山里暮らし」
旅猿ツアーの「三谷春」では、純米大吟醸を「飲み放題」と勘違いしてた梅庵です。帰宅後は安酒で晩酌。
酔い覚ましに夜道を散歩、と洒落込みます。カエルが鳴きやみケモノの気配が去り、せせらぎの音がしてくると、昔のようにとはまいりませんが、今もホタルが僅かですが、舞います
そしてこれはおわかりになりますかいの? ありゃあ、雨樋に紐でもまいて、なんかの目印にしとるんじゃろう。とお思いでしょうか?(左の写真)
もうちょっと近寄ってみるといたしましょうか(下の写真)
まあ、三谷春の純米大吟醸でも嗜みながら、ゆっくりご想像くださいませ。かように、気楽な山里暮らしは、延々と続くのでした。
しかしここからがお天道様との「密なるコミュニケーション」のはじまりであります。一喜一憂です。まあ、要するに、毎日早朝から、しばらくは小川から適量を田圃に引き入れ、維持管理するということでありましょうや。流川なんぞ、とんでもない。ここの小川と田圃と四六時中ニラメッコであります。(理想は)
ことしも逢ったのう。彼がシマヘビの『しまくん』ですう。このようにお米ができるまで、さまざまな生き物との『交流』がございます。なにも『しまくん』のみならず、毎日うるさいカエルくんやら。まあ、一言でいやあ、自然との共生から米づくりは続きます。
2017・6・2
梅庵さん「田植え終了」
毎朝5時には田圃に出かけ、『水回り』に精を出す、精進中の梅庵です。そうです、『水回り』しとるとゆうことは『田植え』も先週無事終ったということであります。めでたや、めでたや。
こんな水路から水を田圃に入れます。ところで読者諸賢のみなさま、お気付きになられましたかいのう? 写真下部に縄のようなものが存在していることを。
(どうしてもヘビが苦手な方は、下の写真はみないでくだされ)
これからしばらくは、お天道様とのニラメッコがはじまります。小さな「ダム機能」を備えた畔で田圃の水管理をやって行きます。これがコメ作りでも重要なポイントのひとつで、いはゆる「水回り」は欠かせません。早朝、田圃の周りをひたすら歩くんですが、しこたま「労働燃料」を前夜にたっぷり注いだ日にゃあ、天罰が下ること、請け合いです。
ところで、だいたい田圃と左側の谷川(草でよく見えない)あたりにシマヘビがよく遊んでます。谷川では、梅庵、よう魚を握って捕まえたもんです。ヌルっとした感触がええんです。でもヘビのヌルッとしたやつは苦手です。シッポ捕まえてグルグル振り回すんは、まあ、面白かったです。ちいさいころのはなしです。今は頼まれてもやりません。
2017・5・23
梅庵さん「田植え」
谷の桜は既に散り蛙が啼く五月、ご近所では田植えが既に始まっておりますが、「あぜ道で昼寝しとるヘビさん何するものぞ!~」。梅庵(おとこ)の季節がやってまいりました。
わたしゃ、どうも長いもんが苦手ですのう。どっちかゆうと、長いもんには巻かれて、昼寝しとりたいええ季節にもなりました。今週は「代掻き(しろかき)」のあと、梅雨入りまでには田植え」を済ましてしまおうと思います。
さて、先日ようやく田圃に水を入れ始めました。小川から引き込んだ水路を木板で少し堰き止めると一晩で満水状態になります。
今日は古代山陽道から、現実の米作りの話に戻したいと思います。じつはご報告がおそくなったんですが、先月は田起しでした。そういえば祖父は牛(で曳いた鋤)で土を起してました、が、今はさすがに機械化されとります。
2017・4・17
梅庵さん「田起こし」
石内の谷あいではまだ朝晩は冷えますが、ようやく春本番であります。雷さんも動いとりますのう。そんな季節の変わり目を捉えて、いつかのんびり句作にでも励んでみたいものじゃ、といつも思う梅庵です。
