特に記載のない場合は、見延典子が書いています。
雲華上人の石蘭図が展示中 賛に文政10年とあり梅颸一行「十旬花月」の旅中の作品のようだ 石蘭が梅颸夫人に似るとある
2019・7・2
石村良子代表「広島城 山陽くん」
現在 浅野氏広島城入城400年記念で賑わう広島城 来客と出かける
これで帰ったのではネットワーク金石部として芸がなさすぎる、
石灯篭も写す、ここ白神社は江戸時代の岩礁の上に立つ。
2019・6・23
石村良子代表
「名越の祓い」
頼家ゆかりの白神社 現在夏越の祭の茅の輪が設置されている
年の無事に感謝、残る半年の無病息災を祈願して茅の輪をくぐる
これは?とパソコンで、すると、
郵政博物館 研究紀要 第8号(2017年3月)近世における飛脚関係の金石史料―常夜灯、道標、墓誌を中心に― ページ129 C なし(竿) 江戸日雇方(横書き)
芝
三河屋□(欠ヶ)
田屋善左エ門
尾張屋かめ吉
とありました。論文によると、当時飛脚組合で旅の安全を祈願し 常夜灯を寄進するということが有ったという。郵政博物館の論文というところに感慨を覚える石村でした。
2019・2・7
頼山陽『萬象園記』
昨年末、かつて広島にあった大名庭園「萬象園」の名づけ親は頼山陽ではないだろう、と書いたところ、ある方が『山陽文集』に頼山陽の『萬象園記』が掲載していることを教えてくれた。見れば、確かに「曰萬象之園。皆君與襄輩。商議定之云」とあるではないか。山陽が名づけたとは書いていないが、立場上だろう。
何ごとも思いこみで判断してはいけない。内容も精読したい。
10数年前、広島市中区羽衣町にあった広島藩家老、三原浅野家の別邸「萬象園(ばんしょうえん)」が取り壊された際、庭園内にあった灯籠などを広島城に近いこの地に移したものらしい。よく見ると「頼山陽」の名前がある。
2018・12・22
萬象園の碑
広島市中心部、バスセンターの北側(リーガロイヤルホテル並び)に小さな碑を見つけた。
「萬象園」と名づけたのは頼山陽と書かれているが、山陽は生前、広島藩において名誉を回復できなかった。家老の別邸の名づけを命じられたとは考えにくい。父の春水なら、可能性はあるだろう。