2025年6月19日(木)、20日(金)催行
「旅猿ツアー桑名、津」関連の記事。見延典子が書いています。
2025・6・25
「旅猿ツアー桑名・津」2日目
24日になって、写真係の佛原さんから旅行中の写真がどっさり送られてきたのですが、後戻りするのは躊躇があります。ご覧になりたい方は7月9日頼山陽サロンでパワーポイントにしてお見せしますのでご参加ください。
また今回のメインである桑名市博物館所蔵 頼山陽直筆の『日本外史』についても、撮影禁止になっていたので、説明は省略します。同館の館長が解説をしてくださいました。津市図書館所蔵の2種の『日本外史』と併せて、頼山陽サロンで語りたいと思います。
愛知県の山根さん、櫻井さん、現地のガイドさんと合流し、頼山陽も歩いた旧東海道を七里の渡し方面に歩いていきます。
山根さんが交渉して用意してくださった建物に入り、頼山陽と七里の渡しにまつわる話のあと、山陽の「舟大垣を発し桑名に赴く」を吟じてくださいました。「蘇水遥遥か海に入って流る」に始まる漢詩は雪の中を傷心を抱きつつ大垣から桑名(七里の渡し)まで木曽川を下る内容で、束の間暑さを忘れたような気持ちになりました(笑)
「舟大垣を発し桑名に赴く」を吟じる
山根兼昭さん
おそらくこのころが体感的に暑さのピークで、路線バスでの移動をやめ、タクシーで津駅に戻りました。JR「快速みえ」に30分揺られて桑名駅に到着。各々ホテルに入りました
青山さんが予約してくださったのは先日の「ブラタモリ」でタモリが訪れた歌行燈の駅前店。桑名名物「はまぐり会席」を存分に味わいました
はまぐりを、このようにたくさんいただいたのは、初めての経験でした。地酒もしっかりいただきました。
2025・6・22
「旅猿ツアー桑名・津」Ⅰ日目③
三重県津市の津図書館で2種の『日本外史』を見たあと、徒歩15分のところにある龍津寺で、津藩儒者猪飼敬所の墓(土饅頭)に参りました。民俗学的に珍しい墓と思います。ただ、見延が写真をとリ忘れ、しかし写真係の佛原さんのデータに入っているそうなので、忘れなければ後日紹介します。
2025・6・21
ご参加の皆様からの「一言感想」
頼山陽ネットワーク主催「旅猿ツアー桑名・津」はすべての日程を終了しました。
想定外の暑さの中、ご協力くださったご参加の皆様、また訪問先でお世話になった関係各位に御礼申し上げます。ありがとうございました。
「旅猿ツアー桑名・津」の写真ご紹介
はまだ続きます。お楽しみに!
★★★ ご参加の皆様からの「一言感想」です★★★
○「旅猿ツアー桑名」ありがとうございました!楽しく勉強させて頂きました❗
○ お疲れ様でした。暑かったですが、実り多い旅猿でした。
○ たいへん楽しい学習旅行に同行させていただき、ありがとうございました。
○ 有意義な学習📚、語らい、更に、名物料理(焼き蛤) 楽しませていただきま
した。😁😁
○とても有意義なイベントで思うことが沢山あります。貴重な経験となりました。
次回の旅猿ツアーも是非とも参加させてください。また、皆さんが高齢にも関
わらず、とても元気なのでビックリです。
関連テレビ情報 桑名市博物館で開催中「松平定と江戸文化」が「日曜美術館アートシーン」 で
紹介されますが、関連放送時間は3分程度。頼山陽や「日本外史」に関する言及はありません。
6月22日(日)朝9;45 再放送6月29日(日)夜8:45ー Eテレ
拙堂は津藩儒で、「月ケ瀬記勝」は頼山陽が添削し、広く読まれるようになりました。山陽が最晩年に月ヶ瀬を旅したのは拙堂の影響からでした。
6月とは思えない猛暑。津市の最高気温は33度。汗だくでの移動です。
2025・6・20
「旅猿ツアー桑名・津」Ⅰ日目②