この谷筋の上流エリアには、近年有名になってきた「神原のしだれ桜」がございます。梅庵は子供のころ、「桃源郷」とは、多分こんなところのことをいうんだろうなあ、と思ったりしとったもんです。今ではすっかり西風新都エリアになっとりますが、どっこい、「神原のしだれ桜」は健在でありました
先日の当HPのトップの写真が「神原のしだれ桜」だったのには驚きました。プロとアマの落差も。
2017・3・22
梅庵さん「古代山陽道」②
さて、古代山陽道は「影面(かげとも)の道」と石内では(も)呼ばれておりました。
時は大化の改新(645)の後、律令制が整い、地方の物資・税や情報を都に集中させるため、あるいは官吏・公使の往来をスムーズにするため、七つの官道がつくられました。
その中でも山陽道はとびっきり重要な道として唯一「大路」に指定されてます。日本一であります。東海道(たぶん中)よりも重要だったのは当然ですが、都と大宰府を結ぶ道であり、大陸の「先進文化」や海外の賓客を都まで運ぶ道として、別格だったといわれています。
平安時代初期の延喜式によれば、安芸国には13箇所の駅家があり、うち佐伯郡には伴部、大町、種箆(へら)など5箇所ありました。そのひとつであった大町駅は、諸説ありますが、どうやら石内原田付近にあった(広島市歴史科学教育財団)ようです。石内飛び地には郡(こおり)という地名が残っており、バス停の郡橋(こおりばし)は今もありまして、そこらへんに佐伯郡の郡衙(役所)があったのも間違いないところでありましょう。
ついでに申すようで申し訳ないんでありますが、広島湾の海辺(井口、草津、古江)に道ができたのは比較的新しく12世紀になってからで、西国道にいたっては、まったくもってよくわかりません、、、。もしいまも在住の方がいらっしゃいましたらお気を悪くせんようたのんます。こりゃあむかしばなしでありますんでのう。
つまり、、、いにしえの石内は古代山陽道を中心にはなやかな文化も流れていたのでありましょう。ですから、不思議な菅原道真伝説がいまもって里に伝わっているのかもしれません。
参照:「古代山陽道影面の道」(広島市/佐伯区散策マップ)
2017・3・12
梅庵さん「古代山陽道」①
里の紅梅、白梅の枝に今年も鶯がやってまいりました。天気がいいと一生懸命に唱和したりして孤独を紛らわせている梅庵です。
さて、古代山陽道をいきなりですが、みなさまにお目にかけましょう。これが「ザ・山陽道」であります。(写真左)
ちなみにこの道は、梅庵の石内保育園、石内小学校時代における思い出の通学路でした。いまでは舗装されておりますが、小学校のころ、まだ普通の(土の)小道だったとき、たとえば、寛永通宝が落ちておったりしたもんであります。交番というもんが石内には(今も)存在しておらんので、止む無くマイ宝箱(おかしの箱)にて保管しておりました。そういえば、弥生持代のあの石斧もマイ宝箱に今もおもおもしく鎮座しておられます。なお、谷を横切る上部の無骨な高架橋は現在の山陽道であります。そのうしろは高山方面です。
2017・3・16
梅庵さん「石内の由来」③
ところで「石道」は、戦国の世なんぞなければ、なかなかに由諸正しかったようで、厳島神社の文書にしばしばでてくるのも「石道」であります。
コメの献上とか、改修工事にお手伝い云々とか、すでに平安時代のおわりには厳島神社神領地として石道の名が宮内、平良らと一緒に出てまいります。
そもそも、どうして「石道」になったかというと、「芸藩通史」によれば、「昔は石道村と称す。谷間の道、石多きが故に名とす、されば内道訓が転ずるなるべし」、とのことであります。そして、(石道・飛び地「郡」は)古代の佐伯郡衙の所在地にかかわる地名と考えられる(日本地理大辞典)、とも。
