2022・5・25 北条時宗、執権となる

 

北条時宗、執権となる

 北条時宗はそのとき十三歳で、従五位下に叙せられ、左馬権頭に任じられた。母方の叔父、安達泰盛が幕府の軍政に参与していた。

 文永三年(一二六六)将軍の宗尊親王は病気になり、幕府に出てこられなくなった。僧の良基が祈祷した。だが薬は飲まれない。何かおかしいと鎌倉府下で噂が広まった。四方から兵士が集まってきた。良基は出奔し、近臣もだんだん離れていき、お側についているのは五人になった。宗尊親王は京都へ還られ、子の惟康親王を将軍とした。

七年、北条長時が没した。時宗が執権になった。時宗の庶兄北条時輔は、長時の弟北条(赤橋)義宗と六波羅を鎮め、おさえていた。時輔は平素から位が弟の下であることを不満に思っていた。

 

九年二月、北条時宗は北条(赤橋)義宗に時輔を討たせて殺した。造反の心があると聞いたからである。時宗は押しが強く、人には屈せず、ものごとにひるまない性格であった。幼いころから弓を射るのが得意であった。弘長年間、弓の大会が極楽寺にある屋敷で催されたとき、将軍だった宗尊親王が小笠懸をみたいと所望し、そこにいた武士に命じたが、誰も進んで引き受けようとはしない。北条時頼が「愚息の太郎が致しましょう」といった。太郎は時宗の幼名である。そこで早速呼んで、射場に上がらせた。そのとき十一歳。馬に跨がって出場し、一発で的中させた。大勢の見物客がいっせいに褒め称えた。時頼は「この子は親の業をうけつぎ、大任に耐えうる者になるでしょう」

2022・5・21 北条時頼の政治

 

北条時頼(義時の曾孫、5代執権)は倹約家だった。建長寺を建て、最明寺で隠居生活を送り「最長寺入道」と呼ばれる。

 

北条時頼の政治

 北条時頼は泰時の定めた貞永式目を遵守し、内外ともによく治まったといわれた。だが時頼は普通の人には真似のできないほどの倹約家であった。北条時房の孫大仏宣時が夜更けに時頼のところへ行ったとき、時頼は壺に入った酒を持ち出し「さあ、飲もう」といったが、肴は手燭火を灯して、膳棚からもってきた皿に残った味噌であった。彼は人を採用するのに、家柄には拘泥しなかった。かつて青砥藤綱を抜擢したことがある。もともと微浅の者で、若いころから学問が好きで、僧の行印を師としていた。

ある年、干魃が続いた。時頼は僧を集めて布施し、自身も三島明神に願掛けした。このとき供え物を乗せた馬が小川に小便をした。藤綱は「おまえも北条殿の供養に倣うのか」といった。周囲の者が「なぜそのようなことをいうのか」と訪ねると、「干魃が続いている。もし牛がそれを知っていたら、田に小便をするだろう。今日、僧に布施しているが、強欲か清廉かは見た目ではわからない。ただ、来る者はみな欲道坊主に決まっている。布施をしても彼らを肥やすようなもので、牛が小川に小便するのと同じく。無益なことだ」。それを聞いて時頼は呼び出し、話をして気に入り、引き付け衆に抜擢した。

 公文という者がいて、北条氏の役人と田地の境界を争い、訴え出た。多くの者は時頼を恐れて、公文が悪いといった。ただ、青砥藤綱だけは公文が正しいといった。公文は感謝し、御礼の銭をいれた包みを藤綱の裏畑に投げいれた。青砥は「天下の直を司っておられるのは北条時頼殿。公文を直とするのは、時頼殿を直とすること。だから時頼殿に御礼するべきである」といって銭を返した。

 また青砥藤綱は夜に外出して、銭十文を川におとしたことがある。松明を買い、水の中を照らして拾い集めたが、松明は五十文であった。「それでは割が合わない」とある人がいうと、藤綱は「自分は五十文を失ったが、五十文を儲けた人がいる。もし十文を捨てていれば、それっきりの話だ。自分は六十文で世の中を益したのだから大儲けではないか」

 青砥藤綱は自ら倹約して、人に施すことを好んだ。一日一尾の干し魚を食べ、木綿の着物を着て、馬乗り袴をはき、刀の鞘には漆を塗らなかった。時頼が彼の禄を増やしてやろうと思い「夢に神が現れ、おまえが太平の政治を願うなら藤綱の禄を増やせよといわれた」といったが、藤綱は固辞した。「辞退しなくてもよいだろう」と時頼がいうと、藤綱は「神様が藤綱の禄を増やせと仰せられてそのようにされるなら、首を刎ねよと仰せなら、その通りにされるのですか」というので、「では何か希望することはあるか」と訊くと鎌倉及び諸国の役人の悪行を並べ、「管子に『階前千里、門外万里』と書かれています。一日千里歩くとして十日歩けば千里遠方のことがわかります。もし人君が堂下で起ったことを十日も知らなければ、近くにある門庭が万里より遠いことになります。長い間、役人の姦悪を知らないことは、『階前千里、門外万里』にほかなりません」。時頼は特に悪い役人を罰した。世間は「時頼はよい人物を得た」と褒めた。

