記名のないものは見延典子が書いています。
2019・8・6
菅茶山の墓
2008年に茶山の墓を訪ねた際の写真が出てきた。
右の石碑は「北条霞亭の招魂碑」だったと思うが、うろ覚えである。ご存じの方はご連絡ください。
霞亭は安永9年(1780)伊勢的矢生まれ。茶山の知遇を得て廉塾の都講になり、茶山の姪の敬と結婚。その後江戸詰となり、福山藩士や子弟の教育に尽力するも、病により没す。享年44歳。
1827年に80歳で没した菅茶山は,川北の黄葉山山麓の網付谷(現在の広島県福山市神南辺町)に葬られた。東を向いた木造平屋建瓦葺の屋舎に守られている。前面には門と2基の石灯籠、中に墳墓と墓碑がある。墳墓は直径約0.9mの円形で東側は直線的となり,0.3mの盛土が施され周囲には花崗岩を廻らせている。墓碑は台石にのり、千字に及ぶ撰文は頼杏坪、「茶山先生菅君之碑」の額題は日野資愛による。
(福山市のホ一ムページより抜粋)
2018・12・15
望月信子さん
「神辺の菅茶山邸と廉塾」
神辺の菅茶山邸と廉塾で写した写真をご紹介する。
続いて女子中学生3名による「砂留」に関する研究発表。こちらもよく調べて、話しぶりも上手い。
2017・10・15
かんなべ歴史フォーラム
10月14日、かんなべ歴史フォーラムに招かれた。地元の小学4年生が「菅茶山、廉塾」についての発表をする。事前によほど練習したのだろう。よどみなく話す。
この後で、いったい何を話せというのか…会場は涼しいはずなのに、汗がとまらない。しかし観客の皆さんが熱心に聴いてくださり、なんとか終了。ご意見を述べて下さった方、ご聴講くださった皆様、ありがとうございました。