特に記載のない場合は見延典子が書いています。
2021・2・26
英語で「頼山陽の母」
Hiroshima Historiographersの勉強会で、上智大学教授のベッテイナ・オカ氏の論文「頼静の多重ネットワーク」が始まった。頼静は山陽の母で、号は梅颸(ばいし)。江戸時代に生きたこの女性のいったいどこに、外国人は惹かれるのだろうか。会場は国際会議場3階研修室(広島市の平和公園内)。毎週水曜日16時~と18時~のクラスがあり、講義は英語で行われる。講師はジョン・メ一シング氏。参加費無料。見学だけでもOK。
2020・12・3
副島種臣と『日本外史』②
ネットで副島種臣を調べているとき、「副島種臣と銭子琴」という項目が目に入った。 銭子琴は『日本外史』上海版の出版に関わった人という記憶があるが、詳しいことは知らない。クリックすると、島善髙氏という早稲田大学社会科学総合学術院教授の論文が出てきた。それによれば、子琴は日本にも滞在したことのある清人で、医者を生業としていたらしい。1879年(明治12、光緒5)『日本外史』に評点を加え、上海で出版したという。
ただ、実際に『日本外史』上海版の翻刻をした当事者は「東本願寺上海別院」であったとも書かれている。にもかかわらず「東本願寺上海別院」という名称が『日本外史』上海版に書かれていないのは、「1873年に締結された日清修好条規には日本の僧侶が布教をする権利は規定されていなかったから」だそうである。『日本外史』は布教と結びつけられていたのだろうか。(この項続きます)
副島種臣(そえじまたねおみ)[1828~1905]政治家。佐賀の生まれ。尊王運動に奔走。明治政府の参与となって政体書の起草や版籍奉還に尽力。征韓論を主張して下野。のち、枢密顧問官・内務大臣を歴任。( デジタル大辞泉より引用、肖像写真はネットより借用)
2020・12・2
副島種臣と『日本外史』
ある方から「副島種臣と『日本外史』の関係がネットに出ていたよ」と教えられ、さっそく検索する。
なるほど、清国との正式国交を希望していた明治政府から特命全権大使に任命された種臣は、1873年(明治6)清国に渡り、穆宗同治帝と単独謁見。この際、丁韓良(アメリカの宣教師、教育家のテイラー。丁韓良は中国名)から『格物入門』『化学初階』等数部の贈呈を受け、副島は『日本外史』を呈して酬いた、と書かれている。
思わぬところでまたアメリカ人が出てきた。とともに『日本外史』がこんな形で清国に渡ったことも初めて知った。『日本外史』はやがて上海版が出版される。次回はそのことについて紹介したい。
2020・11・28
菅公一千年祭紀念碑
本欄の11月7日付けで書いているようにタック先生の菅原道真論を、先日読み終えた。
直後、いっしょに論文を読んでいた方から、平和公園近くの天満神社に「菅公一千年祭紀念碑」が建っていることを教えられる。
道真は903年(延喜3)に没し、千年後の1903年(明治36)に一千年祭を迎えた。ネットで検索すると、全国にはかなりの数の「菅公一千年祭紀念碑」が建てられいることがわかる。いったいこれは何を意味しているのだろうか?
演題は「世界文学としての日本外史」で、頼山陽の『日本外史』を紫式部の『源氏物語』と比較し、世界に受け入れられていった状況について語っている。流暢な日本語に圧倒される。講演時間は約20分。視聴は無料。但し、別途入館料が必要(会員、65歳以上は無料)
2020・11・21
ロバート・タック氏の講演
11月3日に行われた頼山陽シンポジウムでテーマ講演を行ったアリゾナ州立大学助教授ロバート・タック氏の講演内容を頼山陽史跡資料館のロビーで見ることができる。
右は司会のジョン・メ一シング氏(Hiroshima Historiographers主宰)
Hiroshima Historiographersの活動を通して見えてきた、海外の専門家による頼山陽や日本史についての研究や関心の高さを紹介するとともに、外国人にその意義をどう伝える
かそして「日本外史」の再評価の必要性を考えた。
2020・11・15
英語で語る頼山陽と日本外史
11月14日、国際フェスタ(主催/公益財団法人広島平和文化センター)の一環として「英語で語る頼山陽と日本外史」がオンライン講座(1時間)として行われた。
ひろしま情報aネットより。写真、記事(一部)転用しました。
Hiroshima Historiographersについて
活動内容:
日本史に詳しいアメリカ出身のジョンとロシア出身のセルゲイらで設立しました。
毎週1回英語で書かれた日本史(主に江戸時代)や頼山陽についての資料を読み、英語でディスカッションします。メンバーの半数は外国人で、日本人参加者よりも遥かに日本史を勉強して知識も豊富です。頼山陽の「日本外史」は江戸時代後期のベストセラーでした。頼山陽史跡資料館は当時頼山陽が執筆していた屋敷に建てられています。
頼山陽、近代日本史に関する英語文献を収集・精読し、頼山陽の功績や近代日本史を英語で発信することにより、外国人の日本史への関心を高め、広島への訪問者を増やすことを目的としています。
目的 近代日本史(主に江戸時代)や頼山陽を英文資料で学ぶ
国際交流ネットワーク加入団体(草の根交流・その他国際化推進)
活動日時: 毎週水曜日18時~20時
活動場所: 国際会議場3階研修室
会員数:10人(うち広島市民8人)
入会条件 趣旨に賛同する人
会費 なし
問い合わせ先
公益財団法人 広島平和文化センター国際交流・協力課
〒730-0811 広島市中区中島町1番5号
