頼三樹、関藤藤陰、江木鰐水と蝦夷地

頼山陽は江戸より東には足を延ばしていないが、三男の三樹、弟子の関藤藤陰、江木鰐水は蝦夷の土を踏んでいる。

自分がコツコツ取集した書軸類の処分に困り、資料館に寄贈したいと考える人はいつの時代にもいる。実はこの知人とは別に、もう一人から相談をもちかけられている。こちらは買ってほしいという。すぐに断るのも悪いので、返事を保留していたら、また電話。「売るのが惜しくなった」という。内心ホッとしていると、「だから値段を高くしたい」という。何を考えているんだか。本人にとっては「お宝」でも、タダだっていらないという人もいる。それが骨董の世界。面白いといえば面白いけど。

 

2014・8・24

〇頼三樹と蝦夷地(函館、江差)1

頼山陽の三男(実際は四男)三樹は弘化3年(1846年)21歳の時、蝦夷地に渡った。三樹は別号鴨崖。通称は三樹三郎。

 

酒に酔って、上野寛永寺にある葵の紋が刻された石灯篭を蹴り飛ばし、昌平坂学問所の書生寮を退去になった直後であった。


この頃から三樹は水戸藩士と交流するなど、政治活動に関心を持ちはじめていた。

 

北を目指したのは、九州を踏破した父山陽への対抗心からかもしれない。

 


2014・9・14

江木鰐水と蝦夷地2

 

頼山陽の弟子の江木鰐水(がくすい)に話を戻そう。

 

『函館戦争に於ける福山藩』(福山城博物館友の会)によれば、福山藩の出征隊が福山城を出発したの

は、明治元年(1868)9月21日。


兵が乗船するモーリス号の到着を待つ間、祇園社へ参詣して武運長久を祈った。


この時、鰐水59歳。妻敏45歳。子どもは23歳の3男から6歳の7男まで、7人で暮らしていた。


生きて帰ってこられるかわからない旅路である。

やがて鞆の浦から下関を回り、日本海を北上した。


全軍は当初500名だったが、800名に増えた。


多くが若い兵であった。




箱館戦争における福山藩士の死者は27名に及んだ。参謀の鰐水の無念はいかばかりであったか。


函館市のほか、北斗市(上)や江差町(左)に墓が残るが、広島県民、福山市民の多くはこの史実を知らない。


箱館は会津と並び、最後まで新政府軍に抵抗したため、明治政府から冷遇された。開拓使も札幌に置かれた。


幕府の匂いが残る「箱館」を「函館」と表記するように命じたのも、明治政府であった。


福山に帰ったあと、鰐水は治山治水、殖産の尽くし、明治10年一家をあげて東京に移り、明治14年72歳で没。


墓は阿部正弘、関藤藤陰と同じく谷中墓地にある。



                    この項、了

              

三樹は箱館に上陸後、北前船の起点として活況を呈する江差へと向かう。

上の写真、上ノ国の北が江差。中央付近に函館。右の写真は江差の町並み

 

江差町で引上げ、復元された開陽丸
江差町で引上げ、復元された開陽丸

2014・9・13

頼山陽の弟子・江木鰐水と蝦夷地

 

もう一人、蝦夷地の渡った頼山陽ゆかりの人物がいる。

 

頼山陽の弟子にして、関藤藤陰の盟友江木鰐水(がくすい)である。

 

江木鰐水は『頼山陽先生行状』を

著したことでも知られる。

 

山陽没後、鰐水は藤陰と同じく福山藩になった。福山藩の阿部家は代々老中をつとめる家柄で、老中首座となった阿部正弘が有名。

だが戊辰戦争で福山藩は無血開城。その後、新政府から旧幕府軍が最後の戦いを続ける箱館に出兵するよう命令が下る。

鰐水は参謀を務めることになったのだった。

 

まさに昨日の友は今日の敵である。


五稜郭の中央に箱館奉行所が見える
五稜郭の中央に箱館奉行所が見える

箱館戦争は明治元年(1868)から2年に行われた戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いである。

 

新選組副隊長だった土方歳三もこの戦いで命を落とし、今も遺骨は見つかっていない。

旧幕府軍が本陣とした蝦夷奉行所
旧幕府軍が本陣とした蝦夷奉行所
新旧の大砲も残る(共に五稜郭内)
新旧の大砲も残る(共に五稜郭内)

旧幕府軍が本陣とした箱館奉行所(写真左)は五稜郭内にあり、旧幕府軍の敗戦に伴い、明治4年に解体されたが、平成22年(2010)、一部がほぼ140年ぶりに復元された。

 

 

2014・9・3

〇関藤藤陰と蝦夷地

(函館、白老、カラフトなどの北蝦夷、エトロフ島などの東蝦夷)

 

