2018・9・8 山根兼昭さん「阿久嶺」
文政元年(1818)9月8日、九州遊歴中の頼山陽は熊本から陸路で野間原の関を通過し、阿久根駅に至り一泊、さらに翌九日、南へ二里ばかり行った牛の浜で、その絶景を詠んだ作。
阿久嶺(あぐね) 頼山陽
危礁 乱立す 大濤の間 眥(まなじり)決すれば 西南に山を見ず
骨鳥影(こつえい)は低迷し 帆影は没す 天 水に連なる処 これ台湾
(大意)
怒涛の逆巻く海辺に、奇岩怪礁が乱立している。目を見張って遠く西南の方を望めば、一点の山影も見えない。ただ、はやぶさが海面に飛び交うのと、帆影が波間に消えて行くのみである。その水平線の彼方には、台湾があるのだろう。
野間の関は、関ケ原戦(1600)前後に、 薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったこの地(野間原)に設けられた。 島津藩から派遣された出水の地頭は、代々国境の警備が重要な任務であった。 藩政時代の領外への主要陸路は、出水、大口、高岡の三筋で、中でも出水筋は最重要視された。それぞれの藩境の要地に関
所を設け、さらにその左右の間道に辺路番所が置かれた。 野間の関の周辺には、狩集・草木原・芭蕉・青・椎・上場・切通に辺路場所が置かれ、水も漏らさぬ警戒陣であった。 藩境の境川(当時は橋はなかった)は、4km先である。 ここには、関守として8人の郷士が駐屯しており、辺路番所にも番人が駐屯していた。 関の規則は時代によって異なるが、他領への旅行者や物資の出荷を検査し、無証文の者は絶対に入れなかった。 江戸時代後期の尊王思想家・高山彦九朗や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した記録が残っている。 「薩摩びといかにやいかに刈萱の関も鎖さぬ御代と知らずや」 これは、薩摩に入ろうとした尊王思想家・高山彦九朗が、大宰府の刈萱の関さえも通してくれる時代なのに、 野間の関で足止めされたことに憤慨して詠んだものである。 徳川泰平の世となり、各藩は国境の警備を緩めたのに、薩摩藩はその藩体制を堅持する為に、ますます取締りを強化したのである。 しかし、明治維新、廃藩置県を経て、野間の関もその役目を終え、関所の跡をとどめるだけに至った。
(出水市教育委員会の案内板より・絵図も)ネットより