特に記載のない場合は見延典子が書いています。
山陽が宿泊した有松絞染問屋「井桁屋」では8代目ご当主の服部豊さんが敷地内を案内してくださった。
2019・10・8
有松訪問記①
10月7日尾張旭市在住の山根兼昭さんの案内で、進藤多万さん、見延典子が名古屋市緑区有松を訪ねた。
ご当主のお話を伺いつつ、山陽が訪れた往時をしのぶ。
地元商工会の長老方も、今回の認定は期待していなかったようですが、見事金的を得ました。その要因は、400年の有松絞の伝統、重伝建指定の重厚な街並み、隣接する桶狭間古戦場、それに頼山陽の詩碑足跡と将に3拍子揃った賜物であると思います。
(感想)改めて有松の凄いところは、4百年前、竹田庄九郎、服部孫兵衛達が始めた絞り染めが、10数代続いた子孫によって現在も脈々と続き、発展していることであります。
2019・6・4
山根兼昭さん
「祝日本遺産・有松」
6月1日(土)2日(日)有松において、日本遺産認定の祝賀式典と、有松絞祭りが行われました。
また有松は、東海道の鳴海宿と知立宿の間にあり、井桁屋・服部家には頼山陽が、また竹田家には勝海舟の書があるとか、江戸時代の著名人の足跡が多くあるのであります。
この機会に、頼山陽の詩碑をPRすべく、パンフレットを作り、詩碑の前にある喫茶店カフェにおかせていただくことになりました。
既にお客さんがコーヒーを飲みながら、詩碑のパンフを見ていただいております。
2019・5・26
山根兼昭さん
「有松と頼山陽」その3
1、この度、有松が日本遺産地区に認定され、6月1,2日(土、日)恒例の有松絞祭りが行われます。
2、先日の講演会の後、商工会の理事で桶狭間古戦場のガイドをしておられる「緒川友征様」から自己紹介をされました。
曰く、「ガイドの合間にお客さんに詩吟「過桶狭間」太田錦城、「過有松邨」頼山陽を披露している。その関係で、10年ほど前より頼山陽に関心を持ち、見延典子著「頼山陽」を精読してすっかり見延ファンになった。また「過有松邨」の件で、2012年6月に史跡資料館の花本哲志様に質問状を出したら、返事をいただいた。小生がその資料を見せていただいたら、「頼山陽全集」のコピーがあり、1枚は150,151頁―漢詩、過有松邨。2枚目は336,337頁ー「1813年11月〇日・是より先、三河に入り、この日有松村を過ぎり、村南は即ち桶狭間なりと自注している。11月〇日、西尾に在り、門人・和泉村(現安城市)都築曲江に導かれて、藩用達 深谷半左エ門翁を訪い、別荘「又深居記」の作あり・・・・」
湯谷祐三先生の「西尾にも来た頼山陽」は「頼山陽全集」にあった事が解かりました。
3、緒川友征さんに、有松情報を「頼山陽ネットワーク」に投稿するよう依頼しました。
2019・5・21
山根兼昭さん
「絞りの有松・日本遺産に認定」
頼山陽ゆかりの地、有松が昨日、日本遺産に認定されました。特に最近は「有松まちつくりの会」が精力的に活躍し、5月16日の「有松を訪れた頼山陽」もその一環として行われました。
「有松の歴史」1603年江戸幕府を開いた徳川家康は、1608年江戸と京を結ぶ東海道の整備を各藩にお触れを出しました。
尾張藩は、鳴海宿と知立宿との距離が5里以上あり、その間に街を作るようお触れを出します。
それに答えたのが、知多阿久比の竹田庄九郎ほか8名の住人でした。しかし荒れ地で作物は殆ど出来ず苦労をしているとき、1610年、名古屋城築城のため九州豊後から来ていた人夫が着ていた絞り染めの袢纏を見て、有松絞が出来たのであります。
東海道を通る多くの人に、絞り染めの手ぬぐいを販売、藩の保護もあって大繁盛したのであります。
1784年の大火で街は全焼しますが、この財力で耐火作の豪壮な建物群を作り、20年後に見事復興、以来230年たった今日においても その街並みは、そのまま保存されているのであります。
