2017・7・15

山根兼昭さん

「頼山陽といえば日本外史」

 

この度の集中豪雨で、頼山陽ゆかりの地、九州の朝倉市、日田市や山国川流域の皆様方には心よりお見舞い申し上げます。微力ながら一日も早い復旧復興を祈念申し上げます。


尾張旭市民塾・7月14日最終回

 「頼山陽と言えば日本外史」

 

今、大河ドラマのテーマは「井伊直虎」です。時は戦国時代、1553年~64年の11年間に亘って戦われたのが「上杉謙信と武田信玄の川中島の戦い」ですが、決着をつけることはできませんでした。

 

不識庵幾山を撃つの図に題す         頼山陽

鞭声粛々夜河を過る 暁に見る千兵の大牙を擁するを

遺恨十年一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す

 

1560年6月12日、織田信長は熱田神宮で必勝祈願をした後、桶狭間の今川義元の本陣に奇襲をかけ奇跡的な勝利を収めます。その後、美濃を平定した信長は、1573年、足利義昭を追放し室町幕府は滅亡するのであります。しかし、1582年本能寺の変により無念な最期を遂げたのであります。

 

1584年、信長の跡を継いだ羽柴秀吉は、安土城にいた織田信雄に城を出るように求めたところ、それが原因で「小牧長久手の戦い」が始まります。徳川家康・織田信雄軍と羽柴秀吉軍は夫々小牧山城と楽田城とに陣取り対峙しますが、その後長久手において一大決戦となり、多数の死傷者を出したのであります。歴史上数多くの戦いがありましたが、これが最大の戦いであり、1600年の関ヶ原の合戦にも大きな影響を及ぼしたと言われております。

 

『日本外史本文・・・・参議(家康)信雄を携えて勝川(春日井市)に至り、その地名を訪う、「勝川」と聞いて喜び、その兵に言って曰く「我勝てり」と。兜を擐して進み、道に捷聞を得、遂に長湫に至る。』

 

安土桃山時代も1598年、秀吉の死により終焉するわけですが、この間僅か25年は、1118年平清盛誕生から480年を凝縮し、次の徳川時代へ向かう序章であったのかと思う次第であります。

 

 

 

 

2017・6・20 山根兼昭さん 🔁 山田淳一さん

 

617日の投稿「名古屋市緑区有松町桶狭間、この一帯の尾張三河地区は、戦国時代より木綿の一大生産地で、織田信長も木綿を戦略物資としていた。その木綿生地を絞り染めにしたのが有松絞の始まりである」とご指摘をいただきました。

 

改めて、有松絞の起源を調べてみますと、1605年ころ竹田庄九郎は、当時名古屋城築城のため、九州豊後からやってきた人たちが着ていた絞り染めに着目し、その技法と染め方を習ったのが始まりでした。その後、有松は東海道の要衝となり、多くの旅人に豊富な木綿による有松絞を売り出し発展するのであります。

 

また明治になり、この豊富な綿糸を効率よく綿布にしたいと思ったのが、豊田佐吉であります。1889年佐吉(22歳)は知多郡岡田村で織機の研究を始め、後に乙川村の石川藤八の支援を得て木製織機を完成させたのであります。そして乙川織布合資会社(現半田市)を設立し、綿布生産は急速に発展するのであります。

 

私は、以前より、戦前戦後を通して知多半島北部一帯で何故こんなに綿布生産が盛んなのか、と思っておりましたが、山田さんのご指摘により納得致しました。

頼山陽は、この有松村桶狭間へ来て「谷あいの地で、信長の勝機も天候の急変とこの地形にあった。」また山田さんは「この地域は戦国時代から木綿の一大生産地」・・・もう脱帽です。有難うございました。

 

 

2017・6・17 

山田淳一さん ➡ 山根兼昭さん

桶狭間から長篠へ━山根兼昭さんの「桶狭間」に関連して

 

