2017・6・13赤松昇さん「頼山陽の史跡映像をYouTubeに」

 

 

姫路の赤松です。

頼山陽に関する史跡映像を撮影してYouTubeにアップしました。ご覧ください。

 

 ①歴史の街・播磨 仁寿山校跡から姫路城、姫路神社、河合寸翁神社などを

 https://youtu.be/noVh5F1S65A

 

②頼山陽と姫路懐古

 https://youtu.be/-2e3SCmQukc

 

③頼山陽と曽根天満宮

 https://youtu.be/AILKoVhiELM

 

④頼山陽と六騎塚

 https://youtu.be/qnx1omfKs-I

 

⑤頼山陽と赤松円心 頼山陽「日本楽府・赤松円心の飜覆手(はんぷくしゅ)[決意を変える]」

 https://youtu.be/S3j4uW6Yv5A

 

尚、詳しい解説は私のホームページ&ブログ「歴史の街・播磨」に記載しております。

https://synchronicity64.wixsite.com/harima

宜しくお願いします。

 

仁寿山校の跡地は土塀を残し、竹林になっている。この中に入ると、タイムスリップしたように感じられる。人づくりの場として再建できないものか心を痛めている。

2017・2・25

赤松昇さん「仁寿山校について」②

 

仁寿山の由来

 

文政四年(一八二一年)、藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を彼に与えた。河合寸翁はこの山を論語の雍也第六の『仁者は寿(いのちなが)し』から命名した。


■「賢人は国家の宝」

・河合寸翁の人材を愛する心が学校の設立を実現させた。

・藩の補助を受けたが私塾であった。姫路藩は藩立として好古堂が存在した。

・文政五年開校(1822)。初め仁寿山書院と称した。

 

■校風と授業について

・校舎内に朱子の白鹿洞書院掲示碑を建立した。(学問の心構え。1825

頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞掲示」を学生に講義を行った。

・実学を重んじ、「治国平定天下経世済民の人材を養成する」※1ことを主目的とした。

・学問に志がある子弟、藩選抜の子弟、及び他藩の志がある者を受け入れた。

・「経書を講説」※2

 五経:易経、詩経、書経、春秋、礼記/四書:大学、中庸、論語、孟子など)

・「学科は漢学、国学、習字、習礼などで、素読、復読、討論、質問辨義などを行った。」※3 

 習礼(しゅうらい:重要な儀式の予行)

   復読(繰り返して読む)

 質問辨義(質問し正しく弁ずる)

・太極図・論性説を発行。(1832

・仁寿山に招聘された人々

頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。

堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など

・河合寸翁没(七十五才1841

・「1842年 仁寿山を廃止し、寄宿舎を好古堂に移す。医学寮は残る。」4

 

◆頼山陽の詩

『発播仁寿山校諸生』『姫路懐古』『重陽在仁寿山校』など

◆頼山陽、藩主酒井忠実に『日本外史』を献上

◇頼山陽について記載されている最近の市販書籍

『姫路藩の名家老 河合寸翁』 熊田かよこ 著 神戸新聞総合出版センター―藩政改革と人材育成にかけた生涯-201511

◇頼山陽と姫路ついて詳しく書かれている資料(冊子)

『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清著 兵庫教育研修所 19693

 

※参考書籍

『姫路城史(下巻)』 橋本政次著 ㈱名著出版発行 19734

※1、※2、※3は『姫路城史(下巻)』より引用

『近世の松原村』松原郷土史シリーズ3  大西文雄 著灘の松原自治会発行 19983

4は『近世の松原村』より引用。

『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清著 兵庫教育研修所発行 19693

『姫路市史 第四巻 本編 近世2』 姫路市市史編集委員会編集 姫路市 発行 20093

 

 

 

仁寿山校は、文政5年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしたが、寸翁の死後廃校となった。天保13年(1842)寄宿舎は姫路城下にあった藩校・好古堂に移され、医学寮だけは明治維新までこの地に残された。上の図は元藩士の下田重復が明治43年に描いたもので、盛時の様子を示している。現在、井戸と土塀の一部だけが残っている。寸翁の墓は仁寿山々

麓の河合墓所の中にある。(平成24年1月姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会現地掲示板の記載より)

※河合寸翁は武士で、山崎闇斎学派の儒教学者。藩政改革と財政改革を実行。73万両の負債を返済した。

 

2017・2・24

赤松昇さん「仁寿山校について」①

 

合寸翁(道臣、1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで名高い。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けた。

仁寿山全景 お旅山山頂から見た仁寿山。写真左手に姫路市街が見える。山頂から左山麓に河合家墓地と右山麓に仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見える。頂上の六一亭があったところにはパラボナアンテナが建っている。六一亭は六つの藩がここから一つに観えることから名付けられたと云われている。


2017・2・21

赤松昇さん「小赤壁について」

 

私の住んでいる姫路市の海側に小赤壁と呼ばれる断崖絶壁があります。今回はこの情報を提供させていただきます。


姫路市の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。小赤壁の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。

姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、学生らとともにこの海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宗代の詩人・蘇軾の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。

 

追伸

私は『易経』を学んでいるものです。頼山陽先生は12歳で『易経』を読み終えたと聞いています。私の『易経』は、王陽明研究の第一人者である岡田武彦先生が話されている義理派と占筮派を一体として説いた『易経』を目指しています。

以前、広島の頼山陽記念館にて頼山陽先生の算木と筮竹をみて感動したことを覚えています。「頼山陽先生と易経」についてどなたか情報をお持ちでしたらお教えください。尚、『日本外史』の楠氏編 後醍醐天皇の占筮は大変興味を持って読みました。

 

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