11月5日、広島県内屈指の紅葉の名所として知られる、臨済宗仏通寺派の大本山・仏通寺を訪ねました。山陽道三原久井ICを降りて、仏通寺川に沿うように山道を下ること約15分で、駐車場に到着。早速大きな樹々のある参道を歩いて、仏通寺川に架かる屋根付きの鞘橋を渡り、総門をくぐり境内へと入ります。
仏通寺の境内を後にして、参道沿いの広島県の天然記念物にも指定されている羅漢槙や輪蔵などを見物。その後は、向かいの小高い山の中に立つ開山堂や多宝塔への道を上ることにしました。
ようやく上りきると、そこには目指す開山堂、地蔵堂、多宝塔などが静かに佇んでいました。さらに、モミジやイチョウの木があるものの色づきはなく、まるでパワースポットのような不思議な空気感が漂っていました。
境内には、薬師堂、仏殿、大方丈、禅堂などが並んでいるので、順番にお参りをします。特に、釈迦三尊像を祀る仏殿や、十一面観音菩薩を本尊とする大方丈の中まで入ってお参りできるのでありがたい。
その参道は含暉坂(がんきざか)と呼ばれ、大木が立ち並ぶ中を縫うように二百段にも及ぶ石段が続いています。息を切らせながら上っていると、多宝塔の下方に多数の羅漢像があることに気づきました。
じゃが、手前の小早川隆景の墓はなんとか踏みとどまっとった。現場作業を担うリーダーのおっちゃんに尋ねれば、裏山の状態からして、どうしても残ったかふしぎでならんのじゃ。おお、これこそ現代に生きる、隆景パワーか!
2019・3・19
梅庵さん「ああ小早川家墓所」
ああ、小早川家墓所。わが国でもまれじゃといわれる、米山寺の小早川家の聖域が。昨年の土砂災害の猛威は小早川家墓所にも及んだんじゃ。
ふだんの様子(写真左)。前後20基の宝篋印塔はもちろん国の重要文化財。そろそろ隆景の凄さを世に問わんといけんかの…
2017・6・10 匿名さん 🔁 見延典子 「小早川隆景の肖像画」
見延典子さんへ
隆景の肖像画では最も有名なもので、黄梅院の玉仲禅師が賛をしているものですが、その左端に「外史」と書いた賛がみられます。
山陽のものと思われますが、私の見間違いなら御免なさい。
目下、三原市リージョンプラザで行われている「小早川隆景展」に展示されています。
匿名さんへ
頼山陽が讃に「外史」と書くことはまずないと思います。
讃を書いた玉仲周琇は1522年に生まれ、1605年に没しています。またお示しの小早川隆景の肖像画は「寿像」といって「生前に書かれた」とするインターネット上の記載があります。匿名さんがご指摘の「外史」が何を意味するのかは不明ですが、少なくとも時代が違うことからも、この肖像画に頼山陽は絡んでいないと思います。
三原にお住いの方、三原に行かれる方はぜひこの肖像画をご覧の上、情報をお願い致します
見延典子
見延典子さんへ
米山寺の宝蔵で隆景の絹本肖像画といえば、実は、小生も以前たまたま御開帳日にお目にかかったことがございました。実は、もうあれこれ20年隆景さんを追っております。
梅庵
2017・6・9
頼山陽が讃を書いた肖像画とは?
梅庵さん 🔁 見延典子
梅庵さんへ
小早川隆景の肖像画の讃を頼山陽が書いているという匿名さんからの情報をいただきましたが、どの肖像画かわかりますか?
見延典子
梅庵さんへ
送っていただいた説明板には「黄梅院の玉仲周琇が賛をした」とありますね。匿名さんに確認してみます。
見延典子
2017・6・8 匿名さん「小早川隆景の肖像画に頼山陽が讃を」
先日、三原の小早川隆景関係の史跡巡りをしましたが、米山寺の宝蔵で小早川隆景の絹本肖像画を拝見しました。
国の重要文化財に指定されていて、この絵の讃を頼山陽が書いていました。
2015・12・26
御調八幡宮の頼山陽文学碑
三原の御調(みつぎ)八幡宮に頼山陽文学碑がある。
御調八幡宮は、769年、和気清麻呂が直諫の罪で大隅国に流され、姉の広虫(法均尼)がここに流された際、宇佐八幡をまつり、清麻呂の雪冤を祈願したことがはじまりと伝えられる由緒ある神社。
一見、小さそうに見える文学碑だが、実はそうとうに大きい。
にもかかわらず、駐車場の裏手というわかりにくい場所に建っている。
近くには広虫が住んでいたという事を示す石碑も建っている。
頼山陽がこの地に立ち寄ったであろうことは想像に難くない。
和気神社は、伝説にちなみ、狛犬がイノシシになっている
この付近は見延典子の『非利法権天』(『竃さらえ』に収録)の舞台になった地でもある。
ところでその西野にはかつて梅林があり、頼山陽も京都と広島とを往復する際には立ち寄ったという。
「頼山陽の落書き」の前には石碑がある。右の写真。頼山陽の「西野梅林」という詩が書かれているが、残念ながら従来の頼山陽の詩集には載っていない。
頼山陽の落書き伝説はいくつかあり、見延典子の『牛狐』(『竃さらえ』に収録)も落書き伝説に基づいた一篇である。
尚、使用している写真は数年前のもので、現状は把握しておりません。ご了承ください。
2015・12・25
頼山陽の落書き「四つ堂」
前回、ご紹介するのを忘れていたが、小早川隆景が頼兼城を攻めて犠牲者を出したことを書いた碑も残っている。(左の写真)
といっても昭和に入り、諸般の事情から伐採され、現在では往時をしのぶものはない。
残っているとすれば、地元の方が「四つ堂」と呼ぶ建物に頼山陽が書いたとされる落書きだ。
上の写真の左の柱の上の部分。男性の頭の後ろの、光の当たった部分を拡大したものが、左の写真「頼山陽の落書き」といわれるもの。
2015・12・19
頼兼城址(三原市)
広島県三原市にある頼兼城址には「頼山陽先生遠祖頼兼城址」の碑が建立されている。
裏面には次のように書かれている。
「城主、岡崎十郎左衛門頼兼天正年間故ありて廃せられ 、子孫永く此地方に住し 後 竹原に移る。山陽先生は竹原頼五世春水の子也 」
ところで「故ありて廃せられ」の部分ついて、末森清氏という方の「三原史跡めぐり 失われた遺跡への哀愁 古を偲ぶ」には凡そ以下のように書かれている。
西野に住む岡崎十郎左衛門頼兼は小早川家に属していた。小早川隆景が備後神辺城を攻める時、十郎左衛門にも出陣の命令されたが、自分の妻と神辺城主の妻とは姉妹なので、命令にそむき出陣しなかった。
隆景は立腹し、頼兼城を攻めた。十郎左衛門以下は城にたてこもり戦ったが、破れて一族全員自害し、城に火をつけ亡んだ。
そんな中、身ごもっていた十郎左衛門の妻は助かり、男子を生み、その子は成長して、西野に帰って五郎左衛門と名乗った。 五郎左衛門は姓を岡本と改めて鍛治屋を営み、子孫は代々続いた。
頼山陽の祖先は、この岡崎家から分家し、竹原に出た。頼兼の 「頼」という字をとって姓を 「岡崎」 から 「頼」に変えた。
以上のような背景から、頼山陽はしばしば西野に来た。