鰻をいただいたあと、近くの津偕楽園へ。藤堂家の山荘があった場所で、目指すは「斎藤拙堂頌徳碑」です。
「斎藤拙堂頌徳碑」に「頼山陽」の文字を見つけ、思わず歓声。マニアックなツアーならではの楽しみです。
路線バスに揺られ、津図書館に向かい、事前に申告していた藩校有造館に保管されていたという2種の「日本外史」を見せていただきました。冷房のきいた館内の個室で、しばし「日本外史」の世界に浸りました。しかしSNSへの掲載は不可ということで、残念ながら写真の掲載はありません。
2025・6・19
「旅猿ツアー桑名・津」Ⅰ日目
「旅猿ツアー桑名・津」が始まりました。集合場所は関西本線の津駅西口。現地集合ということで、まず千葉県、広島県、香川県から7名が集合。19日Ⅰ名、20日2名合流。計10名。
集合してすぐ駅前の鰻屋へ。津は鰻の養殖池があり、市内には130件ほどの鰻屋があるそうです。暑い盛りはどの店も繁盛とか。各地で鰻を食べ歩いている尾崎代表によれば「味付けが濃い」ということです。でも完食。
初参加の石川ご夫妻。初対面から5分後には笑いながらいっしょに鰻を食べる仲に(笑)
頼家の家紋は双瓶子、替え紋は鹿角は確認されているが、右の肖像画では見慣れない家紋がついている。
家紋は「蔦」で、調べていくと「藤堂蔦」にいきついた。
2025・6・2
津藩・藤堂氏の家紋「藤堂蔦」
津藩に仕えた岡田米山人、半江父子で思い出した。別の覧でも書いているように、目下身辺の品を整理中。その最中に20年ほど前、見延がある方に向けて書いたFAXの元紙が出てきた。
下は家紋部分の拡大図。
そこで、専門の方にお尋ねしたのが最初に紹介したFAXである。おそらく回答は得られなかったはずで、現在もこの家紋については謎のままだ。どなたかご存じの方はご教示ください。よろしくお願い致します。
2025・6・1
岡田米山人、半江父子
今さらながら、頼山陽や小石元瑞、篠崎小竹と親しく、津藩(藤堂藩)に仕えた文人画家父子のことを思い出した。岡田米山人、半江である。
岡田米山人はもとは大坂で米屋を営みつつ絵を描いていた。半江は米山人の後を継いで、28歳の時から津藩に仕えたという。頼山陽とどこかで(何かで)大きな接点があったはずだが、急なことで思い出せない。おわかりの方はご教示ください。
3年前の2022年秋には三重県立美術館(三重県津市)で父子の作品が広く展示されている(左のポスター)
2025・5・27
伊勢別街道
先日の頼山陽サロンで「山陽は伊勢に行ったことはあるか」というお尋ねがあった。1829年(文政12)梅颸の第4回目の京都旅行の際、山陽は梅颸らとともに伊勢神宮に参拝している。ただ、京都からは伊勢別街道を進むので、「津」は通過するが、東海道沿いにある「桑名」には寄っていない。
東海道、伊勢別街道、伊勢街道
2025・5・26
頼三樹三郎も桑名へ
1843年(天保14)閏9月2日、頼三樹三郎(19歳)は幕府の納戸頭羽倉簡堂に随伴して京都を発ち、江戸の昌平坂学問所に向かう。この時9月4日桑名に泊まり、5日七里の渡しから熱田に向けて舟に乗る。
桑名藩主は松平定信の曾孫の松平定猷(さだみち)。お目見えはかなわなかったが、簡堂がいることから、舟の用意はしてくれたようだ。
その後、江戸から蝦夷地に渡った三樹三郎は、復路は日本海側を南下する。(小説『はるかなる蝦夷地』ご参照)。三樹三郎が再度東海道を江戸に向かうのは、安政の大獄で捕縛され、唐丸駕籠に乗せられる1858年(安政5)34歳のときである。このときも桑名を通ったであろう。
2025・5・18 「第17回旅猿ツアー桑名、津」10名で催行します。
香川県のキクご夫妻(初参加)からご参加申し込みがあり、6月19日に8名、6月20日に2名が加わり、10名での催行予定です。
