見延典子が書いています。

「広邑新墾碑」(広島県呉市広)
「広邑新墾碑」(広島県呉市広)

2021・ 山下幸太郎さん、上田誠也さん

「広邑新墾碑の原文、訳文」

 

頼山陽が書いた「広邑新墾碑」について、山下幸太郎さん、上田誠也さんのご協力により原文、書き下し、訳文が完成いたしました。その中から原文と訳文をご紹介します。

(書き下し文は今後発刊が予定されている『頼山陽全国史跡&詩碑めぐり』に掲載致します)


 山下さん、上田さん、ありがとうございました。

 

廣邑新墾碑。 三月 [文政二年五月]

藝之東。山勢彎環。與海相出入。農蜑襍居。稻魚之利。生齒之繁。甲於諸郡。而廣邑居一焉。邑之水海口沙淤。積成廣斥。囙而隄之。以爲田。鹹鹵沮洳。漸化膏腴者數處。其最新成。曰彌生新田。成於邑里正多賀谷翁宗親。多賀谷氏。姓平。本貫蒲刈島支派。來家本邑二。翁爲其一。三世相承。及翁。富出宗族之右云。翁嘗助其父。闢田三區。今役最大。剏工於文化辛未二月之季。告竣於其三月有閏焉。爲日總五十九日。役夫毎一日率二千。爲夫總十二萬人。既成。籍其阡陌疆場之畧。上於 藩府。得田三十九町有奇。分隷數家。課耕勸作。租額未立。有命。特賜一町於多賀谷氏。世々勿有所與焉。嘉其功也。蓋佗邑亦有墾闢者。糜官錢鉅萬。延以歳月。纔能底成。翁此擧。出於己策。取乎己貲。未嘗有煩於官。雖囙其地勢。或易爲力。抑亦偉矣。余自吾父。已識翁。省郷之次。過得相見。翁足跡不出其郷。無佗嗜好。獨以奉上濟物爲心。自奉儉朴。不類豪民。所以能成此偉擧也。翁請余記其事于石。余以病廢仕。放浪客土。不能報涓埃於父母之邦。視翁所成。寧不慚恧。然囙翁。以得不朽其隻詞於本土。亦所自幸也。於是不辭而爲之銘。其詞曰。維潮與水。日戰交綏。非海非陸。厥地棄遺。爰疆爰理。畚鍤雲飛。非澤於家。唯國之滋。遏潮延水。祭土之神。伐鼓鏜々。百吏臨焉。公曰汝功。錫汝一阡。襲萬子孫。莫之或刊。彼汰弗思。湎酒漁色。失厥舊業。新之敢得。菲乃飲食。致力溝洫。噫乃孫子。視茲所述。文化十五年歳在戌寅春三月頼襄子成撰幷書

 

(現代語訳)

