左/山形県酒田市の本間美術館にある山陽の「柞原尋梅図」の印

2021・12・14

久保寺辰彦さん「似て非なるもの」

 

 

「疑惑の頼山陽」ではありませんが、山陽の書は多くの人がお手本にしたということもあってかたくさんの「似て非なるもの」があるように思います。

下の画像、山形県酒田市の本間美術館にある山陽の「柞原尋梅図」もその一つではないでしょうか。一見、山陽に字に似ていますが、細部を見ると全く違います。素人の私でもわかります。


そう思って、印影を見るとやはり違っていました。朱色の方は私の持っているものですが、印影集にも偽物があるのでよほど気を付けないと気づきませんね


2021・12・10

山根兼昭さん、見延典子「疑惑の頼山陽について」

 

「名古屋の栄さまと『得月楼』」(寺田繁 鳥影社 2021)で、著者の寺田繁さん自ら「疑惑の頼山陽」と書かれている『得月楼』の扁額について、山根兼昭さんと見延典子とで調べたことを書き留めておく。

 

 下の写真は、頼山陽の印譜帖の掲載の印(上段)と得月楼の扁額で使用されている印(下段)。提供は山根さん。それぞれの大きさは不明。



特に中央の印を拡大したものが下の写真。「得月楼」の扁額のに押された中央右、「頼」の「束」とその下「貝」(頼の一部)に乱れがある。

印譜帖
印譜帖
「得月楼」の扁額
「得月楼」の扁額

 次に扁額の為書き。『頼山陽遺墨選』(頼山陽記念文化財団 2021)掲載の耶馬溪図巻記に「子成」「書水西荘」が書かれている。

 耶馬溪図巻記
 耶馬溪図巻記

 右も『頼山陽遺墨集』からの引用で「書事」は「事を書く」と読む。

耶馬溪図巻
耶馬溪図巻
『頼山陽遺墨選』より
『頼山陽遺墨選』より
『得月楼』扁額の為書き
『得月楼』扁額の為書き

 両者を比較して、明らかに異なるのは、耶馬溪図巻記では「書水西荘(後に之三面梅花処)」とあるのに対し、為書きは「書水西荘」となっている点である。

 『頼山陽遺墨選』より
 『頼山陽遺墨選』より

「于」は「於」と同じように「おいて」という意味の前置詞のようなもので、つまり為書きにあるように「書水西荘」と書いては「水西荘を書く」という意味になってしまい、「書水西荘(後に之三面梅花処)」のように水西荘で書いたことにはならない。

『頼山陽遺墨選』より
『頼山陽遺墨選』より

「子成」の「成」についても『頼山陽遺墨集』から2例をあげる。左のはらい、右のはらいからの跳ね上げの位置の高さに差があることがわかる。

 

2021・12・5  山根兼昭さん「扁額『得月楼』」

 

12月3日、湯谷祐三先生にもご同席戴き、「名古屋の栄さまと得月楼」の著者・寺田繁様と懇談いたしました。

頼山陽の足跡を検証しますと、文化10年(1813年)に4ヵ月ほど美濃、尾張、三河に滞在して以来、名古屋に来た形跡が見当たらないのです。然らば、人間関係としては、山陽との関係の深かった篆刻師・細川林谷が天保2年2月に山陽、浦上春琴、小石元瑞らと月ヶ瀬の観梅に行ったり7月には名古屋の熱田で舟遊びをしたりなどの記録があります。それで細川林谷が與八の意を受けて、山陽に命名と扁額を依頼したのではないか。懇談後、寺田家を訪問し「得月楼」を拝見させていただきました。

3ヶ所の刻印は、細川林谷作と認められますが、印譜帖と比較しますと年月による歪か、ずれは認められます。

*写真は123日寺田家にて撮影

2021・11・16

見延典子 → 山根兼昭さん「頼山陽が書いた為書きの例」

 

 頼山陽が書いた扁額が鳩居堂のホームページに載っています(下の写真)。山陽が書く「為書き」の参考例になるかと思います。

  • 発売日 2021/10/08
  • 鳥影社 1760円

2021・11・15

山根兼昭さん

「得月楼、山陽命名説の謎」

 

寺田繁著・名古屋の栄さまと「得月楼」(目次)1、得月楼のルーツ、疑惑の頼山陽(青色は本文抜粋)

與八は1828年「橋本屋」を創業、わずか3年後の天保2年「得月楼」に改名したのは座敷に遊んだ頼山陽が、堀川に映る月を眺め、漢詩を引き合いに出して與八を説得したからだと伝えられている。私自身、父から教わったし、郷土史家も同様説を発表。山陽がしたためたとされる扁額も現存はしている。


