2021・11・21

山下幸太郎さん「森鴎外『北條霞亭』と頼山陽」

 

 森鷗外の作品に『北條霞亭』があります(森鷗外全集などに収められていると思います)。碑文を打ち込んだ際に気になっていたので読んでみました。

 森鷗外は作品の冒頭で頼山陽の墓碣銘を読み解くことから始めています。その碑文は「山陽遺稿に載せてある」とし、墓碣銘の末には「友人頼襄撰幷孤子退建」(退とは河村悔堂)が記してあるとしています。そして「今少し広く世に知られるべき筈の金石文字ではなかろうか。」とし、

山陽遺稿と石刻の文の比較を行い、二・三点の文字の相違まで指摘しています。

 頼山陽が「北條子譲墓碣銘」を作成するに至った過程について、北條霞亭が亡くなったのは1823(文政3)年です。菅茶山は山口凹巷に作らせようとしたが、文政10年に菅茶山が亡くなり、天保元年に山口凹巷が亡くなったことで、河村悔堂が頼山陽に依頼したとしています。また、この碑文は最初は750字程あったものを削って681字にしたとも記してあります。「北條子譲墓碣銘」が完成したのは天保3年ですが、頼山陽が6月に喀血し、翌月に墓碣銘を完成させ、9月に頼山陽が亡くなったという点を指摘していることからも、頼山陽にとって最後の作品とも言えるのではないでしょうか。

 

2021・11・15

山下幸太郎さん「北條子譲墓碣銘」

 

『山陽遺稿』より「北條子譲墓碣銘」を発見しましたので送ります。

おそらく「霞亭先生北條君墓」に刻まれている碑文ではないでしょうか。

九州が終わったら関東方面に移るということで、今後の一助になれば幸いです。

 

「北條子譲墓碣銘」

北條君子讓慕唐陽城為人。自命一字景陽。嘗徴余書其説。時酒間不遑詳其音。諾而未果。而君病沒於江戸。後九年。其子進之寓昌平學。計建墓碣。來請曰。在先友。伊勢韓聨王最舊菅翁嘗託之銘。未成。翁述。韓亦踵沒。使翁在。必更託之於子先人亦頷之也。余與君同庚。又前後同掌菅氏塾教。余辭君就。如代吾勞者。且進之在東。所識鉅匠匪尠。乃遠求於余。余寧可辭。況有宿諾於君乎。諱讓。通稱讓四郎。号霞亭。又天放生。志摩的屋人。其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯〇除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隠醫本邑考娶中邨氏。生六男四女君其長。幼喜讀書。考以次子立敬承家。聽君遊學。入京及江戸。學成。一藩矦欲聘致之。會聯玉來。偕遊奥。以避之。又寓越後。南歸。為勢林崎院長。院蔵書萬巻。因益致深博。素愛嵐峽山水。就其最清絶処縛屋挈弟俱居。襄研壺酒。蕭然自適。歳癸酉。遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辭。福山藩給俸五口。時名説書。尋持名之東邸。給三十口准大監察。将孥東従徙。居丸山邸舎。三年罹疾不起。實文政癸未。八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。君為人癯而晢。隆準。眼有光。嗜酒。神脱灑。而狷介不苟合。友於諸弟。交友有終始。至一同穂醉之情。〇終身不〇。而治已端愨不自欺。嘗曰學無益於己〇人猶不學也。學生洛閩而輔以博覧。患東邸士習駁雜。授小學書。欲徐導之。未遂而沒。尤善詩叙實而不俚使事而不窒清勁如其人。有霞亭摘稿。渉筆嵯峨樵歌。薇山三觀。及杜詩插注等。配井上氏。為菅翁姪。生二女。皆夭。養藩士河邨氏子退為嗣。即進之。余重進之之請。巳叙吾所知又就嵐峽。訪於其舊識僧。僧曰。吾驟往。見其焚香静坐。不見甚讀書也。作詩。亦不甚耽吁乎。君益欲自験其所學者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦〇濟物哉。不然。烏能舍其所楽。而役役以沒也。是可以槩君是心跡矣。銘曰処則孝友。出則忠藎。接者以和。行已也峻。唯不遇事。遇則必奮。展矣景陽。於陽是憲。天假之年。頽俗可振。

 

北條霞亭の墓がある東京巣鴨の真性寺
北條霞亭の墓がある東京巣鴨の真性寺

2021・11・13 

久保寺辰彦さん「北條霞亭の墓碑」

  ↔ 見延典子「よろしく」

 

千葉の久保寺です。

 

関東方面で山陽の碑といえば、北條霞亭の墓碑です。ということで、北條霞亭の墓がある巣鴨の真性寺へ墓参へ行ってきました。

残念ながら予想通り、分厚いアクリルボードで覆われていて、山陽の碑文があまり見えませんでした。アクリルボード設置は山陽の碑文を無断で拓本しようとするものが後を絶たないからだとか。アクリルボードを


 

水洗いしてみましたが、見え方にあまり効果はありませんでした。

他にも関東方面に山陽の詩碑があるのなら、行ってみたいと思います

 

久保寺辰彦さんへ

九州が終われば、関東です。湯島聖堂、頼三樹の墓くらいしか準備できていません。御地周辺でご存知の史跡、詩碑があればお知らせください。

                         見延典子

 

