2017・6・19 山根兼昭さん「美濃尾張 頼山陽を支えた人たち」

 

尾張旭市民塾(6月16日・第2回目)

「美濃尾張において頼山陽を支えた人たち」

 

頼山陽は、1813年10月から12月まで約3か月間、此の地に滞在、精力的な活躍をしますが、初めての地でそれを支え、援助した人たちについて語ります。

 

1、美濃赤坂の儒者、矢橋赤水ー以前より美濃赤坂では良質の大理石が産出され、矢橋家は此の大理石を扱う実業家で、現在に至っております。儒者赤水は頼山陽に、大垣の蘭方医・江馬蘭斎を紹介しますが、その縁で江馬細香と生涯にわたって師弟関係を築くことが出来たのであります。その1年後、赤水は他界してしまいますので、山陽にとっては幸運であったのであります。

 

2、美濃上有知で、1年半ぶりに村瀬藤城と再会しますが、祝言を10日後に控えた藤城は、山陽の接待役を親戚の西部萬年に頼んだのであります。萬年は、山陽のお供をして、郡上八幡の斉藤招桂を訪ねて頼山陽を紹介いたします。斉藤招桂は両替商を営む富豪で、近くにある別荘に案内し、山陽を歓待するのであります。別荘の周囲には見事な梅園があり、山陽は感嘆するのであります。この印象が、後年梅樹に関心を持たせたのではないかと思われます。

 

3、大垣久瀬川の藩儒、菱田毅斎ー山陽が美濃から大垣に帰り、江馬細香に再開できず苦悩している山陽を見て、助け舟を出すのであります。菱田毅斎は名古屋に滞在している山陽に、菱田宅へ来るように手紙を出したのであります。そしてそこで江馬細香に再開し、年が変わり桜の咲くころ、京の嵐山で逢うことを約束したのであります。

 

4、尾張藩医、小林降雪ー香雪は熱田七里の渡しの近く、宮町に住んでおり、山陽が来名すると云う事で、七里の渡しで出迎え、名古屋を案内するのであります。丁度この時、本町の岡谷惣助宅で「大和絵の田中訥言」がアトリエを開いていると聞き、山陽を案内して紹介をするのであります。これが縁で二人の交友が始まるのであります。

 

 5、墨俣宿の澤井長慎ー墨俣本陣の当主、澤井彦四郎の弟・儒学者長慎は山陽の学風、書風に親しみ、交友を深めておりました。山陽が大垣ー桑名を行き来するとき、墨俣湊で下船し、長慎の世話になっていたのであります。

 

*頼山陽は、短期間に多くの人間関係を築くのでありますが、どこにその魅力があるのかと思わずにはおられません。

 

 

 

 

 大垣赤坂・安楽寺墓地
 大垣赤坂・安楽寺墓地
安楽寺・江馬細香筆塚          お寺の許可をいただきました
安楽寺・江馬細香筆塚          お寺の許可をいただきました

頼山陽亡き後、江馬細香は京へ上る度に山陽との思い出の跡を辿ったのでありました。また未亡人となった梨影に対し姉妹のように接し励まし助け合ったのでありました。そして支峰や三樹三郎は細香を叔母のように慕ったのであります。安政3年(1856年)山陽没後25年冬、当時七十歳の老嫗となっていた細香は、突然に喀血して重体に陥ったのでありました。そして病の床で「先生と同じ病気で死ねたら嬉しい。」それから五年後、1861年9月4日、江馬細香病没、享年75歳。

 

 

2017・5・8

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」最終回

 

前回、7回目の上京が結果として最後になったわけですが、山陽51歳。細香が上京して花見に行くことになったその前の晩、ー山陽は彼女と明日嵐山へ行く楽しさのため、眠れなくなって、軒端から何度も、早く夜が明けないかと空を覗いている。-

 

将に花を看んと欲して 君、あたかも来る 相ひ携えて明日、即ち佳期。

 

 満懐の喜気、眠り著きがたし  起きて見る、春星の屋に帯して垂るるを。

 

大垣藤江禅桂寺墓碑       左―江馬蘭斎、右ー細香
大垣藤江禅桂寺墓碑       左―江馬蘭斎、右ー細香

2017・5・3

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その7

 

天保元年(1830年)山陽51歳、細香44歳、細香の母さの の病状もあまりよくありませんでしたが、3月に7度目の上京をいたします

 琵琶湖畔、唐崎の松
琵琶湖畔、唐崎の松

この時は、山陽夫妻、星巌夫妻らと嵐山、長楽寺、知恩院で花見を楽しんだのであります。そして、細香が大垣へ帰るとき、山陽は琵琶湖畔唐崎まで見送ったのでありました。

 