広村新墾の碑

安芸国の東方は、山並みが曲がり込んで海に出入りし、農業や漁業を営む者が雑居している。稲や魚に恵まれ、住民が多いことは、他郡に比べて最も秀でており、その中で広村が一番である。村の水で、海口の砂泥が積もって広い潟を形成している。そこで、これを堤防として田圃とした。塩分の多い湿地が肥沃の地へと変わった土地が数か所ある。その最も新しくできた所を弥生新田と言う。庄屋の多賀谷宗親翁が成し遂げたものである。多賀谷氏の姓は平氏で、本籍は蒲刈島である。その分家筋で本村に来た者が二つあり、その一つが宗親(武兵衛)翁である。先祖が三代相伝した後、武兵衛翁の代となり、本家より福裕になった。武兵衛翁はかつてその父を助けて三区画の田を開拓した。今の工事は最大である。文化八(一八一一)年二月の末に始めて閏三月に完成させた。総日数は五十九日であり、人夫は一日平均して二千人が従事し、延べ人数で十二万人となり、ついに完成した。今までに開墾した土地の縦横の通路や境界のあらましを台帳に記録して藩に差し出した。工事によって得られた田は三十九町余りに及び、数家がこれを管理し、耕作に励んでいる。年貢高は(新田開発のため)まだ定められていない。藩命により特に一町を多賀谷氏に与えられた。代々与える田があってはいけないと、その功績を褒めた。思うに、他の村にも開墾する者はいたが、藩の巨額なお金をつぎ込み、歳月を費やして、やっと成し遂げている。武兵衛翁のこの事業は、自身で計画して始め、自己資金によるものであり、これまで藩を煩わせたことはない。その地勢が、もしかすると力を発揮しやすかったとしても、それにしても偉大である。私は父より、武兵衛翁について聞かされ知っていた。故郷に帰省した折に、立ち寄って見る機会があった。武兵衛翁はその土地から出ることなく、他の嗜好もなく、ただ藩のために働くという心を根底に、自身は慎ましく素朴な生活を信条とし、勢力家のような人とは違っていた。それらが偉業を成し遂げられた理由である。武兵衛翁は私に、そのことを書いて石碑にして欲しいと依頼された。私は病気により藩に出仕できなくなり、他郷を放浪し、少しも両親の国(である広島の地)にご恩返しをする事ができないでいる。多賀谷翁の成し遂げられたことを視て、どうして恥ずかしく思わないでいられようか。けれども、多賀谷氏のために書くことによって一つの詞をこの土地に永久に残すことが出来れば、自分としても幸いである。そこで、辞退せずにこの銘文を作った。その詞は次の通りである。潮と水とが毎日戦って、こもごも退いている。海でもなく陸でもなく、その地は放置されていた。ここに境界を施しここに治めた。もっことすきが盛んに飛んだ。わが家のもうけにするのではなく、ただ国を富ますためである。潮を止め、真水を引き込み、土の神を祭って太鼓をどんどんと打ち鳴らした。多くの役人が見に来た。殿様が申されるには、「そなたの功績である。そなたに一区画の田を与える。万代の子孫まで継がせ、削り取ったり取られるようなことがあってはならない。子孫が奢って先祖の功を思わず、酒におぼれ女色をあさりまわって、先祖からの仕事を失うようなことがあったら、どうして新しく得ることができようか。飲食を切り詰めて、農耕に力を尽せ」と。ああ、子孫たちよ、ここに述べてある事をよく見よ。文化十五年(一八一八) 歳は戌寅(つちのえとら)の春三月 頼襄(襄は山陽の諱:いみな)子成(子成は山陽の字:あざな)が作文し、書いた。

 

右手が呉市総合体育館 この日は子どもたちが詩碑(文学碑)の周辺で勉強をしていた。
右手が呉市総合体育館 この日は子どもたちが詩碑(文学碑)の周辺で勉強をしていた。

裏面に「呉東ロ一タリ一クラブ創立35周年記念」「呉東ロ一タリ一クラブ建立」「平成7年3月30日」とある。ただ、呉総合体育館は平成15年に開館しているので、当初からこの位置に設置されていたかは不明である。

またこの碑の建設には、すでに紹介している賀谷倭登氏が尽力されたようである。

2021・4・23 

広島県呉市広 頼山陽文学碑

 

広島県呉市広にはもう一基、呉総合体育館南側に「頼山陽詩碑」(頼山陽文学碑)がある。


詩碑(文学碑)に向って左側には漢詩の内容を示す説明板が設置されているが、生い茂った芭蕉に隠れて読みにくい。周辺は子どもたちの遊び場にこそなっているものの、雑草が伸び、とくだん手入れされていない印象を受ける。


広邑舟遊   頼山陽

載將魚叟入菰蘆 魚叟を載せ将(もっ)て菰蘆(ころ)に入る

方是晴灣月湧初 方(まさ)に是れ、晴湾、月湧くの初(はじめ)

擧網金波光破碎 網挙ぐれば、金波、光って破碎(はさい)し

依微可辦獲何魚 依微として弁ずべけんや何の魚を獲(え)たるかを

 

漁師をのせて菰や芦の生い茂る中に入っていく。晴れ渡った湾に月がのぼりはじめる頃である。網をあげると、月光を受けた金色の波が砕ける。ほのかな明りなのでどんな魚が獲れたのよくわからない。

 

 江戸時代後期の文学者・歴史家である頼山陽先生が広村多賀谷邸に遊ばれたとき詠まれた広村周遊の詩である。 (説明板より)

 

 善通寺(呉市広三芦)
 善通寺(呉市広三芦)

2021・4・16

石工石田直之

 

呉市広三芦を訪ねるには、もう一つ目的があった。調査をしていたら、広三芦1丁目に「石田石材」という石材店があることを知った。「広邑新墾碑」には「石工石田直之」と刻されていたので、「石田石材」の縁者ではないと推測したのだ。

だがその住所を訪ねてみると、空き地になっている。隣人の話では「ずいぶん前にご主人が亡くなったあと廃業して、お子さんがどこに住んでいるかわかりません」という。


「石田直之」は大坂の石工ではないかという別の情報もある。もう少し調べたい。

 