織田信長が今川義元の大軍を桶狭間に破って一躍その名を天下に轟かせたのは誰もが知る有名な話である。ところで、山根さんの御指摘のように、桶狭間の現在の地名は、名古屋市緑区「有松町桶狭間」である。つまり、「桶狭間」とは、木綿絞り(有松絞り)の発祥地の地名なのである。16世紀半ば、戦国の争乱がクライマックスに達するころ、国内産木綿の産地として大和を中心とする畿内と並んで三河・尾張地方が発展してくる。木綿は、軍衣や船の帆などに活用され、当時新来の重要な戦略物資の一つであった。要するに「桶狭間の合戦」は、もともと鳴海・有松の支配を狙った今川義元に、信長が重要物資の拠点を守るため、敢然と挑んだ戦いでもあったという説もあるくらいである。信長は木綿の先進地域を掌握することで、ほかの大名より優位に立つことができた。信長といえば、いち早く新兵器であった「鉄砲」に目を付け、その活用を研究し、長篠の合戦でその大量使用によって当時最強と謳われた武田騎馬軍団を打ち破った武将として有名であるが、その萌芽は実にこの桶狭間の合戦にあったのである。

 

※ 発射から次の発射までの火縄銃の操作

①発射→②銃身内の火薬滓を掃除する→③銃口の先端から火薬を入れる

 →④カルカ棒で火薬を突き固める→⑤鉛玉を入れる→⑥火皿に火薬を乗せ、火蓋を閉じる→⑦火縄を調節して火鋏にはさむ→⑧火蓋を開ける→⑨照準を合わせる→⑩発射

 

 当時の鉄砲には、射程距離や命中率、殺傷力等の点で、弓に優れる点があったが、幾つかの弱点もあった。一つは、連射能力で、一発放てば約30秒程は次が撃てないという欠陥であった。これを補うものとして作られたのが、三段撃ちの「作り話」である。もう一つは、雨に弱いという点である。当時の鉄砲は火縄式であるから、これは当然のことであるが、「桶狭間の合戦」の直前は「大雨」であるから、この時には鉄砲はほとんど役に立たなかったろうと思われる。というのも、当時の伝統的な火縄の素材は、竹の繊維であり、これは少量の油を含み、火先が点火しやすいので火縄には最適の素材とされていた。しかし、一度水に濡らしてしまうと、油分が抜け、乾いても火はつきにくく消えやすくなり、しかも固くなってとても扱いにくくなるからである。ところが、木綿の火縄は、どんなに水に濡れても、乾けば元通りになる、という優れた特性を持っていた。信長は、木綿に油を染み込ませ、少量の火薬を混ぜて、水に強く消えにくい火縄を開発していったのである。

 

 また、連射の問題についても、一回分の火薬を紙で包んだ今日の「薬莢」のような「早合」と呼ばれるものを工夫して、熟練の者でほぼ10秒間隔で撃てるように工夫したと言われている。

 こうした準備の末に迎えた「長篠の合戦」であるが、『改正三河後風土記』(江戸時代後期に成立。当時の天候にくわしい。)によれば、決戦前日の五月二十日は、五月雨が強く降り続いていたと記されている。戦略家信長が雨に弱い鉄砲だけに頼っただろうか?

 武田方は、鳶ケ巣砦に立てこもれば、信長はどうすることもできなかった。なぜ、信長の待ちかまえる設楽原に出て行ったのだろうか?

①勝ち気で、敵に後ろを見せぬという誇り高い勝頼の性格を見抜いていた。②わざと進軍を遅くして、信長が勝頼を恐れていると思わせた。③佐久間信盛が寝返るという偽情報を流しておびきよせた。

 そして、堅固な「陣城」を敵に知られないように構築し、ここに立てこもって戦ったのである。武田勝頼が長篠の合戦の結果を家臣に告げた書状(長野県・真田宝物館蔵)には、「信長が陣城に籠もっていたために、味方は利を失った」とあり、『長篠日記』には、「武田勢は、あの手この手で攻め寄せ、味方もずいぶん損害を受けましたが、どうにか勝利することができました」と報告している。

 

 

 有松絞会館前
 有松絞会館前

頼山陽は、1813年11月に現地に赴き、「・・・聞き説く英雄、此の旆を折る。碧血爛班 千載に在り・・・村の東側に桶狭間。」(大意)織田今川の合戦史を聞き、勝敗決した今川方は破れ、決戦の様相、古戦場の姿は永久に書き残されている・・・村の東側に桶狭間古戦場がある。ー

古戦場公園の銅像、戦場の面影はない。
古戦場公園の銅像、戦場の面影はない。

有松の頼山陽詩碑は今まで2~3度紹介し、詩文に書かれている有松村を、「両側の起伏した谷間の村」と紹介しておりますが、私もそういわれて初めて気が付きました。改めて山陽の観察眼に敬服しております。その地形のため、1784年に大火で町中が全焼したのであります。その後、耐火構造の町作りをしたため、山陽も再建後の街並みを見ているはずですし、重伝建指定として現在に至っております。

