見延典子訳『日本外史』足利氏(下)
参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931)
藤高一男『日本外史を読』』Ⅱ(2002)
応仁の乱(応仁元年・1467~文明9年・1477)後の状況です。
2024・10・4
将軍足利義尚夭逝し、足利義稙(よしたね)が継ぐ
この年の九月、将軍足利義尚は自ら大将となって六角高頼を討った。六角高頼が将軍の命令に背いて京都に来なかったからであった。
十月、六角高頼が甲賀山に逃げた。足利義尚は鈎(まがりの)里に陣取った。
足利義尚は幼少のころから文学が好きで、藤原(一条)兼良と政治上の問答をしたことがあった。藤原兼良は、足利義尚のためにその問答の言葉を書き留めて、『樵談治要』という書物にした。また足利義尚は馬に乗って弓を射ることにも慣れていた。鈎(まがりの)里にいて年を越したが、陣中で『春秋左氏伝』の講義をした。
足利義尚は「自分はこの族(六角高頼)を滅ぼさなければ、二度と京都に帰らない」といった。
延徳元年(1485)三月、足利義尚は陣中で病気にかかり、二十五歳で没した。官位は内大臣、右近衛大将、従一位まで昇った。幕府の内外は皆彼の死を惜しんだ、義尚は死ぬ前に足利義煕と改めた。義煕には子がなかった。
足利義政は足利義視を美濃国から呼び寄せて、その子義材を養って将軍の跡目とした。義材は名を義尹と温め、後に足加義稙と改めた。
延徳二年(1490)正月、足利義政は没した。官位は左大臣、右近衛大将、従一位まで昇り、三宮に準ぜられた。
翌年(延徳3年 1491)足利義視も京都で亡くなり、足利政知は伊豆で死んだ。死んだ政知には茶々丸という子がいた。足利政知は後妻の生んだ足利義通を愛して、茶々丸を疎んじた。茶々丸は怨んで、父の政知を殺した。足利義通は逃げて今川氏親を頼った。氏親はその大将伊勢長氏を遣わして茶々丸を殺させた。
伊勢宇長氏はとうとう伊豆国を取り、更に進んで相模国を狙っていた。
このとき扇谷の上杉定正は、折からの山内の上杉顕定に勝って鉢形城にいた。郡の威力がかなり振るっていたので、足利成氏を尊敬しなくなった。
小田原城主大森実頼が書面で扇谷の上杉定正を次のように諫めた。「扇谷の上杉家は分家筋です。本家筋である山内の上杉家と今まで張り合うことができたのは、太田道灌のおかげです。どころが道灌を失い、兵力は衰退しています。にもかかわらず強敵山内の上杉顕定の勝てたのは幸運でした。なのに、君主の足利成氏を軽蔑して、その上将士の人望を失うようなことをやられたら、禍いは近いうちにやってくるでしょう」
扇谷の上杉定正は改心できなかった。
伊勢長氏は使いをやって、扇谷の上杉定正と内応して、今田氏とともに扇谷の上杉定正を助け、山内の上杉顕定を撃った。両上杉氏はここから徐々に衰えはじめた、
足利義通が今川氏に走り頼ったとき、今川氏は義通を京都に護送した。
細川勝元の子細川政元が当時の管領であった。細川政元は将軍足利義稙に頼み、哀歌が義通を天龍寺に寓居させた。将来僧侶にしようとしたのだ。
足利義稙はすでに将軍職を継いでいたので、謹告の諸士がやってきて祝ったが、六角高頼だけは来なかった。義稙は「私は養父足利義尚の遺志を継いで六角高頼を攻め滅ぼそうと思う」といった。
明応元年(1492)九月、義稙は自ら大将となった高頼を撃ち、観音寺を攻め落とした。高頼は甲賀山に逃げ込んだ。義稙は凱旋した。
当時は畠山政長が管領になっていた。政長は昔からの大将であったので、威力声望を鼻にかけ、諸将を軽蔑していた。それで諸将は不満を抱いていた。
畠山義豊は畠山義就の子である、この義就が管領畠山政長の驕りぶりを訴えるため誉田城にこもって挙兵した。
明応二年(1943)三月、畠山政長は足利義稙を守って、畠山義豊を討った。四月、義稙は正覚寺に陣取ってたびたび義豊のいる誉田城を攻めたが、下すことはできなかった。
畠山義豊は、細川政元が畠山政長と権力を争い、にらみ合っていることを知り、ひそかに使いを細川政元の家老三好之長に遣わして、説得した。之長の子の三好之慶が細川政元に勧めて畠山義豊を助けさせ、連合して正覚寺を取り囲んだ。足利義稙は囲いから抜けて逃げた。畠山政長の子の尚長は、紀伊国に逃げた。政長は「おれはここで死んでもいい」といった。家来の丹下某と最期の酒宴を催して自害した。
