見延典子が書いています。
2020・7・1
『日本外史』「北条氏」から訳す
サトウはなぜ『日本外史』を「北条氏」から訳したのだろうか。
『アーネスト・サトウの読書ノート〜イギリス外交官の見た明治維新の舞台裏』には「北条氏は実際の評価よりも注目度の低い一族である。訳者(サトウ)はその一族の歴史を果敢に着手したのである。その理由は北条氏の記録がとりわけ興味が尽きないものであったからである」と書かれている。
『アーネスト・サトウの読書ノート〜イギリス外交官の見た明治維新の舞台裏』
楠家重敏著。2009年。雄松堂書店。
サトウが以上にのように書いているにもかかわらず、著者の楠家重敏氏はわざわざ頼山陽の「外史例言」を引いて、「源氏の歴史を知るためには脇役の北条氏の歴史を叙述することに意義があると山陽が書いたことに、サトウは賛同を覚えたのだろう」としている。
だがこれはかなりピントの外れた解説ではなかろうか。
北条氏の時代に何があったか。
まず文永の(1274)、弘安の役(1281)のいわゆる蒙古襲来だ。日本は蒙古に攻められたものの、神風(実際は台風)によって打ち勝つ。
次に後醍醐天皇が倒幕計画の失敗により隠岐に流されたあと(1332)、楠木正成や護良親王が挙兵、後醍醐天皇も隠岐を脱出して倒幕の綸旨を出し、足利高氏が京都で幕府軍を破って鎌倉幕府は倒れる(1332)
サトウは単純に北条氏の時代に起きたと同じことが、今、まさに日本で起きたことに、驚き、興奮しているのではないか。
2020・6・27
アーネスト・サトウ①
アーネスト・サトウ(1843 - 1929)は1862年(文久2)イギリスの駐日公使館の通訳生として初来日した。まだ幕末と呼ばれ、4年前に日英修通称条約も結ばれていたが、それ故というべきか、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていた時代である。
日本に着任後に起きた出来事は、幕末でいえば生麦事件、薩英戦争、下関戦争などで、薩摩や長州は西洋と戦い、圧倒的な武力を前に、攘夷という方向性を変更し、開国に向けて大きく舵をとる。
またイギリス公使に追従する形ながら、伊藤博文、西郷隆盛など薩長の主要な人物、最後将軍となる徳川慶喜、土佐藩の山内容堂や阿波藩主からも招かれている。その卓越した日本語能力により、西洋の情勢などをこれら要人に語り、また逆に日本の状況を本国イギリスにも伝えていたろう。
サトウが書き残した『一外交官の見た明治維新』は終戦までは発禁であった。明治末期に日英同盟が結ばれたあと、大正末期に解消し、以後イギリスとは敵対関係になった、といえばそれまでであるが、幕末維新史についていえば「明治維新は薩長が成し遂げた」といういわゆる薩長史観の拡散に、水をさす存在であったのかもしれない。
2020・6・23
桜井駅跡のパークス碑
アーネスト・サトウが『日本外史』を訳していると知り、すぐに思い浮かんだのは、以前訪れたことのある史跡桜井駅跡(大阪府)である。楠木正成、正行父子の永訣が行われた場所として戦前には大いに喧伝され、現佐は公園になっている。
公園内には頼山陽はじめ、多くの碑があるが、最初に建てられたのが、明治9年、英公使パークスによる「楠公訣児之處」碑であった。
もっともパークスには通訳、外交官として卓越した日本語能力を発揮するア一ネスト・サトウが追従している。この碑の建立にあたっても、明治4年から5年にかけて『日本外史』を英訳したサトウが、なんらかのアドバイスを行ったと考えるのが自然だろう。こちらもごらんください。
アーネストサトウ(1843- 1929)は幕末期に活躍した英国の通訳官・外交官で、維新後は駐日英国公使となった。Nさんに教えていただき、県立図書館で、サトウの訳文が掲載されているという『日本初期新聞全集』はじめ関連図書を借りる。
サトウが読んでいたのは、『日本外史』久太郎版の第2刷のようで、その本は現在、ケンブリッジ大学で保管されているという。