 私が疑問を抱いたのは、見延典子著「頼山陽」。それによると、山陽が名古屋に来たのは、1797年江戸の昌平黌へ行く途中と1813年尾張藩医の小林香雪にあった時だけ、その後香雪は1820年に亡くなっている。

また、広島の頼山陽史跡資料館に、扁額の写真や手紙を送ったところ、花本主任学芸員より返事が届いた。

 

天保2年の山陽を辿る。2月奈良月ヶ瀬、3月嵐山、911月広島に母を見舞う、姫路で講義、帰京。扁額の落款には(辛卯仲秋)とある。天保28月に山陽が得月楼に遊んだとは考えにくい。

(水西荘)の款記には引き続き(林谷山人)の四文字がある。篆刻家で漢詩人、画家の細川林谷だろうと指摘を受けた。

林谷は山陽の印を多く手掛けた人である。

 

林谷は天保27月、尾張の国に入った記録が残っている。「頼山陽全伝」によると京都に寄っていないとみられ。林谷が尾張滞在中の8月に「橋本屋」の與八に頼まれ、恐らく山陽に書簡を送って揮毫を求めた可能性が高い。扁額に「楼主人」とあるのは、山陽と與八は面識がなく、そうとしか書けなかったと思うのが最も理に適う。

 

では本当に京で山陽がしたためた扁額なのか。花本学芸員からのメールによると、「私個人の印象」として、「月」の字がいささか気になる、少し緊密感が欠けているのでは。以下省略―

 

2021・11・12

 山根兼昭さん「『得月楼』楼主、寺田家現る」

     ↔ 見延典子「林谷山人とは?」

               

 111日中日新聞に「得月楼の記事がある」と聞き確認したものです。

寺田繁著「名古屋の栄さまと得月楼」は、本を発注しておりますので、内容は次回に致します。

山根兼昭様

「得月楼」扁額の為書きには「楼主人林谷山人」とあります(そのあとは嘱也でしょうか)

この「林谷山人」なる人物がが誰なのか、実在するのかも含めて調査をお願いいたします。

          見延典子

 

 


 記事抜粋
 記事抜粋
 山田謹一氏より戴いた扁額写真
 山田謹一氏より戴いた扁額写真

2021・4・12

山根兼昭さん

「尾張名古屋は城で持つ

          一金鯱降臨

 

名古屋市は410日より名古屋城の木造復元、疫病退散祈願、名古屋のシンボルへのPRなどを念頭に、名古屋栄の「ミツコシマエヒロバス」にて、本物の金シャチ1対の展示を始めましたのでご紹介いたします。

 金鯱(雄)              高さ2.62m、重さ1272㎏、うろこ112枚
 金鯱(雄)              高さ2.62m、重さ1272㎏、うろこ112枚
 金鯱(雌)              高さ2.58m、重さ1215㎏ うろこ 126枚
 金鯱(雌)              高さ2.58m、重さ1215㎏ うろこ 126枚
「名古屋城金シャチ特別展覧」
「名古屋城金シャチ特別展覧」

名古屋城は、1610年徳川家康の命により築城されましたが、1937年(昭和12年)には金のうろこ58枚盗難、1945年(昭和20年)戦災で焼失、1959年(昭和34年)再建と苦難の道を経てきました。

 

1829年、頼山陽は名古屋納屋橋の料亭で、堀川に映る月を観て「得月楼」と命名し、おそらくこの時

北の方に目をやれば、名古屋城の天守に輝く金の鯱鉾を見たであろうと思います。

 得月楼扁額
 得月楼扁額

名古屋市の桶狭間古戦場公園
名古屋市の桶狭間古戦場公園

さすがの山陽先生も、新型コロナには勝てず、マスクの着用となりました。(これは私のパロデイです。写真下)

2020・6・7

山根兼昭さん

有松絞祭りと桶狭間古戦場

 

1、有松絞祭り

6月6日、7日は恒例の絞り祭りですが、今年はコロナ禍で中止になりました。コロナ予防のため、マスクの需要が急増、有松絞のマスクが評判になり、名古屋市長も会見の度に着用されております。

 

 古戦場公園の今川義元墓碑
 古戦場公園の今川義元墓碑

2、桶狭間の戦い

1560年6月12日の合戦以来、今年は460年になります。丁度、6月7日放送の大河ドラマ「麒麟がくる」がその合戦の場面です。

改めて、歴史にタラレバはありませんが、「織田信長」という武将は不思議な運命であったと思います。ドラマに出てくる「明智光秀」のバランス感覚で終生信長をサポートしていたら、江戸時代はどうなっていたか、巣ごもり生活で、私のバランス感覚が少し狂ってしまったようです。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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