 康元元年(一二五六)北条時頼は病気になり、髪を削った。これより前、時頼は禅を僧道隆に学び、建長寺を造ってやった。最明寺も造り、自分はそこに隠居した。長男の時宗はまだ幼く、重時の子長時を執権とした。

 弘長三年(一二六三)時頼が没した。死去の際に偈をつくった。「俗世にあって罪業をなすこと三十七年間。たちまち死という鉄槌の一撃によって俗録を打ち壊され、寂滅為楽の大道は平々坦々の前に横たわっている」とあった。おそらく享年三十七であったから、三十七年といったのだろう。

2022・5・18 三浦氏の滅亡

 

北条氏とかつて結束していた三浦氏の滅亡。政子の「皇子を将軍のしたい」という希望を叶え、後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を鎌倉の将軍に。

 

三浦氏の滅亡

 故北条(名越)朝時の子、北条(江馬)光時は藤原頼経に寵愛されていたので、頼経をつかって北条時頼を滅ぼし、自分が執権になろうと図った。兵士が鎌倉府中に集まってきた。時頼は兵士で護衛しながら、役人や兵卒で辻々を防御させた。頼経の使者が来たが、対面しなかった。光時が剃髪して罪を詫びたので、伊豆に流した。

また頼経は京都に送り返した。そのとき近臣の三浦光村は護衛兵になって京都に行き、帰ろうとするとき泣くじゃくりながら頼経に「必ず北条を討ち取って主君の恩に報います」といった。光村は鎌倉に帰り、自領から兵士をひそかに徴集し、兄で、前若狭守の三浦泰村に謀反をさせようとした。だが泰村は決断力がなく、果たさなかった。泰村は義村の子である。義村はすでに亡くなっていたが、泰村の威厳は依然として盛んで、多くの一族郎党を束ねていた。

北条時頼の母方の祖父安達景盛は髪を削って高野山にいた。宝治元年(一二四七)四月、景盛は鎌倉にきて、しばしば時頼の屋敷を訪ねた。景盛は子の義景、孫の泰盛に「おまえらは三浦宇治が謀反をしようとしているのを、首を垂れて見ているだけか」といった。五月、鶴岡八幡宮の前に立て札がしてあり「三浦泰村は殺されるだろう」と書かれている。ある夜、時頼は三浦の家に泊まることになった。一族が皆集まり、酒を馳走する。入れ替わり立ち替わり人が出入りしている。時頼は怪しんだ。その夜、障子の向こうで鎧や冑の音がしたのを聞き、飛び起きた。「やはりそうだったのか」。時頼は一人の従者と歩いて帰宅した。泰村は驚き、嘆いた。翌日の夜、時頼は三浦の屋敷の様子を窺わせた。皆が武器を蓄え、戦いに備えていた。時頼はいよいよ警戒した。将士たちが競い、集まってきた。翌日、泰村の屋敷に匿名の書状がまいこんだ。「貴公は殺されるだろう。なぜ警戒しないのか」と書いてあった。泰村は「これは私を殺そうとする者の仕業だ」といって書状を破り、家来を時頼のところへ行かせた。家来は泰村の伝言として「世間の噂では、私が殺されるということだが、家来が集まり、守ってくれている。もし大勢の力が必要ならお助けしましょう」といった。時頼はその使者を慰め、諭して帰した。

大江(毛利)季光の妻は三浦泰村の娘であった。その娘が泰村に謀反の決心をするように勧めたが、泰村はまたしても決断しなかった。時頼から書状がきて「何もしないので、兵を解除するように」と書いてあった。泰村は非常に喜び、命令に従った。泰時は妻に勧められて食事をはじめた。まだ一口食べたところなのに、門外が騒々しい。安達氏の兵士が攻めてきたのだ。泰村は驚き、目をぎょろつかせ、これを防いだ。時頼は弟時定を大将にして三浦氏を攻め、金沢実時に幕府を守らせた。実時は泰時の弟、北条(金沢)実泰の子である。泰村の義弟大江季光は時頼に見方しようとした。その妻は「あなたは武士ではない」と怒った。季光は泰村についた。時頼は三浦氏の北隣の家を焼いた。泰村は大敗し、敗走して源頼朝の影堂に入った。弟の三浦光村は八十騎を率いて永福寺に立てこもり、泰村を呼んだ。泰村は行こうとしない。光村が堂中にやってきた。諸軍が取り囲んだ。三浦氏の一族は頼朝の画像の前にずらり座った。光村が「関白殿下(藤原頼経の父九条道家)のご指示通りに従っていれば北条氏を滅ぼし、わが一族が軍政を専断していたろう。兄の泰村がぐずぐずしていたからこんな恥辱をうけることになった」と嘆き、悲しんでから、刀で自分の顔の皮を引き剥がし「これで俺だということがわかるか」と訊き、自殺した。泰村は泣きながら「わが一族は義明、義澄、義村、泰村の四代が幕府のために功を積み、北条氏の外戚になって内外を補佐してきたが、それでも禍を免れることはできなかった。先君の義村殿が多くの人を殺した報いかもしれない。どうして北条氏を怨もうか」といったあと、一族二百七十名余りが自殺した。ただ、それぞれの妻子は許され、泰村の娘野本尼だけは乱を起こそうと謀り、殺された。