(感想)先日講演後、まちつくり会の竹田会長他役員の方々と懇談した際、竹原に関心があり、重伝建指定地区でもあり山陽との関係で話が弾みました。
1、頼山陽は17歳の年(1796年)江戸昌平黌に留学することになりました。
頼杏平に連れられて、3月12日広島を出発し、29日に鳴海宿に宿泊。そして30日の朝、東海道を東進し10時ころには有松の街に到着いたします。
2019・5・18
山根兼昭さん
絞染めの有松・講演会
「有松を訪れた頼山陽」
日時 令和元年5月16日
場所 有松商工会館
主催 有松まちつくり会
1784年、有松は大火で全焼しますが、これを教訓に燃えない街作りをしようと努力。1790年井桁屋の建物が新築、 ほかにもなまこ壁の重厚な建物が出来始め、山陽もその異様さに目を見張ったのであります。そして20年後には復興したのであります。その後隣接する桶狭間の古戦場を見学し、江戸へ向かいます。
4月6日に静岡、此の頃の富士山はまだ7合目まだ雪をかぶりその姿に圧倒されたことと思います。山陽には「富士山」を詠んだ詩は見当たりませんが、あまりの雄大さに詩に表現できなかったのかと思います。そして4月11日丁度1ヶ月をかけて江戸に到着しました。
2、頼山陽は、32歳(1811年)の時上洛し、小石元瑞の援助を得ながら生活を始めますが、画材を調達するため鳩居堂へ出入りし、当時山陽が改良した筆が評判となり大変繁盛していたのであります。(鳩居堂社史より)
その頃山陽は、京の蒔絵師6代目山本春生と交友があり、春生の母「いわ」より「山陽先生、名古屋へ行かれることがあれば、有松の実家、井桁屋を訪ねてください。」
また6代目山本春生の弟「春章」はその後、井桁屋の養子となり服部家4代目を継いだのであります。
山陽は 1813年(34歳)10月、美濃尾張へ揮毫旅行に出発いたします。美濃大垣を経て7里の渡しで熱田に上陸した山陽は、尾張藩医小林香雪に出向かへられ、有松井桁屋を訪問するのであります。京で面識のあった4代目の歓待を受けたのであります。
(感想)有松は現在、国の「日本遺産地域指定」の申請中であり街を挙げて取り組んでおります。そのタイミングで「それならば今こそ頼山陽をPRして生かすべきだ」と進言して今回の講演会となった次第です。今迄有松の人をほとんど知りませんでしたが、多くの役員との面識が出来ました。
この時、天守閣は耐震工事にため非公開だった。
本末御殿は戦時中に空襲で焼失。昭和の時代(戦前の設計図をもとに、2013年から18年にかけて復元した。空襲に備え、一部に文化財は持ち出され、被害は免れたものもあるとのこと。
将軍が入った「湯殿」は30分に15人限定見学。周辺はまだ修復工事中。
2019・1・17
名古屋城、本丸御殿の写真
(社史説明文)王の学者、頼山陽の指導を受けて、筆墨に改良を加え、紙や絵絹にも長足の進歩を遂げましたが、それよりも日本の国がらを教えられ、勤王の精神を強く植え付けられました。
その水魚の交わりのほどは、山陽がその雄大な筆跡をもって自ら「鳩居」と額を書いてくださったり、「筆硯紙墨皆極精良」と書いてくださったり、「鳩居堂記」という長文の巻物を残して下さったことでもわかります。
2018・8・10
山根兼昭さん
「鳩居堂名古屋店にて頼山陽発見」
お盆の線香を見に、松坂屋名古屋本店内にある「鳩居堂名古屋店」に行きました。そこで「頼山陽」の話をしましたところ、店員さんが「鳩居堂社史」を見せてくれました。
(感想)頼山陽は1811年に上京し、小石元瑞の世話になり、それから京都鳩居堂からもいろいろ生活援助を得ていたと聞いておりましたが、社史を読むと、鳩居堂の発展に多大な貢献をしていたと云う事が解かりました。名古屋店の女性店員でも山陽の話に答えてくれたことで、鳩居堂では現在も山陽が生きていることを実感し、嬉しく思いました。