頼山陽の弟子であり、福山藩主、老中首座阿部正弘に側用人仕えた関藤藤陰は、安政3年(1856)50歳の時、安政4年51歳の時の2度、蝦夷地に渡っている。

 

目的は蝦夷地の資源調査で、『勧国録』としてまとめられた。

 

幕命での蝦夷地探索は過酷を極め、2回目の探索では、同行者の山本橘次郎が脚気に倒れ、亡くなった。享年25歳。江戸には妻子を残していた。

 

その墓が函館称名寺にあることを知った。

 

称名寺の住職のS氏は郷土史家と

して知られる方で、以前から頼三樹三郎研究会の齊藤裕志氏を介して親交があった。

 

  函館市にある古刹・称名寺

思いがけない偶然に、2,3年前の秋、称名寺を訪ねたが、S氏は名前に心辺りがないという。

 

山本橘次郎は通称で、墓には諱の

「山本信敏」と刻まれていたからであった。

墓石には3面にわたり、墓銘がびっしりと刻まれていた。

 

異国で若い命を落とした山本を藤陰は手厚く葬ったのだ。

 

とともに、この墓石は奇しくも、藤陰が蝦夷地を訪れたことを示す数少ない証となった。

 

山本を失った2度目の蝦夷地探索では、白老にある仙台藩陣屋で、主君阿部正弘の訃報に接している。

 

藤陰の胸中やいかばかりであったろうか。藤陰も脚気に苦しみながら、江戸へ帰ったのだった。

  称名寺から津軽海峡を望む     

 

 三樹は疥癬という頑固な皮膚病にかかり、町年寄の齊藤鷗洲ら地元の有力者の世話になった。

 

治癒したあと、お礼として蝦夷地に渡る途中、中尊寺金色堂で入手した経典3行を土地の医師の本多佐卿に送った。


この経文は正確には「紺紙金字一切経」と呼ばれ、5300巻以上あったというが、現存しているのは4000巻余り。


北海道での発見例は初めて。

(写真。江差町郷土資料館蔵)

 

江差では豪商でもある齊藤鷗洲の食客となり、松浦武四郎と知り合う。

 

武四郎は三樹より8歳年上。一時、仏門に入ったあと、野心を抱いて蝦夷地に渡っていた。後に「北海道」の名づけ親となる人物だ。

2014・8・29

頼三樹と蝦夷地(函館、江差)2

 偉業を顕彰して平成12年(2000)江差町に建立された詩碑
 偉業を顕彰して平成12年(2000)江差町に建立された詩碑



 

弘化3年(1846)10月14日の冬至の日、齊藤鷗洲ゆかりの雲石楼で雅会が開かれた。

出される詩題に基づき、頼三樹は五言絶句を、松浦武四郎は誌題を石に篆刻し、「百印百詩」を日中のうちに完成させたのである。文芸上画期的な偉業とされる。

武四郎は篆刻で身を立てていた。

 

『百印百詩を読む』(江差町の歴史を紀行し友好を進める会、平成12年刊)により、百印百詩の全貌を手軽に知ることができる。今は絶版。


一詩 「清晨」 頼三樹

 

山青くして残月薄く  山陵は青く、月影は残っている。

灯白くして古邨寒し  常夜灯は白く、古い港町は寒々している。

橋霜いまだわたらず  橋の上の新雪はまだ誰も踏んでいない。 

満耳水珊々      聞えるのは澄んだ水の流れだけだ。

 

原本は松浦武四郎が明治44年に出した『百印百詩』による。

その後、百印を見ようと、三重県松坂市にある松浦武四郎記念館まで足をのばしたが、常設ではなく、年にわずかな日数しか展示していないそうで、見ることは叶わなかった。また火災に遭い、百印のうち現存しているのは7、80印であることもわかった。

 

江差にはもう一基、頼三樹の文学碑がある。「江差八勝」である。

こちらは平成15年に建立された。

 

『江差八勝』(頼三樹三郎研究会、平成15年刊)によれば、弘化4年(1847年)5月、絶景の地「江差八勝」を詠む雅会が開かれ、頼三樹、釋日岱、西川雍、本多覃、簗瀬存愛、原元圭、高野慊、齊藤鴎洲(観海)らによる八詩は、頼三樹の揮毫によって齊藤鷗洲に贈られ、江差港の隆盛祈願の大額として姥神神社に献納されたという。


鴎洲の子孫で、頼三樹三郎研究会会長の齊藤裕志は、鷗洲宛ての三樹の書状を多数所蔵されている。


三樹が江差に滞在したのは弘化3年10月から翌年8月まで。22歳から23歳までのまさに青春時代であった。


25歳で帰京後は政治活動に入り、やがて安政の大獄で35歳の命を散らすことを思うと、江差での10カ月ほどの滞在は三樹にとって最も輝きに満ちていた頃といえるのではないか。


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