 

 

2017・6・9

山根兼昭さん

「有松絞祭り━桶狭間古戦場紹介」

 

今年も有松絞祭りが6月3~4日にありましたが、隣接する桶狭間古戦場の現状を紹介いたします。

 絞祭りでにぎわう街並み
 絞祭りでにぎわう街並み

桶狭間の合戦は、1560年6月12日、午後1時ころ視界を遮る豪雨となり、織田軍2千の兵は義元の本陣に奇襲をかけ、義元を守る5千の兵の混乱に乗じて、義元の首を取ったのであります。

この戦いで、大河ドラマ「直虎」の井伊直盛も戦死したのであります。

以上は有名な話でありますが、6月12日(新暦)は雨期の初めで天候の不安定な時期、この偶然が奇跡を起こしたことを現地で実感いたしました。

 

 合戦案内図
 合戦案内図

 館長・森村宜高のサイン
 館長・森村宜高のサイン

平安時代の失われかけた大和絵を江戸後期に田中訥言が、徹底した模写と写生によって作画技法を甦らせたのであります。その代表的な作品「伴大納言絵詞」など復古やまと絵派のバイブルとして引き継がれました。明治の世になって、森村宣稲(よしね)が訥言に心酔し自らの腕を磨き、大正昭和の初めになって認められるようになったのであります。そして2代目・森村宜永、3代目現館長と引き継がれ現在に至っております。

復古大和絵の趣意書
復古大和絵の趣意書

「森村館長の頼山陽感」 

著名な儒学者であり、文人である頼山陽は、江戸後期から昭和にかけて歴史の中で燦然と輝いた存在であったが、やまと絵同様、特に戦後はすっかり輝きを失ったと思う。

しかし、「とつぜん・いっけい」の中で、二人はやまと絵の修行に邁進し、山陽は此れから飛躍しようとする時にやまと絵に出会い、それぞれ将来に期するものがあり、生涯を通して結果を残したと思う。

これからは、これらの歴史的遺産をどう維持してゆくかが、我々に与えられた責務で有る。

 

2017・2・17

山根兼昭さん

「大和絵師・田中訥言と頼山陽」

                   その2

昨年暮れの新刊「とつげん・いっけい」の発行者、名古屋市中区・森村記念館を先日訪問、館長の森村宜高(よしたか)氏より大和絵のこと、頼山陽への思いなどを伺い致しました。

森村記念館、名古屋のど真ん中のオアシスです。
森村記念館、名古屋のど真ん中のオアシスです。

昭和63年に、やまと絵画家を中心に紹介する美術館・森村記念館を設立し、作品の紹介や東海地区の文人、経済人たちの交友の場としております。

 やまと絵「家康、信長、秀吉」森村宜高作
 やまと絵「家康、信長、秀吉」森村宜高作

(感想) 頼山陽の存在が最近ますます大きくなり、多くの場で多くの人に知る機会を与える必要を感じております。今回森村記念館へも数人の山陽フアンを誘い喜んでいただきました。

また、今年6月より、第3回目となる尾張旭市民塾を開催、山陽探究の成果を発表したいと準備しております。

 

 


2017・1・5付 中日新聞記事
2017・1・5付 中日新聞記事

とつげんは、55歳「楠公父子決別図」を書くとき、右目は失明し左もそこひ(緑内障)でほとんど見えない状態でした。その後、何も見えなくなったとつげんは、自刃をしてしまうのであります。

 

1835年、3年前に頼山陽もなくなり、とつげんの13回忌を迎えますが、時は「天保の飢饉」でコメが高騰し庶民の窮状を見た大塩平八郎が乱をおこし世の中が混乱いたします。

2017・1・10

山根兼昭さん

「大和絵師・とつげん・いっけい」

 

宇喜多一蕙(秀家の子孫1795~1859)、13歳で「とつげん」に弟子入りし、大和絵の修行をしながら、頼山陽の塾にも通っておりました。

 

いっけい作嵐山図、安政5年3月―江戸へ  送られる直前の作、6年11月14日没
いっけい作嵐山図、安政5年3月―江戸へ  送られる直前の作、6年11月14日没

いっけいも絵は売れず、日々困窮し、法事を行える状態ではありませんでした。

 

窮余の一策で、とつげんと自分の絵数点を、以前名古屋で世話になった豪商の岡谷惣助に救いを求めたのであります。惣助は快く承諾し金10両で買ってくれたのであります。

 