唐崎松下山陽先生との別れを排す         江馬細香

儂(われ)は岸上に立ち君は舟に在り 船と岸と相い望みて別愁牽く

人影漸く湖煙に入りて小さく  罵殺す帆復風は飽きて便たるを

松下に躊躇して去ることを得ず 万頃の碧波 空しく渺然たり

二十年中 七度の別れ  未だ有らず此の別れの尤(もっとも)得(い)い難きは

 

ーこれが、山陽に逢う最後であり、また最後の別れであることを、細香はまだ知る由もないわけですが、この詩には万感胸に迫るものを感じます。ー

 

大垣に帰った細香ですが、翌年母が亡くなり、父蘭斎も体調すぐれず看病に追われておりました。その矢先、細香のもとに訃報が届いたのでありました。天保3年(1832)年9月23日、頼山陽逝去。享年53歳江馬細香の悲しみは計り知れませんでしたが、「あの時、山陽先生が、唐崎の松のところまで送ってくださったのは、虫の知らせでもあったのか。」との思いに耽るのでありました。

 

以降次回ー

 

江馬細香(手前)     白鷗社集会図より
江馬細香(手前)     白鷗社集会図より

2017・4・26

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その6

 

江馬細香は文化11年3月に初めて上京し、山陽、武元登々庵の3人で嵐山・雪乃茶屋に泊まり、楽しい1日を過ごしたのでありました。


そして、山陽にすっかり熱を上げるのですが、いつも一緒におられるわけではありませんでした。細香が上京できたのは、

 

2度目の上京、(文化14年・1817)8月・山陽38歳、細香31歳

3度目      (文政02年・1819)3月・   40歳、   33歳

4度目      (文政04年・1821)2月・   42歳、   35歳

5度目      (文政07年・1824)9月・   45歳、   38歳

6度目      (文政10年・1827)2月・   48歳、   41歳

7度目   (天保元年・  1830)3月-   51歳    44歳

 

江馬家は、京に別宅があり、上京するとそこに2~3カ月逗留して、山陽に弟子としての指導を受けておりました。しかし18年の間に上京できたのは7回、山陽からは年に1度は来てほしいと言われておりましたが、2~3年に1度しか上京出来なかったのであります。それで細香は切ない気持ちを次のように詠っております。

 

蓮子(れんし)を拈(ひね)りて鵞鴦(がおう)を打つ        江馬細香

双びて浮かび双びて浴して緑波微かなり 解せず人間に別離ありことを戯れに蓮心を取りて池上に擲投げ打ち  分れ飛んで要す汝が暫く相思わんことを

(大意)池辺にやってきたらホラ、あのオシドリ2羽。一緒に浮いたり水を浴びたり。ユラユラと微かに緑の波。あーあ、お前たちは、人の世には別れるという悲しいことがあることを知らないらしいね。腹が立つよ。ちょっとそこにある蓮の実を取ってぶつけてやりましょう。お前ら、驚いて離れ離れになったら、さて、別れてから、互いに相手を想い合う事の、どんなに悲しいかを思い知ることでしょう。

 

二人の相思相愛ぶりは、日を追うごとに高まって行きますが、中々意のままにならなかったのであります。18年で7回会い別れること8度、山陽は桜の季節に嵐山で会うことを切望しておりましたが、4度しか叶いませんでした。また、母梅颸が来たときは、細香も必ず呼んでいたのであります。

 

中村真一郎著「頼山陽とその時代」の中で「私生活は梨影の受け持ち、公生活つまり対外的なことは細香に任せていたようだ。」また私的な関係は、二人の間に強い恋愛関係あったことは疑う余地はないと言い、二人の間に愛情の凝塊を身に宿したかどうかは二説があると言っております。

 

江馬細香が7度目の上京は天保元年、細香が大垣へ帰るとき、山陽は初めて琵琶湖畔唐崎まで見送ったのであります。   以降次回ー

 

 

大垣尾芭蕉むすびの地記念館編集「江馬細香」
大垣尾芭蕉むすびの地記念館編集「江馬細香」

武景文、細香と同に嵐山に遊び旗亭に宿す        

               頼 山陽

山色やや瞑けれども花尚明らかなり 綺羅 路を分かって各々城に帰る

詩人故(ことさら)に擬す 人後に落ちることを 燭を呼んで溪亭に水声を聴く

 細香詩作に山陽朱書きの添削
 細香詩作に山陽朱書きの添削

2017・4・20

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その5

 