話がどんどんスケールアップしているようで、愛山から書くべきなのか、サトウから書くべきなのか、少々混乱している。
2020・6・18
アーネストサトウが
『日本外史』を訳す
13日にジョンさんに会ったとき、広島県立図書館にお勤めのNさんから、思いがけない話を教えられた。
アーネストサトウが『日本外史』を訳しているというのだ。恥ずかしながら、初めて知る話である。
確認すると、「THE JAPAN WEEKLI MAIL」という明治初期、横浜で発行された新聞の中に載っている。しかもなぜか「北条氏」の項(後に理由がわかる)。
連載は明治4年から5年にかけてで、『日本外史』が初めて異国の言葉に訳されたものと考えてよい。
赤枠内
「A fragment from the Nihon Guaishi of Rai Sanyo」
(原文はすべて大文字になっている)
2020・6・17
ジョンとアイザン
ジョンからメールがきて、長い英文が添付されている。現在、セルゲさんも含め、外人さんの勉強会で読んでいるもので、私にも読んでほしいというようなことが書いてある。
ジョンは日本語が読めないし、話せないので、添付されているものは英語である。オイオイ、この長い英文を読めってかい? 正直、お手上げ状態であったが、ネットで調べると、同じ内容の本が日本語でも出版されていることがわかった。
伊藤雄志著『ナショナリズムと歴史論争─山路愛山とその時代』2005年。風間書店。
伊藤雄志著『ナショナリズムと歴史論争─山路愛山とその時代』だ。先日、ジョンに会ったとき「べリインタレスティング」といっていた。
今どき、何人の日本人が山路愛山を読んでいるだろうか? 私は愛山の「頼襄を論ず」や「足利尊氏」を読んだとき、愛山の思想に触れたものの、深く知っているわけではない。
ページをめくると、いきなり明治から大正の言論界に引きずりこまれたような気分になる。それにしてもジョンは、いったい何が「べリインタレスティング」なのだろうか。
今のところ内定しているのは、今年の11月3日、広島市袋町にある市民交流プラザで、ロシア人のセルゲさん、アリゾナの大学の准教授のロ
2020・6・14
外人による「頼山陽シンポジウム」
今年の11月3日、外人による「頼山陽シンポジウム」の話が進んでいる。アドバスをもとめられ、会合に出席した。
バートさん、アメリカ人のジョンさんによる講演を中心にした「頼山陽のシンポジム」(主催 / 公益財団法人頼山陽記念文化財団)が開かれるということである。
そもそも彼らがなぜ「頼山陽」に興味をもったのか、そのあたりも知りたいが、彼らが「頼山陽」をどんなふうに語るのかも聞いてみたい。
少なくとも現時点で、私自身がこれまで把握していなかったいくつかの頼山陽に関する情報も得ている。ここで紹介するにあたっては、許可を得て順次とりあげていきたいと考えている。
2020・5・27 外国人が見た頼山陽
以前、このホームページで、頼山陽史跡資料館で行われている「外国人による頼山陽の研究会」を紹介したことがある。
ロシア人のSさんは、拙著『頼山陽と戦争国家』を購入してくださった上で、多くの付箋をつけ、私につぎつぎ疑問を投げかけてきた。その熱心さに私のほうがたじろいでしまったが、今回、同じ会に参加されているアメリカ人のJさんからアメリカの大学の准教授(アメリカ人)がつくった頼山陽に関する研究の資料が送られてきた。
もう一度書く。アメリカ人の准教授が頼山陽の研究をしているのである。
ちなみに、Jさんは日本語の読み書きができないので、会話やメールはすべて英語である。漢文に加え、英語の読み書きもまともにできない私が、アメリカ人助教授やJさんが伝えようとしている内容を理解するには多少の時間を要する。またいただいた資料をどこまで公にしていいかという問題も生じる。
それらがクリアでき次第、「外国人が見た頼山陽」とはどのようなものであるか、書いていきたい。