特に記載のない場合以外、見延典子が執筆しています。

2018・4・19

吉田裕『日本軍兵士』

 

ベストセラーになっている吉田裕『日本軍兵士』を読んでみる。

太平洋戦争で犠牲になった310万人の9割が1944年以降と推算されるという。その理由を探るうち、日本兵たちが軍事思想の下で、凄惨な体験を強いられた現実が見えてくる。


戦争といえば指揮官の立場で書かれたものが少なくないが、本書は実際に戦場で戦った日本兵士の目線で書かれている。戦地に赴き、想像を越える絶望に直面した兵士の心中を想像し、ページをめくる手が何度もとまる。

 

昭和2年生まれの亡父(札幌市出身)が「終戦直前、藁で作った手袋をはいていた」と書き残し、同じく昭和2年生まれの姑(呉市出身)は「鉄道草(線路の周辺の雑草)まで食べた」と話したことを思い出すが、比較にならないような現実があった。

 

著者は1954(昭和29)年生まれの一橋大学社会学部教授。

 

 

しかし私は『汚名』を書いたとき、ある資料を見つけ、この話に違和感を覚えた。その資料というのは『呉市史』(第三巻)にある呉鎮守府開庁式の出迎者の記述である(下)

先週の18日「宇品港」の解説会に出かけ、終了後、学芸員さんにお尋ねしたところ、今回の展示企画を担当した別の学芸員さんを紹介され、あれやこれや話すことになった。学芸員さんの反応を見る限り、私の発掘は従来の千田貞暁イメージを覆すものになりそうな予感がするが、さてどうだろう。

2018・3・21

新発掘? 千田貞暁前広島県令

呉鎮守府開庁式に出席

 

広島で千田貞暁県令といえば、宇品干拓に全精力を傾けたのに、完成直後新潟に左遷された悲劇の人というイメージが定着している。

通説では、新潟に左遷された千田は宇品港の開港式は多忙を理由に断っているのに、同日、つまり明治23年4月21日に行われた呉鎮守府の開庁式には出席しているのである。一体どういうことなのか。呉鎮守府には明治天皇も列席。小松宮が出席した宇品港の開港式とは格が違う。いや、そういうことのみならず、千田貞暁が宇品の開港式出席を断り、呉鎮守府開庁式に出席した背景に何があったか、非常に興味がわく。おそらくこの頃から始まっていた海軍と陸軍、長州と薩摩の派閥争いが関係しているのではないか。


今回の展示内容を見る限り、干拓に至った事情はわかるものの「宇品軍用港」という部分的な解説で終わっている気がする。呉軍港も含め、日本史、世界史を広く見ていく必要があるのではないか。当時「宇品港」はそのくらい重要な軍事拠点だったからである。

 

い、広島の近代史において大きな役割を果たしました。本展示会では築港から、昭和7年に広島港と改称した以降に進められた『商業港』『工業港』の建設までの歴史を紹介します」 とある。

実は展示にある千田貞暁の説明で、腑に落ちないところがある。その点を同館にお尋ねして、再度とりあげたいと思う。

 

 

2018・3・14

広島市郷土資料館「宇品港」

 

広島市郷土資料館で開催中の特別展「宇品港」に行ってきた。

展示内容について「県令千田貞暁によって築かれた宇品港(明治22年完成)は、近代都市広島の発展に寄与した一方、日清戦争後は陸軍の出兵基地となって軍都広島の一翼を担

明治44年に建てられた「宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場」が現在の広島市郷土資料館
明治44年に建てられた「宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場」が現在の広島市郷土資料館

西南戦争「旌忠碑」復元についてのパンフレットより転載
西南戦争「旌忠碑」復元についてのパンフレットより転載

戦後、行方不明になっていたが、広島市佐伯区で見つかり、10月7日東照宮に移設、復元された。移設、復元に尽力されたのは郷土史家の田辺良平先生。広島にあって数少ない明治を物語る記念碑である。

 

2017・10・21 

西南戦争

「旌忠碑(せいちゅうひ)」復元

 

明治10年(1877)西南戦争で亡くなった広島鎮台兵の顕彰と慰霊のために、広島の東照宮に建立された「旌忠碑(せいちゅうひ)」

佐伯区湯来町で発見された
佐伯区湯来町で発見された

   見延典子
   見延典子

 

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