ご参加の皆様は香川県、千葉県、愛知県、広島県から来られます。2009年に全国の皆さんと交流を持つ目的で頼山陽ネットワークを立ち上げました。あれから16年たち、目標に近づいていることに感慨を覚えます。
津図書館で『日本外史』の写本を拝見するのに人数の申請をしなければなりません。ご参加を検討されている方は早めのご連絡をお願い申しあげます。
「第17回旅猿ツアー桑名、津」 お世話係 見延典子
2025・5・17
「第17回旅猿ツアー桑名、津」 6・19(木)~20(金)の行程
「第17回旅猿ツアー桑名、津 6・19(木)~20(金)」は以下の通り催行します。交通費、食事代、入場料、宿泊代は参加者のご負担です。ホテルは自分で予約下さい(ご相談下さい)。途中からご参加、途中離脱でもかまいません。
ご参加を検討されている方はメールを下さい。詳しい行程表をお送りします。
「第17回旅猿ツアー桑名、津」行程概略
6月19日(木)三重県津市
11時35分 JR津(関西本線)、又は近鉄津駅(駅舎は同じ)集合。
昼食後、以下を巡ります。
斎藤拙堂頌徳碑(頼山陽の名が刻される)、頼山陽と論争した猪飼敬所の墓所(土饅頭)、天保年間の『日本外史』の写本を拝見(津図書館)。桑名で宿泊
6月20日(金)三重県桑名市
頼山陽が松平楽翁に献呈した『日本外史』(桑名市博物館で拝見)、頼山陽の漢詩「舟大垣を発し桑名に赴く」で下船したと思われる「七里の渡し」付近を見学、東海道などの町歩き。自由解散。
2025・5・16
「第17回旅猿ツアー桑名、津
6・19(木)~20(金)」催行決定!
「第17回旅猿ツアー桑名、津、
6・19(木)~20(金)」の催行が正式に決定しました。
頼山陽ゆかりの三重県桑名市、津市を巡る旅で、現在、7名様(尾崎和則代表、見延典子事務局長を含む)からお申し込みをいただいております。
参考/頼山陽直筆の『日本外史』桑名市博物館蔵
ご興味のある方はメールを下されば日程表、訪問地など詳細をお送りします。よろしくお願い致します。
三重県津市、龍津寺の門の左にある「猪飼敬所先鋭墓所」の案内碑。三重県HPより。
2025・5・13
三重県津市 猪飼敬所の墓
津市の龍津寺に江戸後期の儒者猪飼敬所(1761~1845)の墓がある。
三重県総合博物館蔵、敬所の書のようだ。
敬所は京都出身。頼山陽が亡くなる直前、南朝正統論を主張する山陽と、北朝正統論を主張する敬所のあいだで大激論が交わされた。
敬所は津藩主の藤堂高猷に招かれて津に赴く途中、山陽を見舞ったのだった。それから13年後、敬所は津藩で亡くなる。京都にも墓があるが、亡骸が収められているのは津藩の墓という。実は津の墓は珍しい土饅頭型をしており、ネットに写真も掲載されているが、転載禁ということでここでは紹介できない。
2025・5・11
三重県津市 斎藤拙堂顕彰碑に頼山陽
三重県津市に建つ「斎藤拙堂顕彰碑」に頼山陽の名前が刻まれている。
原文は漢文。その部分の訳文。(斎藤拙堂顕彰会のホームページより)
「二十四歳の時、京都に行き頼山陽を訪ねた。山陽ははじめは拙堂を書生として応対した。ところがその文章を見て非常に驚き、すぐに拙堂を上座に招き、その後は友人として待遇した」
頼山陽ネットワークでは、2023年3月10日「第15回旅猿ツアー月ヶ瀬」で月ヶ瀬を訪れ、山陽が拙堂の『月ヶ瀬記勝」に触発されて月ヶ瀬に赴いたという解説を行なった。山陽は拙堂の『月ヶ瀬記勝』(正確には「梅谿遊記」(一~九)と「梅谿十律」)の添削を行なっており、『月ヶ瀬記勝」の販売拡大、並びに拙堂の名声に寄与したのだった。
斎藤拙堂顕彰碑に刻された原文については、6月に催行が検討されている「第17回旅猿ツアー桑名」で写真に収めてくる予定である。