2025年6月に催行が検討されている「旅猿ツアー桑名、津」関連の記事。
三重県津市、龍津寺の門の左にある「猪飼敬所先鋭墓所」の案内碑。三重県HPより。
2025・5・13
三重県津市 猪飼敬所の墓
津市の龍津寺に江戸後期の儒者猪飼敬所(1761~1845)の墓がある。
三重県総合博物館蔵、敬所の書のようだ。
敬所は京都出身。頼山陽が亡くなる直前、南朝正統論を主張する山陽と、北朝正統論を主張する敬所のあいだで大激論が交わされた。
敬所は津藩主の藤堂高猷に招かれて津に赴く途中、山陽を見舞ったのだった。それから13年後、敬所は津藩で亡くなる。京都にも墓があるが、亡骸が収められているのは津藩の墓という。実は津の墓は珍しい土饅頭型をしており、ネットに写真も掲載されているが、転載禁ということでここでは紹介できない。
2025・5・11
三重県津市 斎藤拙堂顕彰碑に頼山陽
三重県津市に建つ「斎藤拙堂顕彰碑」に頼山陽の名前が刻まれている。
原文は漢文。その部分の訳文。(斎藤拙堂顕彰会のホームページより)
「二十四歳の時、京都に行き頼山陽を訪ねた。山陽ははじめは拙堂を書生として応対した。ところがその文章を見て非常に驚き、すぐに拙堂を上座に招き、その後は友人として待遇した」
頼山陽ネットワークでは、2023年3月10日「第15回旅猿ツアー月ヶ瀬」で月ヶ瀬を訪れ、山陽が拙堂の『月ヶ瀬記勝」に触発されて月ヶ瀬に赴いたという解説を行なった。山陽は拙堂の『月ヶ瀬記勝』(正確には「梅谿遊記」(一~九)と「梅谿十律」)の添削を行なっており、『月ヶ瀬記勝」の販売拡大、並びに拙堂の名声に寄与したのだった。
斎藤拙堂顕彰碑に刻された原文については、6月に催行が検討されている「第17回旅猿ツアー桑名」で写真に収めてくる予定である。