早速、今までの借金を全部返し、無事とつげんの13回忌を行うことが出来たのであります。その席には梨影と共に10歳になった三樹三郎も一緒でした。

 

三樹三郎も成長し、江戸の昌平黌に留学したので、いっけいも会うために中山道を江戸に向います。途中、塩尻峠から初めて見る富士山や、飛び出した狐を写生したり貴重な題材を得るのであります。 しかし江戸では、黒船来訪によって尊皇攘夷の機運が急速に高まってくるのであります。

 

京に戻ったいっけいは、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、そこに吉田松陰らも加わり開国に動き始めた幕府に対抗するのであります。絵の関係で公家との付き合いもあったいっけいは、

 

勅許のないまま開国を認めた井伊直弼を断罪しようと画策しますが、うまくゆきませんでした。

 

結果、安政の大獄によって、梁川星巌は捕まる直前コレラで病死、梅田雲浜獄死、三樹三郎ら処刑、しかしいっけいは安政6年6月10日、京追放という軽い刑で釈放されたのでありました。

 

いっけいは、梨影に「必ず三樹三郎は守る」と約束したのに果たせなかったことを、「どうかこの不甲斐ない老人を許して下され」と言って京を去ったのであります。

 

(感想)江戸後期に、尾張藩の財政を支えた豪商の筆頭格は、伊藤家で「松坂屋」「元東海銀行」、岡谷家は「岡谷鋼機」として現在も栄えております。豪商は全国各藩にあり、明治維新以降殆ど姿を消しましたが、名古屋だけ例外的に約半数が明治以降に残ったようです。それはあまり無理に金を貸さなかったからで、今にその金銭感覚が残っているように思います。

 

 

 

名古屋に「とつげん」という絵師がいたことは知りませんでした。尾張の清洲で生まれ幼少時に家が貧乏で比叡山延暦寺に出され修行いたします。10歳を過ぎるころには画才を認められ、のち還俗して京都の土佐派にてやまと絵の修行をして次第に頭角を現すようになります。

百花百草図屏風・田中訥言作(岡谷家寄贈)
百花百草図屏風・田中訥言作(岡谷家寄贈)

2017・1・6

山根兼昭さん

「大和絵師・田中訥言と頼山陽」

 

2016年の暮れに新刊「とつげん・いっけい」の紹介がありまして、帯封に名古屋市長のコメントを見て早速読みました

 楠公父子決別図・訥言最晩年の作、頼山陽画讃
 楠公父子決別図・訥言最晩年の作、頼山陽画讃

1811年尾張藩医小林香雪が頼山陽を連れて「とつげん」宅を訪問いたします。「日本外史」を書いていると言って山陽を紹介したのであります。山陽32歳、まだ京へ出てきて間もない頃でありました。


名古屋には尾張藩御用達の豪商を、五摂家、十人衆などと言っておりますが、「とつげん」はその一人岡谷惣助より、やまと絵の依頼を受け名古屋に滞在しておりました。

 

小林香雪は181311月に名古屋へ来た山陽を連れて、とつげんを訪問いたします。「揮毫の途中で私は尾張でのお供をしているわけです。」と挨拶をし、本町通の料理屋で親交を深めたのであります。

 

また山陽は、京の自宅に、山本梅逸、中林竹洞、浦上春琴、とつげん、いっけいを呼んで梨影が世話をしもてなしております。

 

(感想)頼山陽は京へ出て一年もたたないうちに小林降雪はじめ多彩な人間関係を築いております。小石玄瑞の力があったと思いますが、京のみならず、尾張にも及ぶ人間関係には驚嘆いたします。

 

今までは、山陽の足跡について、名古屋にいおいては降雪がお供をしていたと推測しておりましたが、この記述によって証明できたと共に、山陽は生涯を通して何度も名古屋へ来ていたように思います。

 

「宇喜多いっけい」については次回。

 

      白山林全景
      白山林全景

1584年秀吉は信長の次男・信雄(のぶかつ)に安土城からから出るように言います。これに怒った信雄は「援を徳川氏に乞う。」家康曰く「吾れ、これを援けずんば何を以って天下に対せん。」

   小牧山城 徳川家康築城
   小牧山城 徳川家康築城

秀吉、犬山楽田(がくでん)に軍す。「自ら地形を按視し、仰いで小牧山を視て曰く、吾れ後れたりと。」

 

両軍数キロの距離を置いて対峙、池田信輝、秀吉に説いて曰く、家康は小牧山にあり、本拠の岡崎城は空であり今攻めるべきだ。「公、速やかにこれを断ぜよ。2~3日遅るれば敵もまた備えをなさん。」