ということは、いきなりではありますが、現石内は、古代からの(都と大宰府をつなぐ)山陽道における要衝の地であったのは間違いないのであっりましたあ!(つづく)
2017・3・14
梅庵さん「石内の由来」②
こりゃあたぶん、毛利氏が佐伯郡を手中におき体制も堅固なってから、大内とか武田とかの手垢にまみれてしまった「石道」という名を、権力者の常ではありますが(織田信長が「岐阜」を、毛利氏は五箇村を「広島」に、とかロシアでは、、、)
「ええい、これからは石道あらため石内じゃあ~」
と変えてしまわれたのじゃろうと思われます。ちなみに頼山陽も寿司食べながら、おおこれは「石内米」だと認識しておったんでしょうか。
さて、ついでに「佐伯」のように「石内」を冠した地名や高名な方といえば、写真家の石内郁氏が思いつくぐらいでありますが、氏は関東の方だったはず。石内(尋常)小学校の大先輩といえば新藤兼人ですが、う~ん。本稿ではあんまり関係ないしなあ。
2017・3・13
梅庵さん「石内の由来」①
ようやく春めいてきた田圃に出て渋い一句でも吟じてみたいもんじゃのうと思いつつ、いつも日が暮れると早々に「八幡川」の一升瓶を抱え込んでしまう梅庵です。
件の厳島神社献上米ばなしのついでに、今日は佐伯とか石内とか石道の話に少々お付き合いくだされ。
「佐伯」については、古来、厳島神社の神主家佐伯氏とか、空海も讃岐佐伯氏が出自だとか、まあ九州にも佐伯市があるし、梅庵にはよおわかりませんが、美肌専門家?の佐伯チズ氏とか、たしかカープ初優勝にはなくてはならなかった佐伯投手とか、その奥深さは恐るべきものがあるような気がします。
しかし、わが「石内」の方は、はなはだ心もとないもんであります。実は、古代から脈々と続く大変に由諸ある名称だと、小生はここで断言したいんですが、江戸時代に石内村がまとめた「国郡志下調書出帳」によれば、寛文(1661-73)年間に「石道」から「石内」に変わったと記されてますし、いやいや、元和5年(1619)の安芸国知行帳にはすでに「石内」の名がみえます。ついでに角川日本地名大辞典をめくってみにますと、かの毛利氏が大躍進中だった天正6年(1578)には「石内八幡宮」(現:臼山八幡神社)の名前が既にあるということまでは判明しました。
続きます。
まずは玄米で。今は炊飯器も多機能になっているが、それでも玄米は白米の2倍の時間がかかる。究極のスーロフード。ゆっくり噛み、味わいつついただく。
2017・3・10
梅庵さんの「石内米」
報告が遅くなったが、梅庵さんが作った噂の「石内米」を購入。
2017・2・15
梅庵さん
「石内米 厳島神社に献上」
里の紅梅を愛でつつ、そこで一句、いつかは吟じたいな、といつも思う梅庵です。
さて今日は、先だってのアドバイス、「頼山陽は『あべかわ餅』はじめ餅類が好物でした。山陽のお母さんの『梅
颸日記』には『鮓(すし)』をつくった記載がときどき出てきます。つまり頼家の皆さんは寿司を食べていたことになります。ただ、石内米だったかまでは確認できません。『芸藩通史』あたりに出ていないでしょうか。」
をきっかけとさせていただいて、その頼山陽のおじさん頼杏坪が主に編纂した『芸藩通史』から調査を開始いたしました。が、「石内米が寿司(鮓)米じゃった」なんぞの記述は残念ながら見当たりません。う~ん。ただ、その基本文献となった『国郡志下調帳』に基づいた『石内村郷土史』(石内村は昭和30年に五日市町に吸収合併され消滅)によると、、、、う~ん、
そこにもやっぱり、「石内米=寿司米」を裏付ける記載はございませんでした。
が、なんと、厳島神社に献上していたことはどうにか判明いたしました。ええようにいやあ、まあひとつの「皇室献上云々」の広島バージョンでしょうか?