2021・4・14

多賀谷武兵衛の足跡を訪ねて③

 

多賀谷武兵衛の墓を訪ねようと思ったのは、頼山陽記念文化財団の会報第66号を読み返していたら、多賀谷家分家の賀谷(かや)倭登氏が「墓の題字は頼山陽が書いた」とあったからだった。「永照院芳純居士」がそれにあたる。ただ、賀谷氏自身も書かれているように矛盾もある。多賀谷武兵衛が亡くなったのは山陽が亡くなって2年後の1834年(天保5)なのである。

裏面の墓銘は大坂の篠崎小竹の筆である。文中「子成(山陽)」が2度出てくる。最初は山陽が書いた「広邑新墾碑」について、次に山陽の父春水についてだ。春水も広邑に碑を建てたようにも読める(全文の書き下し、訳は先の会報に掲載されている)。小竹が墓銘を書いたのは武兵衛が亡くなった翌年で、ほどなく墓が建てられたのなら、建立年代が不明の「広邑新墾碑」も江戸時代、あるいは山陽存命中に建てられて可能性が高い。多賀谷家の財力、人脈を考えれば、不自然な点はない。

 

それについて賀谷氏は「武兵衛は病弱な身を反省し、山陽が広村を訪ねた1819年(文政2)に書いてもらっていたのでは」と推測し、「題字の上の篆額(多賀谷娯老碑)は杏坪先生」とも書いている。墓を見る限り、根拠となるものは見い出せないが、一族にはそのように申し送りされているのかもしれない。尚、山陽が書いたとされる題字には「芳純」とあるのに対し、裏面の上には「芳順」となっている。賀谷氏は「芳順」を法号としている。

 頼山陽筆「広邑新墾碑」
 頼山陽筆「広邑新墾碑」

2021・4・12

多賀谷武兵衛の足跡を訪ねて➁

 

多賀谷武兵衛の墓が見つからず、結局お寺の方に尋ねると、なんのことはない裏山に上る手前にある。

 亀趺(きふ)に乗った墓石
 亀趺(きふ)に乗った墓石
墓石の左側       「俗称多賀谷武兵衛」
墓石の左側       「俗称多賀谷武兵衛」

左の写真が目的の多賀谷武兵衛の墓。篆額に「多賀谷娯老(号)碑」、題字に「永照院芳純居士」

 

墓石が亀の上にのっているのは、長寿の亀にあやかって、末永く伝えられていってほしいという意味がこめられていると聞いた記憶があるが、庶民の墓ではほとんど見ることはない。私が記憶するかぎり、湊川神社の徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」くらいである。

 

墓石の右側        「天保五年甲午六月十三日」
墓石の右側        「天保五年甲午六月十三日」

裏面には「芳順多賀谷翁墓銘」とあり、篠崎小竹の墓銘が刻まれている。まずはご覧ください。


善通寺(呉市広三芦)
善通寺(呉市広三芦)

所在地は呉市広三芦2丁目にある古刹「善通寺」。広の繁華街よりかなし北に進んだところにある。おそらく善通寺より南が新田が築かれた一帯ではなかろうか(推測)

呉市有形文化財の手水鉢
呉市有形文化財の手水鉢

寺門をくぐり、境内に足を踏みいれると、右手に「施主多賀谷」と書かれた石灯籠がある。

2021・4・11

多賀谷武兵衛の足跡を訪ねて➀

 

呉市広にある頼山陽筆の「広邑新墾碑」は山下幸太郎さんが書き下し、訳を書いてくださった。

その縁で、山陽に碑文を依頼した広邑の大庄屋多賀谷武兵衛について調べていたところ、呉市広に墓があることがわかり、訪ねた。

向って右が「多賀谷家」奉納の石灯籠
向って右が「多賀谷家」奉納の石灯籠

境内に花崗岩で作られ、縁に多くの盃状穴が刻まれた手水鉢(呉市有形文化財)があり、側面に1689年4月17日と刻まれていることからも、善通寺の歴史が想像される。

裏には「天保五甲午年」とある。武兵衛は同年に亡くなったいるので、そのとき奉納された石灯籠ではないか。期待を胸に、裏山にあるという武兵衛の墓に向かう。しかし裏山をのぼれど、それらしい墓はない…

           続きます

私が同寺を訪れた同じ日の夕刻、石村代表もここを訪れていたことを知る。石村代表とはバイオリズムが同じらしい。

 


ホームページ編集人  見延典子
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