細川政元は京都に帰り、将軍の跡目を誰にするか相談した。前の関白藤原(九条)政基は故の足利政知と縁続きであった。それ故に細川政元に「足利義通は天龍寺にいて、まだ髪を剃っていない。将軍に立てるべきである」と説いた。細川政元ももっともだと思い、諸将を集めて「故の東山公足利義政殿は前から堀越氏(足利政知)の子を養子にすると約束しておられた。それを今の将軍(足利義稙)は畠山政長とくんで、自分から国家を乱した。これでは軍兵を統率できない」といった。諸将もあえて異議を唱えるものがいなかった。そこで足利義通を将軍とした。年令はやっと十五であった。名は足利義高と改めたが、後に足利義澄と改めた。
四月に細川政元は「足利義稙は筒井に隠れていて、また畠山尚長は高屋に隠れている」と聞いたので、兵をやって攻めた。足利義稙を捕まえて家来の物部氏の家に押しこめて人の出入りを禁じ、一人の僧だけ側に侍らせた。
六月、足利義稙は逃げ出て越中国に出奔し、周防国に行って大内政弘を頼った。政博はまもなく死んだ。その子大内義興が兵を起して「足利義稙を将軍に復位させよう」と計った。
細川政元の養子の細川高国はあることで細川政元を怨んでいたので背き、大内氏に内通した。それで細川氏は二つの派に分かれて、京都はたいそう騒ぎ乱れた。両上杉氏もまた関東で戦っていて、戦争をしない年はほとんどなかった。
明応六年(1497)足利成氏は死んで、その子の足利政氏が相続した。そのうちに上杉顕定と和睦した。このとき国内の武人どもは互いに奪い合いをして、まるで天子や将軍の存在を知らない有り様であった。
明応九年(1500)九月、後土御門天皇が崩御した。棺は黒戸に置き去りにされ、四十余日たってやっと葬礼が行なわれた。十一月皇太子が即位された。後柏葉原天皇である。後柏原天皇の分亀元年(1501)将軍足利義澄と足利義稙は各々兵を集めた。将軍足利義澄は天皇に申しあげて、義稙の官職を削るようにお願いした。
永正元年(1504)関東に足利政氏は、子の足利高基と仲違いし、兵を構えて戦った。これは以前、足利政氏に三人の子、足利高基、足利義明、足利基頼がいた。政氏は高基を廃しようと思った。それで高基は兵をあげて父政氏を攻めたのだった、
山内の上杉顕定が間に入って和解させ、政氏を隠居させた。そして高基がたった。そこで弟の義明は陸奥の国に出奔し、末弟の基頼は下野国に逃げた。
このとき伊勢氏の勢いが増した。両上杉氏は連合して伊勢氏を防いだ、
永正三年(1506)上杉顕定の弟上杉房義は家来の長尾為景に殺された。
2024・10・1
両上杉、関東で争う
鎌倉では、山内の上杉憲忠が足利成氏と和睦をしたので、京都の足利義政も使者を立てて両人を諭し、なだめた。しかし足利成氏と上杉憲忠との間柄は、依然として疑い合って仲が悪かった。
その後四年目に足利成年が結城成朝と相談し、力士を門の側に隠しておいて上杉憲忠を呼び寄せた。上杉憲忠はやってきて門を入った。すると力士が出てきて彼を撃ち殺した。上杉氏の一族は皆怒り、足利成氏に反した。
翌年(康正元年 1455)長尾昌賢が京都の将軍に願い、上杉憲忠の弟、山内の上杉房顕を立てて管領とした。その房顕は、扇谷の上杉定正といっしょになって足利成氏を攻め、武蔵国・相模国の辺りで転戦した。山内の上杉房顕は砦を五十子に築いた。戦の終わらないこと、三年にも及んだ。
山内の上杉房顕、扇谷の上杉定正が「なにとぞ、一人の将軍家筋の方を君主に戴き、足利成氏を討ちとりたいと思います」と京都の足利義政に願った。
そこで義政は、香巌院の住職になっていた弟に髪を伸させ、名を足利政知とつけて関東に遣わした。しかし関東の将士を足利成氏の方に心を寄せる者が多く、政知に味方する者は少なかった。そんな次第で、政知は伊豆の堀越に留まっていた。
山内の上杉房顕は死んでしまい、その子の上杉顕定が相続した。上杉顕定は上杉定正とともに足利政知を守り立てて、たびたび足利成氏を攻めた。成氏は逃げて、古河城にたてこもった。この古河城は常磐国を後ろにし、下野国を右(北に当る)にし、下総国を左(南に当る)にしている。その上、千葉氏、小山氏、結城氏、宇都宮氏などの諸侯がこの古河城を補佐していた。