 

史跡「兜神社」と白山林の合戦
史跡「兜神社」と白山林の合戦

2016・6・28

山根兼昭さん小牧・長久手の戦い」

 

1583年、本能寺の変の後、清洲会議を乗り切った羽柴秀吉は、「故織田信長の将羽柴秀吉は政を京幾になし、十余国を略有し威権独り盛んなり。」

小牧山の対陣 「家康、秀吉の大挙して将に東下せんとするを聞き、自ら将として信雄を援けんと欲す。」家康曰く「公これを安んぜよ。某 在り。秀吉の兵百万有りといえども、以って公を病へしむる能はざるなり。」

       楽田城址 
       楽田城址 

白山林の戦い(1584年4月9日)

 

秀吉軍は五軍三万を要して、先ず前軍が長久手郊外の出城・岩崎城を攻め落とします。まだ後方の軍は総大将の三好秀次はじめ白山林周辺に居りました。

 

秀吉軍の出兵を知った家康は小牧山城を出発、「途中、勝川の地名を聞き兵に言って曰く「吾 勝てり」


白山林で遭遇した両軍は、死闘を続けますが、三好秀次は辛うじて逃れ信雄・家康軍の勝利に終わるのです。

 

長湫(ながくて)の戦い、その後も両軍死闘を続けますが、11月秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄も受諾いたします。戦いの大義名分を失った家康も兵を引いて休戦となったのであります。

 

頼山陽「日本外史」の論賛 戦国時代最大の合戦で、休戦しなかったならばその後の日本の歴史は変わったと言っております。

 

また、関が原の合戦で各大名がどちらに着くかを決めさせたのもこの戦いであったと説いております。

 

 

重伝建地区指定は、竹原の方が先輩ですが、有松も40年越しの願いが叶い、6月4日よりお祝いの有松祭りが始まりましたので、ご紹介します。

1780年と言えば、頼山陽が生まれた年です。山陽は1813年(34歳)11月に有松の絞り問屋・井桁屋に宿泊し

 

「有松邨を過る」の漢詩を残しております。それが15年ほど前に詩碑として建てられ街の中心部にあります。

 

 

 

しかし残念なことに、商工会の人達が頼山陽の事を全く知りませんので、詩碑も生かされておりません。

 

 

先日、緑区役所まちつくり推進室へ行き、重伝建指定に詩碑の文化的価値を生かすべきだと説明しましたが理解されませんでした。

 

2016・6・8

山根兼昭さん

「有松地区 重伝建選定へ」

 

5月20日、文化審議会は名古屋市緑区の有松地区を国の重要伝統的建物群保存地区( 重伝建)に選定すると発表した。

    同地区に建つ頼山陽詩碑
    同地区に建つ頼山陽詩碑

名古屋市緑区鳴海町有松は、江戸時代より尾張藩の保護を受け有松絞りの街として発展してきましたが、1780年大火によって全焼してしまいました。それから20年かけて燃えない町作りをしたため海鼠壁の立派な建物が残り現存しているのです。

選定を知らせる地元新聞(上)と、「伝統的工芸品」の有松・鳴海紋を使用した大判ハンカチ(下)。

 

 

 

 


2015・11・5 「得月楼」の名づけは頼山陽

 

愛知県ご在住の山根兼昭さんから、名古屋の「得月楼」という料理屋は頼山陽の名づけであるとの情報が寄せられた。

 

名古屋市のホームページを見ると、「納屋橋の南で文政11年(1828)に開業した料理屋は、頼山陽が唐の詩『水近きところ必ず月を得るの高殿あり』から『得月楼』と名付け、昭和19年(1944)の廃業まで長く親しまれていました」とある。

 

この件の出典について、名古屋市役所に問い合わせたところ、ご担当者様から次のようなお答えをいただいた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「憩いの場所・堀川」のページにおける、ご指定箇所の出典について、こちらで確認したところ、このページの記載について出典の記録が残っておりませんでしたので、堀川に関する文献をいくつか調べさせていただきました。以下の文献に当該箇所の記載と関係するような記載をみつけることができましたので、参考にしていただけたらと思います。


『堀川-名古屋人をささえた川-』 著者:大野一英

『堀川物語-名古屋城とともに四百年-』 編者・発行:中日新聞本社


では、下記の記述がございます。

<水に近きところ必ず月を得るの高殿あり>という唐の詩の一節を引いて、頼山陽がここ納屋橋畔に影を落とす私どもを得月楼と命名くださいましたのは、おそらく天保初年のことでございましょう。』(p275


