今回の大垣先賢大学は、第1回12月3日、梁川星巌とその詩風と本日の第3回を聴講いたしました。
1、江馬 裊、字は細香、美濃大垣藩医江馬蘭斎の長女。1787年大垣城藤江村に生まる。細香27歳の時、濃尾遊歴中の頼山陽が蘭斎宅を訪れた際にこれに師事し、画法も、山陽の友人浦上春琴に入門し格を変じた。この後細香の詩文は、ことごとく山陽の朱批に委ねられ、化政期の芸林に異彩を放つのである。
2018・2・12
山根兼昭さん「おおがき先賢大学─江馬細香の墨竹」
主催者 大垣市教育委員会
講師 黒川桃子先生(早稲田大学非常勤講師)
会場 大垣奥の細道むすびの地記念館
日時 2月11日(日)午後2時~3時半
2、墨竹への思い入れ。幼少時より竹の絵を好んで描いた。杜甫の「竹を詠ず」・・風吹けば細細として香ばし。後に号としても使うことになる。
3、画に記された画賛。山陽は細香に「自ら描いた絵には、自ら賛を書くように勧めた。いわゆる「自画自賛」。細香の絵には山陽の画賛はほとんど見られないように思う。
4、墨竹における詩画一枚の世界。竹の表情(葉のなびき方)と画賛によって、より作者の意思が鮮明になる。
5、後藤松陰撰文、細香墓碑銘。「君、諱は裊、字は細香、湘夢と号す。・・・文久元年辛酉九月四日、病没す。享年七十五歳、邑の禅桂寺に葬らる。・・・」
*講演終了後、主催者より黒川先生と、江馬家第六代当主・江馬斎一郎様を紹介されました。江馬様より、「六年前、見延典子先生他ご一行の方々のご訪問をいただきました。よろしくお伝えください。」との事伝をいただきましたのでご連絡いたします。
2018・1・30
山根兼昭さん
頼山陽と村瀬藤城 その3
「西部萬年に贈る詩」箱書き解読
(本文)西部氏所蔵の山陽頼先生行書七絶は、今を去る凡そ六七十年前、先生美濃に遊び、善應寺禅智師および余の祖藤城 秋水二老を来訪し、次いで西部氏の家に殆ど三月、郡上に転遊し、西部氏六代の祖 自珍(萬年)君、途中相伴す。此の詩、蓋しその時の作なり。筆力雄飛、勢い風雨の俄に至るが如し。詩もまた流麗非凡、骨所、能く及ぶものなり。
先生の学識文章、当時の人これを知らず、近来に至るに及んで名声隆起し、先生書す所の半箋隻残、天下争い求め、獲る者以て至宝と為す。
頃日(近ごろの意)、兄(利種)、旧塵を一洗して演装し、巳に讃して之を愛護す。宜しく余をして其の由を書かしむ。
嗚呼、斯くの如き書、亦得るべからず。兄の求めも亦辞するべからず。遂に数言を題し、以て之を返す。
時に明治十五年一月初九日 三野藍水 識(しる)す
(注)1、村瀬藤城の系譜を見ますと、「秋水」は藤城の弟、箱書きの筆者「藍水」は秋水の孫です。
2、村瀬家と西部家は親戚で、兄、西部利種の依頼で箱書きを書いたと云う事です。
3、明治15年(1883年)に書かれたこの箱書きから、70年さかのぼると、1813年、山陽が美濃に遊んだ年に符合いたします。
(感想)藍水のこの書に対する評価、山陽に対する認識も時と共に名声隆起、作品も争って求め至宝となす など貴重な資料と思います。
しかし残念ながら村瀬一族は、藤城家も藍水家もこの代を以て絶え、系譜にも「美濃市に藤城家の跡はあるが血縁関係はない」と記されております。
西部萬年に贈る詩 頼 山陽
奚嚢(けいのう)探勝 百峰の間 落日に頭を回らせば不破の関
北行深さ幾里なるか知らず 林端忽ち得たり賀州の山
(大意)重なる山々と深い谷、何という素晴らしい景色か、振り向いて夕日に目をやればその先は不破の関である。
飛騨の山並みを北に向かって幾里行けばよいかわからないが、その先は加賀の山である。
2018・1・23
山根兼昭さん
頼山陽と村瀬藤城 その2
梅荘百年楼記に「昔、山陽先生を濃の郡上に案内し、斉藤招桂の梅隠亭に泊す」とありましたが、この時、藤城は10日後に祝言を控えており、山陽の案内は、殆ど親戚の西部萬年に託したのでした。梅隠亭には二週間ほどの滞在でしたが、その間、萬年の心使いに感謝して詩作をしたのであります
平成28年10月に、美濃市の西部家で床の間にかかるこの紙幅を拝見いたしました。座ってじっと見ていると、字が実にきれいですごく迫力を感じました。
山陽はこの時、一晩善応寺の禅智師招かれて「善応寺に禅智師を訪う」の詩を残しております。
この詩には、郡上で作詞をして鞄にしまっていたこと、禅智師が寺の宝と言って「端溪の硯」「程君房古墨」見せたので、二人で書き合って楽しんだこと、玉質で滑りがよくさすが筆ののりは良い。」などと書かれております。
「贈る詩」の箱書きを専門家の先生に解読していただきましたが、次回といたします。
2018・1・16
山根兼昭さん
「頼山陽と村瀬藤城 その1」
村瀬藤城筆跡「梅荘百年楼記」
今年は、頼山陽が美濃を遊歴、村瀬藤城に会って205年です。そろそろ梅の便りが聞かれそうですが、
藤城の晩年、1847年(57歳)に藤城山房中にての作、「梅荘百年楼記」を紹介します。
(本文要約)
昔、山陽先生の濃の遊ぶや、余これに郡上に従い、すなわち斉藤招桂なる者をその別荘「梅隠亭」に訪う。
その四囲、山水清廉にして、梅樹を裁うること五六十なるべし。
余、視て而してこれを羨む。襟を正して言いて曰く「僕もまさに他日、
隠遁生活を梅花に託さんとす。またまさにこの如くなるべし。」
山陽先生、諸公これを哂う。
二十年を超えて後、余、遂に梅荘を郷の北峡にはじむ。・・・・
(感想)
藤城は、その後、大坂より3千本の梅苗を購入し、梅園の中に梅荘を建て、ここに多くの同志を集めたとあります。
しかし、林逋作「梅花」より「梅は特に少なきをもって妙となす。必ずしも多き故を較べず。」とも言っております。
頼山陽も、晩年好んで観梅をしておりますが、藤城同様「梅隠亭」の印象が気に入っていたと思われます。
藤城の梅園は、現在の善応寺の前一帯に会ったと聞き、この前探しましたが、今はその面影もありませんでした。