上杉顕定、上杉定正がこの古河城を攻めた。十一年経って古河城はやっと陥落し、足利成氏は千葉に走った。
その後七年目に、足利成氏は上杉氏を和睦したので、古河城を取り戻すことができた。また和を足利義政に請うた。足利義政もこれを許した。
上杉憲忠が足利成氏と以前に和睦してから再度和睦するのに、文明十年まで掛かった。
そこで山内の上杉顕定は上野国の平井に居て、関東八州を管領した。関東八州の者は山内の上杉顕定を尊んで、山内公と呼んだ。
扇谷の上杉定正は相模国の大場にいた。その家臣の太田持資は才能謀略があった。髪を剃り落として、太田道灌といった。道灌は築城に詳しかった。江戸城と川越城を築き、そこに居住した。父の太田道真と心を合せて、大いに恩恵威勢を施した。その功で、関東八州の将士はいつのまにか山内の上杉顕定に反いて、扇谷の上杉定正に味方した。
山内の上杉顕定はこの事実を不安に思い、たびたび上杉定正を撃ったが、思うようにならなかった。それで顕定はひそかに道灌を除いて、上杉定正の手足のようになっている者を取り除こうと計り、まわし者をやって「道灌は才智武芸があり、また将士の心得があり、上杉定正の家来となるべき男ではない」と盛んに言いはやらせた。
扇谷の上杉定正はだんだんと道灌を憎むようになってきた。文明十八年(1486)上杉定正は道灌を招いて、酒をご馳走した。酒席半ばに入浴をさせ、人をやって刺し殺させた。
道灌の子の太田資安は祖父の太田道真とともに山内の上杉顕定に降参した。山内の上杉顕定が「上杉定正はわが計略にかかった、かんたんにやっつけられる」とたいそう喜んだ。長享年元年(1487)兵を率いて平井を出発し、扇谷の上杉定正を撃った。
上杉定正は足利成氏のいる古河城に使いをやり、救いを請うた。足利成氏は、子の政氏に兵を牽き入らせて上杉定正を助け、上杉顕定を討った。
「『日本外史』を読む会」では現在同時進行で「足利氏下」を読んでいる。応仁の乱が終わっても、武士の対立、駆け引き、殺し合いが続く。日本人とはかくも好戦的な民族であったのかということを実感する。
2024・9・21
好戦的な民族?
2024・9・7
東西両陣、兵を解く
東西両陣営とも、総大将に死なれてしまった後も睨みあっていた。
文明5年(1473)12月、足利義政は将軍職を子の足利義尚の譲った。9歳であった。
畠山政長が管領となったが、七日で辞職し、一族の畠山義統に代わった。東陣に降参してきた労を賞するためであった。
文明9年(1477)11月、西陣の諸将はそれぞれ兵を解き、各々の国に帰っていった。そのため足利義視は土岐市の美濃へ行き、世話になった。東陣も自然に解散した。
これまでに応仁元年から11年経過していた。その間、両陣の兵士が代る代る放火、略奪をしたので、公卿や武家の屋敷はほとんどなくなり、京都は荒れ野原になった。関白の藤原(一条)兼良以下の公卿衆は四方に逃げ隠れ、殺された者もいた。歴代の大事な多くの書物が焼けてなくなった。
しかし足利義政は相変わらず酒盛りや歌を詠み、平然としていた。使者を朝鮮に行かせて、明国発行の勘合符を求めて、外国との交通の安全を得て、国の珍しい宝を買い取った。
文明11年(1479)足利義政は隠居して東山にいき、祖父足利義満の金閣寺になぞらえて銀閣寺を建て、世の中の戦乱は意にもとめなかった。
諸国の強い家来などは往々にして戦乱に乗じ、主人の国を奪い取る者もいた。
後花園天皇を葬った年(文明3年)斯波氏の家来甲斐某はその主君を殺して越前国を奪い、西陣に味方した。朝倉敏景はその甲斐某を殺した。その功で、足利義政は朝倉敏景に越前国を与えた。これをきっかけに、同じ斯波氏の家来織田氏が尾張国を奪った。足利義政は問題にしなかった。
この頃から天下の武人は、足利氏を馬鹿にして、ご機嫌伺いに出向く者もいなくなってしまった。
山名氏およびその党の諸将で諸国に散らばっていた者もだんだんと衰微して、滅びる者も出てきた。
しかし細川氏(京都)と上杉氏(鎌倉)が東西で威張ったいたことは今まで通りであった。