1814年、正月を迎えた頼山陽(35歳)は、小石元瑞の幼女・梨影と再婚するのであります。そして3月にはかねての約束通り江馬細香上京、備前藩儒・武元登々庵と3人で嵐山雪ノ茶屋に泊まるのであります。

 細香幼少時作「竹の絵」
 細香幼少時作「竹の絵」

(大意)山々は暮色に包まれているが、花色はなお分明である。着飾った花見の客は、各々家路について分袂してゆく。しかし我ら詩人は、ただ花のみを愛する俗客とは異なる。夜を迎えて灯火を点じ、桂川に沿うた旗亭の欄によって水声を聴くのを楽しんでいる。

ーこの紙幅は、幕末に福井藩士・橋本左内が京の書店で見つけ愛蔵することになりますが、安政の大獄の前年、身を案じて福井藩医・半井南陽にに託すのであります。ー


江馬細香にとっては、生涯忘れる事の出来ない楽しい一日となったのであります。しかし、翌朝細香は山陽宅を訪ねて初めて、新妻・梨影の存在を知るのであリます。梨影もまた、才色兼備な細香を紹介され複雑な気持ちになりますが、梨影にとっては夫山陽を信頼するしかありませんでした。大垣に帰った細香は、それから頻繁に山陽宛て、詩の添削など手紙を出すのであります。細香の手紙を見た梨影ですが、残念ながら何が書いてあるのかさっぱり読めません。それで「これでは山陽の妻は務まらない」と一念発起、読み書きが出来るよう猛勉強を始めるのであります

                       ―以降次回ー

 大垣高橋(船町湊)石碑
 大垣高橋(船町湊)石碑

山陽は、京の蒔絵師・鈴木春正より、鳴海宿有松の話を聞いていたので、香雪と共に有松の井桁屋で一泊したのであります。翌日は、有松の名産、絞り染めや、すぐ隣の桶狭間古戦場を見学し、香雪宅へ帰ったのでありました。

 

江馬細香のことが忘れられない山陽は、江馬蘭斎宛に手紙を書いたのであります。すると数日後、歓待するとの返事が来たのであります。山陽は早速、宮の渡しから舟を乗り継ぎ、大垣の蘭斎宅に着いたのでありますが、細香は不在だったのであります。

 

山陽は意を決し蘭斎に「多保さんを嫁にほしい」と懇願するのですが聞き入れられなかったのであります。

2017・4・12

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その4

 

名古屋熱田の宮町には、頼山陽の親友・尾張藩医の小林香雪の居宅がありました。頼山陽が大垣から宮の渡しに着いたという知らせに、香雪は山陽を迎えたのであります。

 有松絞り会館前、山陽石碑
 有松絞り会館前、山陽石碑
 桑名の渡し
 桑名の渡し

山陽はやむなくまた舟を乗り継ぎ、熱田宮町の香雪宅へ帰ったのでありました。

 

近くに熱田神宮がありますが、歴史家山陽は、数百年前、源義朝と宮司の娘との間にできた子が、後の「源頼朝」であることを思い出したり、大須の歓楽街で楽しんでおりました。

 

そこへ、大垣の親友・菱田毅斎より手紙が来たので、急ぎ毅斎宅へ向かったのであります。大垣船町の湊には後藤松陰が出迎え、雪の中苦労して毅斎宅へ到着したのでありました。

 

そして毅斎宅には、江馬細香が山陽が着くのを今や遅しと待っていたのであります。一か月半ぶりに細香に出会えた山陽は、「年が改まって桜の咲くころ、嵐山の「雪ノ茶屋」で会おう。」と約束をして船町の湊を後にしたのでありました。この時、山陽を見送ったのが、後に弟子になる後藤松陰でした。

 

舟大垣を発し桑名に赴くー    頼 山陽

蘇水遥々 海に入って流る 櫓声雁語 郷愁を帯ぶ

独天涯に在って年暮れんと欲す 一蓬の風雪 濃州を下る

 

頼山陽は、二カ月に及ぶ美濃尾張遊歴の旅を終え、十二月六日無事京へ帰ったのでありました。二人の新たな人生はこれから始まります。次回ー

 

 

 

蓬舟ー山陽も乗ったであろう「とまぶね」
蓬舟ー山陽も乗ったであろう「とまぶね」

2017・4・8

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その3

 