では、下記の記述がございます。

『江戸期の詩人、歴史学者の頼山陽がしたためた「得月楼」の書。創業早々のころ「橋本屋」または初代当主、与八の名から「橋与」と呼んだこの店を訪れ、窓からながめた堀川に映る月に心奪われて、唐詩の一節「水近きところ必ず月を得るの高殿あり」を引用したのだという。屋号のいわれでもある。』(p127

 

上記ふたつの記述から、「憩いの場所・堀川」は当該箇所のような表現となっていると思われます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご丁寧な回答をお寄せいただき、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。

 

この件をきっかけに、今後、頼山陽が名古屋に残した足跡についても関心が向けられれば、と思います。

 

残念なのは、「得月楼」は昨年、火災によって消失したということ。もう少し早く知っていれば、と悔やまれます。

 

 

有松絞問屋井桁屋(服部家)。頼山陽が宿泊したという。前の道路は旧東海道。
有松絞問屋井桁屋(服部家)。頼山陽が宿泊したという。前の道路は旧東海道。

2015・10・26

東海道鳴海宿の「頼山陽詩碑」

 

愛知県にご在住の山根兼昭さんから、これまで頼山陽ネットワークで未確認だった頼山陽詩碑の写真が寄せられた。


場所は愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域で、かつて東海道の鳴海宿があり、有松・鳴海絞りと呼ばれる染め絞りが有名な地である。

 

以下は山根さんのご解説による。

 

京都の蒔絵師・5代目山本春正家に嫁いでいた「いわ」の兄が、有松で絞り問屋を営む服部家2代目です。


おそらく頼山陽は春正家の紹介で、井桁屋に宿泊したのではないかと推測します。この時、山陽は34歳。京都に居を移して2年後です。


京都から大垣後面に揮毫の旅に出たあと、名古屋を訪問。その後大垣方面を再訪しました。

 

町の風景に心を打たれて扇面に書きしるしたのが「有松邨を過ぐ」です。


 鳴海宿有松。右側の建物が井桁屋。
 鳴海宿有松。右側の建物が井桁屋。
   有松・鳴海絞会館のパネル
   有松・鳴海絞会館のパネル

売絹の小市                絹綿の絞りを商うこの町

隆低に枕す             両側の起伏した谷間の村で一夜を泊まった

聞説く英雄             織田今川の合戦史を聞き

此の旆を折す                    勝敗決して今川方は破れ

碧血らん斑            決戦の様相 古戦場の姿は

千載に在り             永久に書き残されている

纈文染め上ぐ                 九九利染めの古文書を知り

女児の衣                             優雅な衣料を見た


有松邨を過る        有松の村を通り歩くと

邨民粥で縫撮業と為す  村人は縫い絞りを手業とし、村の産業となっている

村の東即ち桶狭      村の東端に桶狭間がある


  有松鳴海絞会館前の「頼山陽詩碑」
  有松鳴海絞会館前の「頼山陽詩碑」

山陽は有松の絞りには大きな関心を持ったと思われます。

 

「有松邨を過ぐ」には九九利染めの優雅な着物に目を見張り、村人達が一生懸命絞りの手作業をしている様子がよく表現されております。

 

又有松の直ぐ隣が「桶狭間古戦場」です。歴史に目のない山陽にとっては貴重な経験になったと思われます。

 

 



「頼山陽詩碑」は有松絞商工組合の創立50周年記念として平成14年に建てられたという。

 

「頼山陽詩集」(頼山陽全伝)にも文化10年(34歳)の作として掲載されているが、語句に若干の違いがみられる。

 

 

過有坂村(欠文)村即桶狭

 

売絹小村倚山涯  

聞説英雄此折旆

碧血らん千載在  

文染上女児衣

(転句「らん」は対の造りの部分が蘭)   

 

 

詩集に収録した詩では、以下の部分が省略されていることになる。

 

隆低に枕す  両側の起伏した谷間の村で一夜を泊まった

 

邨民粥で縫撮業と為す  村人は縫い絞りを手業とし、村の産業となっている

            

この部分がなければ、鳴海宿有松で頼山陽が詠んだ詩として価値が薄くなると思われるが。

 

山根兼昭さん、ありがとうございました。

また何かありましたら、よろしくお願い致します。

  



 

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