特に記載のない場合は、見延典子が書いています。
2021・3・18
上田誠也さん、頼山陽の『萬象園記』全訳
頼山陽の『萬象園記』の書き下し文と訳文を、上田誠也さん(熊本県在住)が送ってくださいました。通読すると、情報を取り入れる頼山陽の文の巧みさが伝わってきます。
原文を打ちこみ、書き下し文をお願いした久保寺辰彦さん(千葉県在住)にも御礼申し上げます。つきましては、冒頭の部分を紹介します。続きは現在編集中の『全国頼山陽史跡巡り』(仮称)に掲載予定です。
萬象園記。[再案、天保元年作]
我藝藩三卿、獨上卿爲公族。祿足幷其中下。藩之自紀移封藝也。特命守柞原城。鎭撫東面。本府之邸在外城南門内。而其別業。則在南郭外。
我が芸藩の三卿、独り上卿のみ公族為り。禄は其の中、下を幷するに足る。藩の紀より封を芸へ移さるるや、特に命じて、柞原城を守り、東面を鎭撫せしむ。本府の邸は、外城南門の内に在り、而して其の別業は則ち南郭の外に在り。
我が広島藩の三卿(世襲家老)では、上卿(筆頭家老の三原浅野家:3万石)だけが藩主一門であった。その禄高は、中の家老(上田家:2万石)と下の家老(東城浅野家:1万石)を足し合わせた程である。浅野本家が紀州から芸州へ転封となるや、特別に(三原浅野家に)命じて三原城を守備させ、東方面の鎮撫に当たらせた。広島城下での本宅(上屋敷)は、城の南門の内側にあり、そして下屋敷は城郭南側の外にあった。
雲華上人の石蘭図が展示中 賛に文政10年とあり梅颸一行「十旬花月」の旅中の作品のようだ 石蘭が梅颸夫人に似るとある
2019・7・2
石村良子代表「広島城 山陽くん」
現在 浅野氏広島城入城400年記念で賑わう広島城 来客と出かける
これで帰ったのではネットワーク金石部として芸がなさすぎる、
石灯篭も写す、ここ白神社は江戸時代の岩礁の上に立つ。
2019・6・23
石村良子代表
「名越の祓い」
頼家ゆかりの白神社 現在夏越の祭の茅の輪が設置されている
年の無事に感謝、残る半年の無病息災を祈願して茅の輪をくぐる
これは?とパソコンで、すると、
郵政博物館 研究紀要 第8号(2017年3月)近世における飛脚関係の金石史料―常夜灯、道標、墓誌を中心に― ページ129 C なし(竿) 江戸日雇方(横書き)
芝
三河屋□(欠ヶ)
田屋善左エ門
尾張屋かめ吉
とありました。論文によると、当時飛脚組合で旅の安全を祈願し 常夜灯を寄進するということが有ったという。郵政博物館の論文というところに感慨を覚える石村でした。
2019・2・7
頼山陽『萬象園記』
昨年末、かつて広島にあった大名庭園「萬象園」の名づけ親は頼山陽ではないだろう、と書いたところ、ある方が『山陽文集』に頼山陽の『萬象園記』が掲載していることを教えてくれた。見れば、確かに「曰萬象之園。皆君與襄輩。商議定之云」とあるではないか。山陽が名づけたとは書いていないが、立場上だろう。
何ごとも思いこみで判断してはいけない。内容も精読したい。
10数年前、広島市中区羽衣町にあった広島藩家老、三原浅野家の別邸「萬象園(ばんしょうえん)」が取り壊された際、庭園内にあった灯籠などを広島城に近いこの地に移したものらしい。よく見ると「頼山陽」の名前がある。
2018・12・22
萬象園の碑
広島市中心部、バスセンターの北側(リーガロイヤルホテル並び)に小さな碑を見つけた。
「萬象園」と名づけたのは頼山陽と書かれているが、山陽は生前、広島藩において名誉を回復できなかった。家老の別邸の名づけを命じられたとは考えにくい。父の春水なら、可能性はあるだろう。