10月16日、頼山陽は江馬多保に想いを馳せながら、大垣赤坂湊から美濃上有知へ向かったのであります。


美濃では村瀬藤城に迎えられ歓待されるのでありますが、多保のことが忘れられない山陽は、11月2日付で大垣木瀬川の親友、菱田毅斎に「多保さんに一目ぼれしてしまった、結婚したいので蘭斎先生にお口添え願いたい。」と手紙を出したのであります。また、京の小石元瑞には「一奇事(細香との出会い)があったから、縁談の話は進めなくてもよい。」と連絡したのであります。

山陽は美濃に20間ほど滞在して、11月8日上有知湊から、大垣船町湊へ向ったのであります。「多保さんに会ったら『細香』の名前をあげよう。結婚してくれるだろうか。」など胸を膨らませながら、いよいよ舟は船町湊へ着きます。しかし、前日からの大雪で全く上陸出来なかったのであります。

 桜満開の船町湊、4月5日撮影
 桜満開の船町湊、4月5日撮影

ー別れに臨み、細香女子に寄すー      頼 山陽

 

宿雪漠々 謝家を隔つ  離情述べんと欲して路程遥かなり

 

重ねて道薀に逢う 何処をか期せん  洛水の春風 桜花を起こす

 

(大意)降り積もった雪が深く、世話になった江馬家も見えない。細香女子に別れを告げたいと思うが、前途が遥かなので、急がねばならない。重ねて彼女に会えるのは何処であろうか。都の鴨川に春風が吹いて、桜が咲きそろう頃にでも、逢えると嬉しいのだが。ー

 

あきらめきれない山陽でしたが、それから桑名へ向かい、七里の渡しで名古屋の熱田へ上陸したのでありました。

 

 大垣赤坂湊
 大垣赤坂湊

それで、熱田から中山道の垂水まで、バイパスとなったのが美濃街道です。しかし、起宿と墨俣宿の間には木曽川があり両宿場は栄えたのであります。

 

頼山陽は文化10年10月10日、大垣藤江で江馬細香に初めて会いますが、次に会えたのが11月20日でした。この一カ月半ほど山陽は大垣と名古屋を2度3度と行き来するのであります。

 熱田七里の渡し
 熱田七里の渡し
 桑名の渡し
 桑名の渡し

2、大垣船町湊大垣は水郷で多くの土管を必要としました。それで知多の常滑焼の土管を舟によって大量に運んだのであります。山陽はここから、桑名、熱田に行ったのであります。

 

3、墨俣宿船町から木曽川本流に出るところに、墨俣湊があり天候による避難所でも有りました。

2017・4・3

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その2

江戸時代の美濃尾張における街道事情ー

 

美濃尾張の南に東海道があり、熱田桑名は舟、また北には中仙道、当時、江戸と京を結ぶこの地区は相当な通行量、しかも大河があり舟が出ないときは熱田が賑わったのであります。

 大垣船町湊
 大垣船町湊

これを可能にしたのが、美濃尾張における水運であります。

 

尾張(愛知)、美濃(岐阜)、伊勢(三重)この三国の間にある大河・岐蘇川(江戸時代の木曽三川の総称)は、東海道を旅する人々には大きな難所でした。それで「七里の渡し」など舟によったわけですが  天候などによる海難事故も、度々あったのであります。

 

1、大垣赤坂湊ー赤坂宿の近くは大理石の有数な産地で、各地に船で輸送することで大変栄えました。山陽も10月16日この赤坂湊より、美濃上有知へ向かったのであります。

 桑名・木曽川河口
 桑名・木曽川河口

4、大垣から桑名までは約40キロ(十里)、七~八時間、桑名から熱田27キロ(七里)五時間、頼山陽は、大垣名古屋を二日で行き来できたのはこの水路のおかげでした。

 

山陽と細香のドラマはこれから始まります。   続きは次回。

 

 

山根兼昭さんがまとめた           「頼山陽と江馬細香」
山根兼昭さんがまとめた           「頼山陽と江馬細香」

文化10年(1813年)10月3日、美濃赤坂の儒学者・矢橋積水の「大垣の江馬蘭斎」を紹介したいという誘いで、京を出発します中山道を東進し、美濃今須宿から大垣に入ると街の中心に船町川湊があります。江馬家は船町湊の東1キロくらい、藤江村に在り、矢橋積水の案内で江馬蘭斎宅を訪問します。そこで頼山陽は蘭斎自慢の娘、細香(本名・多保)に合うのであります。