正面
正面
右側面
右側面
京都長楽寺、頼三樹三郎の墓。 手前に山陽と梨影の墓がある。
京都長楽寺、頼三樹三郎の墓。 手前に山陽と梨影の墓がある。

その後、三樹三郎(号・鴨厓、古狂生)は、大坂の後藤松陰や篠崎小竹の下で学び、天保13年江戸昌平黌に入学するのであります。傍ら佐藤一斎や、梁川星巌等の下に出入りするようになり、弘化3年(1846)昌平黌書生寮を退去させられ、東北蝦夷地を遊歴、この時、松浦武四郎(三重県出身・北海

2018・10・7

山根兼昭さん

「安政の大獄・160年祭」その2

 

頼三樹三郎と江馬細香

 

頼山陽没後、江馬細香は未亡人となった梨影に姉妹のように接し、励ましました。そして遺児となった支峰や三樹三郎は、細香を叔母のように慕ったのであります。

 江馬細香の筆塚
 江馬細香の筆塚

道の名付親)と知り合います。

 

嘉永2年帰郷、ペリー来航後、尊王攘夷論を唱え、星巌や梅田雲浜らと連動したため、官憲に追われている身となり、一時大垣にて小原鐵心、細香らが匿ったのですが、安政の大獄で捕らえられてしまうのであります。

 

この間、細香に度々書簡を送り、詩の添削を依頼しております。

その後、梨影は安政2年9月17日43歳で没、三樹三郎は安政6年10月7日、安政の大獄で刑死、35歳。

江馬細香その2年後(文久元年)9月4日、75歳没

 

江馬細香「湘夢遺稿」の絶筆

 吾ガ年 七十四  情味 灰ヨリモ冷ヤカナリ

 病ヒ無キニ 身ハ仍ホ痩セ 綿衣窄ク裁タント欲ス 

   (門玲子著・江馬細香、湘夢遺稿参照)

 

(感想)細香は山陽没後29年生きますが、晩年、梨影、三樹三郎に先立たれてしまいます。しかし死の直前、山陽先生の命日よりは20日早いが、これで先生の下へ行けると喜んだと言われております。何かすべてが終わってしまった感じですが、三樹三郎の160年祭にちなんで、その存在を回想しました。

 

東京回向院の頼三樹三郎の墓「鴨崖墓」と刻されている。 写真/頼山陽ネットワ一ク
東京回向院の頼三樹三郎の墓「鴨崖墓」と刻されている。 写真/頼山陽ネットワ一ク

2018・10・2

山根兼昭さん

「安政の大獄・160年祭」

*吉田松陰・安政6年10月2日(1859・10・27)

江戸小塚原にて斬首。

 辞 世        吉田松陰

吾 今 国の為に死す 死して君親に負(そむ)かず

悠悠たり 天地のこと 鑑照 明神に在り


注)刑死の7日前に、獄中から郷里に送ったものである。その気概は正に鬼神をして哭しむものがある。

 *頼三樹三郎・安政6年10月7日(1859,11,1)江戸小塚原にて斬首。

 

 獄中作      頼三樹三郎

雲を排し手ずから 妖熒(ようけい)を掃わんと欲し 失脚墜ち来る江戸の城

井底の痴蛙(ちあ) 憂慮に過ぎ 天辺の大月高明を欠く

身は鼎穫(ていかく)に臨んで家に信無く 夢は鯨げいを斬って剣に声有り

風雨多年 苔石の面 誰か題せん日本の古狂生

(大意)雲を押し分け、怪しい妖星を自ら取り払わんとしたが、事ならず、失敗して、江戸の地に墜ちてしまった。考えれば、今の為政者たちは、見聞の狭い、井戸の中の蛙に等しく、憂慮する事ばかりである。自分は今、刑に処せられようとしているが、家郷の妻子との音信もたたれて、実に断腸の思いである。しかし我が志はいよいよ高く、夢の中で悪人どもを切り捨て、一剣は高くなるのを聞く夢であった。自分はこれから刑場の露と消えるけれども、やがて幾年月を経て風雨に晒され、苔むした墓石の面に、「日本の古狂生」と題して我を弔ってくれる者がいるであろうか。

 

(感想)この時、三樹三郎35歳、同日に福井藩士・橋本左内26歳も処刑されてしまったわけです。前の老中、阿部正弘がもう5年生きていれば、幕末の才能が守られたと思いますが、歴史にタラレバはないですね。

 

 初めて裾野まで見えた富士山
 初めて裾野まで見えた富士山

東京駅から役10分御茶ノ水駅で下車 神田川にかかる聖橋の向こうに湯島聖堂が見える。ありがたい雰囲気(良い気)が漂っている。

(ような気がした)

曲阜に子貢が植えたとされる槐の木の子孫
曲阜に子貢が植えたとされる槐の木の子孫
 日曜公開の大成殿
 日曜公開の大成殿
 孔子像 大成殿内部
 孔子像 大成殿内部

2017・11・13

石村良子代表「湯島聖堂」

 

結婚式で東京に 明くる日湯島聖堂に行く。

 湯島聖堂
 湯島聖堂
 孔子像
 孔子像
 昌平坂と説明版
昌平坂と説明版

 昌平の名は、湯島聖堂に祀ってある孔子の生まれた中国魯の国の昌平郷にちなんでつけられた。

 


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

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「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
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 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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