そこで、「なんで石内米が厳島神社に?」と思っていろいろ資料をあさってみましたが、廿日市町史をめくってみるとようやく、資料編Ⅰの中にあ、あ、ありましたあ。
応永4年(1397)の厳島社領注進状管領斯波義将外題評判(巻子本厳島文書)のなかに、佐東郡(当時の佐伯郡の名称)神領に、己斐や大塚に交じって石内(当時は石道)の名が。なるほど神領なので厳島神社に献上しとったんですの。
(財)広島市ひとまちネットワークのいしうち探検講座「いしうち年表体郷土史」にはそのころの様子を、
「その頃石道は豊富な良質米の産地として戦国武将の垂涎の地であった。」
「(武田氏は石道で厳島神領と接していたため)神領地の争奪をめぐって神主家と武田氏、防長の大内氏との間で争いが絶えなかった。」と描いてます。
まあ、ぶっそうなことはさておき、石内では縄文時代には瀬戸内海の海べりであり、弥生時代の集落跡も判明しています。梅庵も幼少の折、石内の新宮山で石斧を見つけて遊んだもんです。だから厳島神社のあとかさきかはよおわからんですが、えへん。石内は2000年前からコメ作りが盛んじゃった、ということで今日はおしまいです。
今週だったら雪でちと開催不可能だったんじゃと思いますが、先日(9日成人の日)は前日までの雨も上がって青空も見え、ええ「とんど日和」でありました。
青竹に火が付き煙が勢いよく上がり始めますと、いつの間にか集落の人が集まってきます。おそらく戦国の動乱期以外は、こんな感じで近在の人が集まって、年の初めの共同作業でもあったとんどのお祭りを執り行ったんでしょうか?まあ、現代版狼煙ですかのう。
2017・1・16
梅庵さん「とんど焼き」
山で竹切っとたら新年早々、谷に落ちそうになった梅庵です。
先週集落でとんどがつつましく執り行われましたんでご報告させていただきます。
毎年たんぼの中にとんどを組みますが、今年は雨でぬかるんどったんで、集会所の空き地に「ミニ版」がしつらえられました。梅庵も裏山で竹を切り出しました。ちょっと危なかったけど。
餅が焼けるまで、寒いんでカッポ酒で温まります。竹の香が染み込んだ燗酒は、こりゃもう、たまりませぬ。
しこたま酔っ払った頃合いでしたが、ふと空を見上げると集落のたんぼの上に虹。こりゃあ、今年も豊作間違いなしですのう!
2016・12・21
梅庵さん「教授から『日本外史』」
日夜、不動心を鍛えようとして、ただ悶々とする梅庵です。
先週末、頼山陽とお米で、率直に申し上げて摩訶不思議なご縁をいただきましたので、ご報告いたします。
実は小生、広島に帰郷すると同時に、広島の現状を探求せんとして?五十の手習いを始めました。
そこでお世話になったT教授が来春退官されるとお聞きしたので、勿論、石内米を退官記念の品として贈ろうと、白昼堂々と教授室に乗り込みました。
「石内米は、どうやら浅野藩の寿司米ですぜ、教授」。
すると何のことはない、ふんふんと、 軽く聞き流されてしまいましたが、
「梅庵さんに、この本を贈ります」とおっしゃった本が、なんと、あの御本ではありませんか。
いいのかなあ。こんな貴重な御本をいただいて。
う~ん。やはりこれは「頼山陽ネットワーク」に寄稿させていただく「ご加護」でありましょうか?
人生楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。ありがたや、ありがたや。
つまり、頼山陽と石内米はかくも御縁がある?、というお話でした。
ひょっとしたら、浅野藩校にも在籍した頼山陽は石内米を好んで食していた、という仮説も(当然、勝手ながら)立てられるわけです!?
みなさま、仮設立証のため、頼山陽の書のどこぞかに、「安芸の旨し米」等のキーワードがございましたら是非、梅庵までご一報くださいませ。
梅庵さんへ
頼山陽は「あべかわ餅」はじめ餅類が好物でした。
山陽のお母さんの「梅颸日記」には「鮓(すし)」をつくったという記載がときどき出てきます。つまり頼家の皆さんは寿司を食べていたことになります。ただ、石内米だったかまでは確認できません。
『芸藩通史』あたりに出ていないでしょうか。
この機は、富山県中新川郡上市町若杉2番地のマルマス機械(株)製の循環型精米機でありまして、1回に約15キロのお米を精米できます。精米手法はいたって簡単。
①まず、30~40分、精米する。
②つぎに、約10分、ヌカを除く。
2016・12・14
梅庵さん「マイ精米機を初公開」
いつも、風流な日々にあこがれつつ、俗塵まみれを反省している梅庵です。ご要望のマイ精米機を初公開いたします。
見延さん、コイン精米機はすべてオートなのでしょうか?
今はもっと便利になってるのかなあ?