2017・3・30

山根兼昭さん

「頼山陽と江馬細香」その1

 

江馬細香は1787年4月4日、美濃国安八郡藤江村(大垣市藤江町)生れました。今年、生誕230年、頼山陽より七歳年少になります。

表紙―船町川湊―「舟大垣を発し桑名に赴く」の乗船地
表紙―船町川湊―「舟大垣を発し桑名に赴く」の乗船地

細香は幼少時より、書に優れていて、「荻生徂徠筆、李白作・峨眉山月の歌」を見事に書いたのでした。また水墨画も特に竹の絵を得意としておりました。詩作にも天分があり、文人墨客の来訪がると同席させたり、多保の才名は美濃一円に広がっていたのであります。蘭斎から多保についての話を聞いた山陽は、その才能を見抜き、すっかり気に入ってしまうのであります。

 

また、美濃に頼山陽が来るという噂は、地元でも評判になったのであります。この時は、美濃上有知の村瀬藤城との約束があり、一旦江馬家を後にするのであります。     

 

ー続きは次回ー

 

 

墨俣明大寺、頼山陽石碑 親交のあった澤井長慎は、父宗慎の墓銘を依頼し銘文を記す。
墨俣明大寺、頼山陽石碑 親交のあった澤井長慎は、父宗慎の墓銘を依頼し銘文を記す。

ー大意・見延典子著「頼山陽、上巻」よりー

降りしきる雪の中、舟は木曽川を下りはじめた。雪が風に乗り、正面から吹き付ける。櫓をこぐ音や、遠くに雁の鳴く声が聞こえる。

手足のかじかむような寒気に晒されながら、山陽は生きることの辛さや厳しさを今更のように痛感する。

 頼山陽の書簡(文化十年十二月)
 頼山陽の書簡(文化十年十二月)

2016・12・16

山根兼昭さん

「年の瀬二題 頼山陽作」

 

*舟大垣を発し桑名に赴く 

                  頼山陽      

蘇水遥々海に入って流る  

櫓声雁語郷愁を帯ぶ

独り天涯に在って年暮れんと欲す  一篷の風雪濃州を下る

 矢橋赤水遺稿
 矢橋赤水遺稿

感想・頼山陽の代表作のこの一首について、矢橋赤水遺稿の山陽書簡に「再白、今朝将に舟に上り桑名へ赴く・・・」文化十年十二月とありますが、この二カ月ほど大垣や美濃で多くの親友、弟子たちに世話になりになり万感の思いで、高橋の湊から舟の人になるも、最後の望みは叶わなかった。心中察するに余りありますが、これで終わりではなく、出発点であったのです。


*歳  暮         頼 山陽

一たび郷園を出でて 歳再び除く 

親の消息 定めて如何

京城の風雪 人の伴う無し 

独り寒燈を剔って 夜 書を読む

 

(大意)一たび故郷を去って、またもや歳暮を迎えることになった。ご両親は、息災でおられるであろうか。ひるがえってこの京都においては、風と雪がしきりに吹き荒れて物淋しいのに、さらに独り身の自分には、この寒い夜を共にする相手もなく、ただ燈燭の芯を削って、書籍を友とするばかりである。

感想・文化八年、入京第一年目の歳暮を迎えての感慨である。山陽も人の子、頑張れと言いたくなりますね。

 

 

 

墨俣城(岐阜県安八郡墨俣町)      木下藤吉郎の一夜城として有名
墨俣城(岐阜県安八郡墨俣町)      木下藤吉郎の一夜城として有名

1、墨俣町史(昭和31年町史編纂室)抜粋ー

 

[頼山陽と墨俣] 頼山陽文化10年、初めて美濃に来遊するや、その学風及び書風は、一時美濃学会を風靡す。村瀬藤城、後藤松陰、江馬細香など共に山陽門下に属す。

そのころ墨俣は交通の要所なれば、山陽亦この地に来たり、留錫することがあった。澤井彦四郎、澤井儀右衛門(長慎)など山陽の学風、書風に親しむ者あり。山陽 澤井長慎と親交があった。

京都より大垣、上有知に来遊の節には墨俣澤井家にとどまり、親交を深くした。次に山陽の墨俣に来た資料として現存するものに、長慎あての手紙あり。その全文とその読み下し

写真下

山陽の手紙、澤井長慎あてと、      その読み下し文(墨俣町史)
山陽の手紙、澤井長慎あてと、      その読み下し文(墨俣町史)

