記名のないものは見延典子が書いています。

2021・5・10

頼山陽と菅茶山の別れ

 

10日付中国俳壇に、頼山陽が神辺を去る際、菅茶山と酒を酌み交わしたという場所に建つ石碑について書かれていた(右の赤枠)

  菅茶山記念館ホームページから

菅茶山記念館のホームページに、石碑に刻された茶山の漢詩が掲載さている。謹んでご紹介する。


丁谷餞子成卒賦  菅茶山

數宵閑話毎三更 未盡仳離十載情
送者停筇客頻顧 梅花香裏夕陽傾


数宵(すうしょう)の閑話(かんわ)毎(つね)に三更(さんこう)

未(いま)だ尽(つ)きず 仳離(ひり)十載(じゅっさい)の情
送者は筇(つえ)を停め客は頻(しき)りに顧(かえり)みる
梅花(ばいか)香裏(こうり) 夕陽(せきよう)傾く 

 

幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも十年間別れて過ごした間のつもる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて見送り、客(頼山陽)は、しきりにふりかえりつつだんだん遠くなる。そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。

 

2019・8・6

菅茶山の墓

 

2008年に茶山の墓を訪ねた際の写真が出てきた。

 墳墓
 墳墓

右の石碑は「北条霞亭の招魂碑」だったと思うが、うろ覚えである。ご存じの方はご連絡ください。

霞亭は安永9年(1780)伊勢的矢生まれ。茶山の知遇を得て廉塾の都講になり、茶山の姪の敬と結婚。その後江戸詰となり、福山藩士や子弟の教育に尽力するも、病により没す。享年44歳。

 

周辺にある菅家親族の墓
周辺にある菅家親族の墓

1827年に80歳で没した菅茶山は,川北の黄葉山山麓の網付谷(現在の広島県福山市神南辺町)に葬られた。東を向いた木造平屋建瓦葺の屋舎に守られている。前面には門と2基の石灯籠、中に墳墓と墓碑がある。墳墓は直径約0.9mの円形で東側は直線的となり,0.3mの盛土が施され周囲には花崗岩を廻らせている。墓碑は台石にのり、千字に及ぶ撰文は頼杏坪、「茶山先生菅君之碑」の額題は日野資愛による。

(福山市のホ一ムページより抜粋)


2018・12・15

望月信子さん

「神辺の菅茶山邸と廉塾」

 

神辺の菅茶山邸と廉塾で写した写真をご紹介する。


続いて女子中学生3名による「砂留」に関する研究発表。こちらもよく調べて、話しぶりも上手い。

今日は紬。帯締めが斜めなのは石川さゆりのマネではなく、自然になっただけ。
今日は紬。帯締めが斜めなのは石川さゆりのマネではなく、自然になっただけ。

2017・10・15

かんなべ歴史フォーラム

 

10月14日、かんなべ歴史フォーラムに招かれた。地元の小学4年生が「菅茶山、廉塾」についての発表をする。事前によほど練習したのだろう。よどみなく話す。

この後で、いったい何を話せというのか…会場は涼しいはずなのに、汗がとまらない。しかし観客の皆さんが熱心に聴いてくださり、なんとか終了。ご意見を述べて下さった方、ご聴講くださった皆様、ありがとうございました。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

 詳しくはこちら

 

石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら