その後、三樹三郎(号・鴨厓、古狂生)は、大坂の後藤松陰や篠崎小竹の下で学び、天保13年江戸昌平黌に入学するのであります。傍ら佐藤一斎や、梁川星巌等の下に出入りするようになり、弘化3年(1846)昌平黌書生寮を退去させられ、東北蝦夷地を遊歴、この時、松浦武四郎(三重県出身・北海
2018・10・7
山根兼昭さん
「安政の大獄・160年祭」その2
頼三樹三郎と江馬細香
頼山陽没後、江馬細香は未亡人となった梨影に姉妹のように接し、励ましました。そして遺児となった支峰や三樹三郎は、細香を叔母のように慕ったのであります。
道の名付親)と知り合います。
嘉永2年帰郷、ペリー来航後、尊王攘夷論を唱え、星巌や梅田雲浜らと連動したため、官憲に追われている身となり、一時大垣にて小原鐵心、細香らが匿ったのですが、安政の大獄で捕らえられてしまうのであります。
この間、細香に度々書簡を送り、詩の添削を依頼しております。
その後、梨影は安政2年9月17日43歳で没、三樹三郎は安政6年10月7日、安政の大獄で刑死、35歳。
江馬細香その2年後(文久元年)9月4日、75歳没
江馬細香「湘夢遺稿」の絶筆
吾ガ年 七十四 情味 灰ヨリモ冷ヤカナリ
病ヒ無キニ 身ハ仍ホ痩セ 綿衣窄ク裁タント欲ス
(門玲子著・江馬細香、湘夢遺稿参照)
(感想)細香は山陽没後29年生きますが、晩年、梨影、三樹三郎に先立たれてしまいます。しかし死の直前、山陽先生の命日よりは20日早いが、これで先生の下へ行けると喜んだと言われております。何かすべてが終わってしまった感じですが、三樹三郎の160年祭にちなんで、その存在を回想しました。
2018・10・2
山根兼昭さん
「安政の大獄・160年祭」
*吉田松陰・安政6年10月2日(1859・10・27)
江戸小塚原にて斬首。
辞 世 吉田松陰
吾 今 国の為に死す 死して君親に負(そむ)かず
悠悠たり 天地のこと 鑑照 明神に在り
(注)刑死の7日前に、獄中から郷里に送ったものである。その気概は正に鬼神をして哭しむものがある。
*頼三樹三郎・安政6年10月7日(1859,11,1)江戸小塚原にて斬首。
獄中作 頼三樹三郎
雲を排し手ずから 妖熒(ようけい)を掃わんと欲し 失脚墜ち来る江戸の城
井底の痴蛙(ちあ) 憂慮に過ぎ 天辺の大月高明を欠く
身は鼎穫(ていかく)に臨んで家に信無く 夢は鯨げいを斬って剣に声有り
風雨多年 苔石の面 誰か題せん日本の古狂生
(大意)雲を押し分け、怪しい妖星を自ら取り払わんとしたが、事ならず、失敗して、江戸の地に墜ちてしまった。考えれば、今の為政者たちは、見聞の狭い、井戸の中の蛙に等しく、憂慮する事ばかりである。自分は今、刑に処せられようとしているが、家郷の妻子との音信もたたれて、実に断腸の思いである。しかし我が志はいよいよ高く、夢の中で悪人どもを切り捨て、一剣は高くなるのを聞く夢であった。自分はこれから刑場の露と消えるけれども、やがて幾年月を経て風雨に晒され、苔むした墓石の面に、「日本の古狂生」と題して我を弔ってくれる者がいるであろうか。
(感想)この時、三樹三郎35歳、同日に福井藩士・橋本左内26歳も処刑されてしまったわけです。前の老中、阿部正弘がもう5年生きていれば、幕末の才能が守られたと思いますが、歴史にタラレバはないですね。
東京駅から役10分御茶ノ水駅で下車 神田川にかかる聖橋の向こうに湯島聖堂が見える。ありがたい雰囲気(良い気)が漂っている。
(ような気がした)
2017・11・13
石村良子代表「湯島聖堂」
結婚式で東京に 明くる日湯島聖堂に行く。
昌平の名は、湯島聖堂に祀ってある孔子の生まれた中国魯の国の昌平郷にちなんでつけられた。