2016・12・8

山根兼昭さん

「この一年の集大成」

 

「舟大垣を発し ・墨俣に泊し・桑名に赴く」 頼山陽の美濃における新たな足跡を発見しました。

明台寺・墨俣本陣当主 澤井家菩提寺、   頼山陽の墓碑文、手紙所蔵
明台寺・墨俣本陣当主 澤井家菩提寺、   頼山陽の墓碑文、手紙所蔵
 墨俣寺町の案内板
 墨俣寺町の案内板

[手紙の大意] 雪が積もり寒い日ですがお変わりありませんか。九日に京から今須宿(中仙道)に着きました。二つお願いがあります。上有知へ行くときの人足を一人お頼み申し上げます。

もう一つは、大垣より人を遣わし、江馬細香宅へ立ち寄り、「夜分までにはお伺いしたい、しかし明晩になったときはお待ちください。」とお伝え下さい。

右、いろいろご面倒をおかけしますが、何卒よろしく奉り願い申し上げ候。


[街道と宿場町 美濃の街道は、南に東海道、北に中仙道があり、東海道の宮の宿(熱田)と中山道の垂井宿を結ぶバイパス街道が美濃街道でした。

大垣赤坂宿も墨俣宿もこの美濃街道に有り、双方とも水運の要衝でもあって繁栄したわけです。

 

頼山陽の足跡] 頼山陽が美濃尾張を遊歴」するときは、今までの資料では、桑名ー熱田ー大垣は水路を利用していたと思っておりましたが、今回の資料により

往路は中山道、復路は東海道を通ったことが確認できました。

それから、山陽の美濃尾張遊歴は1813年10月から12月にかけて行ったことは明確ですが、その後も何度か行き来していたのではないかと思われます。

墨俣町史にも、詩文講究の為の結社「白鴎社」には山陽を信奉する村瀬藤城、江馬細香、澤井長慎、等がいたと記載されております。また名古屋には小林香雪、藤浪方岳等の弟子がおりまして

山陽の晩年には名古屋納屋橋の料亭に「得月楼」と命名するなど、長年に亘る交友が伺えます。

 

 

 

 中仙道赤坂宿(今は大垣市)
 中仙道赤坂宿(今は大垣市)

1、赤坂湊は江戸時代赤坂宿の要衝として、地元で産出する大理石や石灰の積み出し港として栄えます。大垣は水路が発達し本流の長良川から各地への水運を担ったのであります。

 赤坂湊
 赤坂湊

2、大垣船町港、名古屋に滞在していた山陽は、大垣の儒学者 菱田毅斎に依頼し再度細香に逢いますが、願い叶わず船町港(地名・高橋)より乗船し桑名に向かうのであります。

この時、高橋で見送りしたのが、菱田毅斎弟子 後藤松陰でした。その2年後  松陰は頼山陽の弟子になるのであります。  

 

 船町港全景
 船町港全景

2016・12・1

山根兼昭さん

余話「舟大垣を発し桑名に赴く

 

ニ百年ほど前、丁度今の季節、頼山陽は美濃尾張を遊歴していましたが、その起点となった大垣の川湊、今はどうなっているのかと思い探索いたしました。

 

 中山道沿い矢橋邸
 中山道沿い矢橋邸

 

赤坂の儒学者であり実業家の矢橋赤水は頼山陽を赤坂に招き江馬蘭斎宅へ案内し、そこで江馬細香と運命的な出会いをするのであります。

それから山陽は矢橋赤水に見送られて赤坂湊より美濃に向かうわけですが、その帰途もう一度江馬細香に逢いたくて赤坂湊に着きます。しかし当日は大雪で上陸できずやむなく名古屋へ向うのでした。

 

 大垣船町川湊碑
 大垣船町川湊碑

3、感想、まずこの2か所の川湊には、どこかに頼山陽の石碑があるだろうと探しましたが、どこにも見当たりませんでした(ガッカリ)。美濃にしても、有松にしても立派な詩碑があり 山陽の足跡がしのばれます。

矢橋積水の子孫は現在も地元の有力企業として存在します。川湊として町の発展に貢献してきた地に歴史的な遺産があれば、先人の努力がもっと評価されると思います。


船町港は、頼山陽より百年ほど前、芭蕉の旅の終着地「奥の細道のむすびの地」となっておりまして、ここに「舟大垣を発して桑名に赴く」の詩碑があれば、もっと町の発展に花を添えたのではないかと思います。

 

 

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