まあ、いずれにせよ、水車小屋でコッテンコッテン時代と、隔世の感がございます(あたりまえか)。
ただ近年では、精米することで本来持つお米の重要な栄養素(ヌカ=糠)を除いていることに気づき、あまり使っておりません。そうはいっても、もう20年来お付合いしてきた機なので、マイカー同様、愛着はすごくあります。特にエンブレム?がヨーロッパの王室のそれみたいで、しぶい、と思えてなりません。余談ですが、渋いラベルのワインも旨いですね。
そして、その「有井城コイン精米所」(勝手な命名です)のトイメンには、石内バイパス建設により一部破壊されてしまいましたが、小高い城山がございます。
かつて南朝方の城だったとか、城主(有井氏)は土佐から、あるいは京都から来たのだ、とか、とにかく、古代からの山陽道(新しい西国街道ではございません!!)の要衝に、その有井城跡はございます。
さて、梅庵、見延さんが行かれる精米所は、当初、石内バイパス沿い、有井城前のものとてっきり思い込んでおりました。
石内バイパスのコイン精米所といえばここしかござらん。
たしかに、量販店に併設されていたとは、、、。言われてみれば、、見たことございます。
古来より、近在の田圃もまた、さまざま争奪戦の憂き目にあったと思われますが、それは、当時の幹線道路沿いで、
(地元としては)当時の流通貨幣でもあった(石内)米が旨い。
それゆえ、佐伯、大内、武田、毛利氏らによる戦(いくさ)もたびたび勃発せざるえなかったのでは、と考えます。
まあ、詳しく(正しく)は、秋山教授にお問い合わせください!
梅庵さんへ
私が利用したコイン精米機は投入口に米を入れたあとは全自動。所要時間は10キロで5分くらい。糠をとりだす手間も不要。時代は進歩しています。でも梅庵さんのマイ精米機もステキ!!
2016・12・10
タマちゃん「我が家も農家から30キロ購入」
我が家も農家からツテをたよって30キロ米袋を購入して家で精米していますよ。
これって「広島あるある」かな?
大量に精米するときは、まちかどの精米機で一気に精米します。
それは台湾へ行くときに持って行くためです。
台湾の友人はなんにも要らないからお米を~~~と言います。
ひとり3キロ×2をいつも5人で運びます。密輸かな。がはは。
農家の人が折角農薬を減らして作ったのに、農協に出したら農協倉庫で薬のシャワーでしょ。
おいしいわけないよ。よそのと混じるし・・・。
タマちゃんへ
そっか。タマちゃんも玄米派でしたか。しかも家庭用の精米機をお持ちとは。で、空になった米袋はコーナンに売りにいく。これも「広島あるある」(笑)
2016・12・9
梅庵さん「〃石内〃にコイン精米機が多い理由を推理」
尋ねの件ですが、いささか思い当たることがございますので、お伝えしたいと存じます。
ただ、はじめにお断りしておかないといけないのは、拙者、生を授かって50余年、これまで一度たりとてコイン精米機体験がございません、、、。
幼少時代の精米といえば、田んぼの横に水車小屋がありまして、コッテンコッテンと、「水力式杵」で夜通し精米しておりました。
現在ではマイ精米機で、たまに対応しております。といいますのは、なるべく玄米を食し、ややメタボ気味なボデイラインを整えたい、と考えているからでございます。
それはとにかく、本題に入らせていただきます。コイン精米機未体験者の意見として、お聞きいただければと存じます。
【仮説1】
石内近在の家庭は、自分が農家であるか、親戚や知り合いに農家がいるので、30キロの米を入手できるルートを確保している。
30キロは農協や自主流通米として流通する単位であり、基本スーパーや量販店の米ではない。
【仮説2】
30キロ袋には農家保有米という特殊袋がある。普通手に入らない。すなわち、近在の農家・その親戚知人がそれを入手して、コイン精米機を使っている。
【仮説3】
某市内の有名料理店も買い集めているのが、石内米である。そのことを知っ ている石内内外(手前みそですが、安い旨い)の人が、どこぞで30キロの農家保有米等を入手し、セッセとコイン精米機を活用している。
【仮説4・・結論?】
石内近在の家庭は、この時期、スーパーや小売店であまり米を買うことはなく、伝手を見付けて、「30キロ袋」をどこぞで入手している。したがって、石内のコイン精米機においては、30キロ袋の持ちこみが圧倒的に多い。