これより前、北条時頼の大叔父、北条重時が六波羅の北方に陣取っていた。時頼は鎌倉に呼び戻そうとしたが、泰村がとめた。建長元年(一二四九)重時を鎌倉に呼び、執権にした。時頼は相模守になった。

 

四年、藤原道家が急死した。藤原頼嗣は時頼を殺そうと、長久連を使って諸将士を引き込むように誘導したが、佐々木新が逆に頼嗣を捕らえ、時頼のもとに送った。時頼は頼嗣に将軍をやめさせて京都に送り返し、代わりに後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を鎌倉の将軍にした。政子の「皇子を将軍のしたい」という希望を叶えたのである。

2022・5・16 久保寺さん「間違いがあったので」

 

口語訳『日本外史』毎回、楽しく読ませていただいています。

今回の「北条泰時の器量」で、単純な誤りがあったので連絡いたします。

「泰時は執権の権威をもったいても」→「もっていても」

「寛文二年」→「寛元二年」だと思います。

最初の方の「我が後世の子孫は、時房殿の子孫に決してそむいてはならぬ」は、「時房殿」ではなく「泰時殿」かなとも思ったのですが

原文の「武州の裔」が「時房」ということでしょうか。

 

 久保寺さんへ

   ありがとうございます。訂正しました。

                     見延典子

 

2022・5・15

北条泰時の器量

 

北条泰時は親族に情が深く、倹約を行ない、世の中の治平を求める。


北条泰時の器量

 嘉禎二年(一二三六)北条泰時は従四位に進み、仁治三年(一二四二)六月、六十歳で没した。泰時は親族には情が深く、叔父の北条時房を尊敬し、下手に出ていた。かつて泰時が評定所にいたとき、弟の名越(北条)朝時の屋敷に狼藉者が闖入したと聞き、直ちに助けにいったことがある。平盛綱が「小さな事件にすぎない。貴殿は執権なのに、なぜ軽々しく行動するのか」と訊くと、泰時は「兄弟に凶事が起ったのだ。自分からみれば建保、承久の合戦とかわりない。兄弟を失うなら、執権もあったものではない」といった。

 名越朝時は泰時の言葉を書きとめ、「我が後世の子孫は、泰時殿の子孫に決してそむいてはならぬ」といい、家訓として納めた。

 泰時は執権の権威をもっていても、偉ぶることはなかった。常に諸将と交代で幕府に宿直し、年をとっても怠らなかった。当直の晩に寝るときも布団は使用しなかった。頼朝の墓に参拝する際は堂下で拝んだ。ある人が「堂の上にあがってはいかがですか」というと、「将軍がご在世のころ、私は身分が低く、堂には登れなかった。将軍が亡くなったからもういいなどということは自分にはできない」

 泰時は四位に昇進したとき、「功労もないのに爵位を勧められた。おそらく有終の美は飾れないかもしれないが、神に無事を祈ろう」といった。するとある僧がきて「寺を建立すれば、将来は安全です」といった。泰時は「寺など建てればいたずらに財を費やし、人民を苦しめよう。何が安全か」といってその僧を追い払った。

 泰時は一心に世の中の治平を求めた。政府に参入する際には人より先に入り、自ら倹約を行ない、将士を率いた。将士で金を借りている者に利息を払ってやった。際だって貧乏な者には元金も払ってやった。飢饉の年には倉を開いて人民を救い、救護所を設けて流浪の民を救った。彼が亡くなったとき、みな惜しんだ。

 その子時氏は泰時に先んじて没した。時氏の子の経時が執権になった。泰時は平素から学者を愛し、孫の経時に「政治には学問が必要で、武力ばかり用いてはならない」と教えた。経時は政治に長じ、祖父の泰時の風格があるといわれた。それで将軍職を継いだのである。

 元元二年(一二四四)将軍藤原(九条)頼経は職を子の頼嗣に譲った。頼嗣は六歳になったばかりであった。四年、北条経時が病気になった。執権を弟の時頼に譲り、没した。

ホームページ編集人  見延典子
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