TEL (082)-242-8879 FAX (082) 242-7452
国際交流ネットワークひろしま 研修室予約専用電話 (082) 242-7825
internat@pcf.city.hiroshima.jp
2020・11・11
グリフイス記念館さん
「『外史』は圧縮と優雅の模範」
グリフィスはThe Mikado's Empireに『日本外史』をたくさん引用しています。頼山陽の文を圧縮と優雅の見本と表現していますから、本当に好きだったと思います。
また『外史』は彼の日本史観の源泉(アーネスト・サトウ経由のものですが)の一つです。この本は邦訳が後半の日本滞在記だけで、前半の日本史の部分はないのですが、当館HP「建物と展示」→「ガイド資料」に最終章だけ載せています。グリフィスがどのように『外史』を読んだかおわかりいただけると思います。
〒910-0006 福井県福井市中央3丁目5番4号
TEL・FAX 0776-50-2911
The Mikado's Empire の第三章に、以下の文章があったのを思い出しましたので、お伝えしておきます。
“『日本外史』の多くのページは圧縮と優雅の模範であり、雄弁を戒めた鮮やかな輝きは真実の明察と確信より生じ、忍耐強く事実を吟味し、発見に至るまでの困難な手探りの道を経たものである。その文章の多くが警句を成す。日本の学生たちが最も熱情的に読んだ物語である。”
彼が特筆しているのは『外史』だけなので、彼にとって特別な作品といって間違いありません。
2020・11・10
グリフィス関連の著作
グリフィス関連の著作を調べると、想像以上に出版されている。
頼山陽や『日本外史』という言葉も何カ所か出てくる。
グリフィスは横浜で出されていた英字新聞「ウィークリイメール」にも
宗教的な記事を寄稿しているから、同新聞に掲載されていた英国の外交官アーネスト・サトウの『日本外史』の訳文を読んでいた。当時の外国人社会は極めて狭く、サトウとも交流はあった。
『明治日本体験記』の解説によれば、イサカ市のコーネル大学のワッソン・コレクションには、グリフイスが所蔵していた頼山陽の『日本外史』(十二巻…原文のまま)と『日本政記』(一、二、三、八のみ)が所蔵されているという。
グリフィスの代表作『皇国』(原題は「The Mikado's Empire」)はグリフィスが帰国後の1876年出版され、グリフイスが「日本通」として知られる契機となった。
2020・11・9
グリフィス記念館
3日の講演でタック先生が「W.E.グリフィス(1843〜1928)は福井藩に招聘された」と話された。ネットで検索すると、2015年福井市に「グリフィス記念館」が開館していたことがわかった。
(グリフィスは現在のボストン市立図書館の壁面に頼山陽の名を刻むことを推挙した人物)
その後、文部省に雇われ、東京南校(後の開成学校)の教師となる。日本での生活は約4年であった。
1870年末、開明派であった松平春嶽と契約し、福井藩校で化学や物理を教えることになったが、着任5カ月で廃藩置県となり、職を失う。
2020・11・8 グランマ宇津志さん「明治以降の日本の異常さ」
11/7付け、見延さんの記事を読んで、感じた事です。
言及される通り、改めて、明治以降の日本の異常さについて考えさせられます。
ロバート・タック氏はじめ世界の研究者と繫がることで、俯瞰的に見えてくること、利用される思想の怖さを感じます。このことは、現代社会にも通じますね。
直訳すれば「詩人、模範、文学政治 帝国日本の菅原道真」という意味だろうか。タック先生はこの論文で、菅原道真の評価の変遷を追い、特に明治以降、実像とは大きく変わっていく道真像について言及している。比較するのは恐縮ながら、私が『頼山陽と戦争国家』(2019)で試みたことと同じことをされている。
2020・11・7
タック先生の菅原道真論
11月3日のシンポジウムで、ロバート・タックアリゾナ州立大学准教授はほとんどふれられなかったが、タック先生には「 Poets, Paragons, and Literary Politics: Sugawara no Michizane in Imperial Japan」(2014)という論文がある。
菅原道真(845~903)は宇多天皇から重用されて右大臣まで昇りつめるが、出世を妬んだ左大臣藤原時平の讒言により大宰府に左遷されたとされる。頼山陽もこの事実を踏まえて漢詩を詠み(二首)、自分の考えを『日本政記』に記している。
私見ながら、山陽の頃までは道真の評価は客観性を備えているが、明治に入るとガラリと変わる。「天皇への忠義」という面でしか論じられなくなる。これは頼山陽の評価についても同様である。
タック先生の論文が書かれたのは2014年。私が英文で書かれたこの論文の存在を知ったのはつい1カ月ほど前である。
2020・11・5
山根兼昭さん(愛知県在住)
「インターナショナルな講演会」
この度のシンポジュウムは、山陽に関しては考えられないほどインターナショナルな講演会で、聴講した甲斐ががありました。
本来山陽に関しては、明治の初めには、上海や英国で「日本外史」の翻訳がなされ、明治15年、ハーバード大学による世界の文豪調査では、英国は「シェイクスピア」、ロシヤは「トルストイ」、フランスは「ビクトルユーゴ」、イタリアは「ダンテ」、さて日本は・・「頼山陽」という評価があります。
改めて、山陽に関しては戦後日本の異常さを痛感しますが、広島へ行くと頼山陽を身近に感じます。
関係者の努力が実り、頼山陽がもう一度再認識されることを願いたいですね。