ところで、コイン精米機のところは石内バイパスの、有井城んとこですね。
梅庵さんへ
石内バイパス沿い「ダイキ五日市店」の駐車場には2台のコイン精米機が設置されています。写真右
※石内バイパスは1996年全
通した山陽道と五日市(広島市
西部)を結ぶバイパス。
さらに驚くべきことに、この「コーナン石内バイパス店」の入口には空の30キロ米袋が1枚28円で売られているんですよ。写真右。仕入れ先はどこなんでしょう?(笑)
しかし私が利用したのは同じく石内バイパス沿い「コーナン石内バイパス店」に設置されたコイン精米機です。写真左。
かつて穀倉地帯だった場所がホームセンターのだだっ広駐車場になっていることに胸が痛みます。ここに設置されているコイン精米機は、地主とのあいだで取り決められた、せめてもの「良心」なのではないしょうか。
追伸
水車小屋でコッテンコッテンもすごいけど、「マイ精米機」って…今度写真を送ってください。
2016・12・6 梅庵さん「石内米は献上寿司米?」
「石内米はお殿様に献上する寿司米じゃった」という古老の話の真贋を、なぜか追及せんとする、日々風流を愛するはずの梅庵です。
以下、途中報告をしたいと存じます。
石内米は旨い(特に谷筋)というのは、たしかに(経験上)事実ではありますが、江戸時代以前の広島藩の寿司米に関する確証及び記述に関する調査は、これがなかなか、簡単ではありませんでした。なんとかかんとか、たどり着いた道すじらしきものを今回はご報告いたします。
先週仕事のついでに、広島市立中央図書館浅野文庫、広島県立図書館に参りました時、まず資料調査をせんとして、「芸藩通史」等を紐解いてみました。そこには、佐伯郡石内の産物や石高は記載されておりましたが、
残念ながら、米のクオリティや寿司米等の用途への言及はありませんでした。
その時、「いよいよ困った時にゃあ、郷土史家や公民館しかないで」、自称郷土史家S氏の言葉を思い出したので、ちょっくら行ってまいりました、石内公民館。
そこでお会いしたのが奥田館長さん、旧五日市町職員出身の旧佐伯郡内の歴史にやたらお詳しい。いまは山城の研究でお忙しいようですが、快くお時間を 頂きました。なお、指導されている先生は秋山教授!
石内が源平時代を経て、武田・毛利・厳島・大内に囲まれスリリングな地域だったということで、ご多忙な中、あえて受けられらのカナ?
さて、江戸時代、広島藩が各村に提出させた村の現状調査報告書、「国郡志下調書出帳」がありますが、これは、文政二年(1819)、前出「芸藩通史」編纂のため各村の情報収集をした元データでして、その中に、以下の記載がございました。
(石内は幕藩時代)「浅野越前殿の知行地にして明和七年の調査に依れば石高二千二百三十石~」そして、諸上納物を浅野越前殿に届けており
その中には「米三斗:御給主様御見取定米」と。
ということは、、、。石内米が寿司米だった!とは断定できないのですが、なかなか期待できそう~???
御給主様(浅野越前殿)が御見取定(じかに見て ~今年は旨そうじゃのう~ええ寿司が食えるのう)とわざわざ検分された御米、というふうに地元としては解釈したいのですが、見延さん、みなさま、いかがでしょうか。そのへんのところ、是非よろしく、ご教授くださいませ。
梅庵さんへ
先日、知人から玄米をもらい、生まれて初めて「コイン精米機」(御地石内に設置)を使い、「上白米」にしました。そこで驚いたのは、ひっきりなしに客が玄米入りの紙袋(30キロ入り)を車に積んでやってくるという現実です。「精米は10キロごとに100円」という値段以前に、世間の皆様が米を玄米で入手していることに少なからずカルチャーショック受けました。米は玄米で購入というのは「石内」の常識なのでしょうか。「寿司米」よりそのことが気になった見延です。
私が暮らす地域は①清流、②寒暖の差が大きい、③肥沃な土(低農薬を守る)の条件に恵まれ、長年米作りを続けてきました。
2016・11・25
梅庵の米だより「新米」
広島市郊外で米作りに携わっている梅庵と申します。50代男性です。
先祖が浅野藩の「すし米」を作っていたという話もあり、検証中です。
今年も無事「新米」を収穫できました。機会があれば、またご報告いたします。