「十旬花月帖」(頼杏坪著)全文を読みます。広島から京都への旅です。

石村良子代表が執筆しています。

2018・7・14

芳野花見1


 

芳野花見⒈

ふたたびはわけずともよし吉野山 花のさかりを思い出にして

    一目千本をいずる

ひとめひとめ幾度花をかえり見る 千本(ちもと)のさくら別れがたきに

   芳野山にありける一夜風あらく吹きけるあけの朝

   花の多く散りたるを見てよめるうた

風吹けばよはにや山をこえぬらん よし野にもたつ花のしらなみ

   襄がふたたび梅颸を奉じてここに来たりしを

あわれ汝がまた枝折(しおり)してたらちねの まだみぬ花をみよしのの山 柔

【前後春を尋ねん花既に(たけなわ)なり。今来(こんらい)暖雪人の顔を照らす。十年(わずか)に補ふ平生(へいぜい)(けつ)。母を奉じて重ねて遊ぶ芳野山。】

【花は東風(とうふう)を受けて到る處に飛ぶ。芳山萬樹正に芳菲(ほうひ)輿(こし)を卸して花底に杯酒を進むれば数片斑々(はんぱん)として来って(きたって)(ころも)(てん)ず。】

【輿に侍して坂を下る()遅々(ちち)たり。鶯語り(うぐいすかたり)(はな)香り(かおり)別離を含む。母は(すで)(しちじゅん)旬児()半百(はんひゃく)。此山重なりて到は定めて何の時ぞ。】   襄

畳々(じょうじょう)たる春山別に天有り。花開き花落ちて(おちて)(とこしえに)依然(いぜん)たり。羊腸険悪君(いか)るを()めよ()って()す南朝五十年。】

 第三句は初め可憐千樹香雲暖に作る。ある人疑う花賊を(ふせ)ぐべきかと。故に改む

                      襄又録

 

【満山の()(にく)嘔唖(おうあ①)(うち)。千里来り投ず七十翁。吟歩故幽所を尋ねて()けば。落花寂々古皇宮。

芳山深き處に荒墳あり。云ふ是南朝第一の君と。(ほう)輿()返らず無窮(むきゅう)の恨み。(まい)(りょう)す山花萬朶(ばんだ)の雲

 吉野山地図 ネットより
 吉野山地図 ネットより

2018・7・5

奈良、芳野花見Ⅱ

 

 ともすれば花とも人のおもほうず くものなかゆく みよしのの山

 御醍醐天皇の御陵を拝し奉りて

 芳野山深きうらみや埋むらん 大御ささぎの花のしら雲

 よし野山花にとめつるわが袖も ()はかときけばうちぬらしけり

 後醍醐天皇御陵          如意輪寺の裏山、塔の尾
 後醍醐天皇御陵          如意輪寺の裏山、塔の尾

萬人酔を買いて(ほう)(そう)に臥す。感慨誰か能く我と同じからん。(こん)(さい)す紅の飛びて北に向かう。延元(えんげん②)稜上落花の風。

又天意(いずく)んぞ能く逆徒を助け窮山(つい)に皇国を(ひら)くなし

南朝五十余年の事。輿して花王に付く 旧都を領せんは 】 


千祺 山をいずる日の歌に

玉くしげ二夜ねてだにみよしのの 花のかげこそたちうかりける

みすてては帰りがたきをなかなかに ちらんもよしやみよしのの花 

あすよりは花も昔となりぬらん 又来んことのあらじとおもえば

 

  1. 管弦のかまびすしい声

  2. 延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇

 

梅颸第二京遊日記

3月21日  名所めぐりの上 竹林院 芝山にて酒 重取り寄せ

 

2018・7・4

梅颸第二京遊日記

 

3月18日 吉野に向かう長池に泊まる

 

19日 きつ川を渡り柳本に泊まる

 

20日 三輪を回るさこやに泊まる

 

21日 名所めぐり千本へ行く

 

 


 田能村竹田画集のさくら
 田能村竹田画集のさくら

柳本といふにやどりて

芳野にはほど遠けんと柳もと 心は花にまづなびきけり

雨のふりける吉野山に入る

ぬれつつも花見にとてや(あめ)(あし①) しるべして入る(はいる)みよしのの山 

一目千本にて

仰ぎみればそらにもつずく花をなど ひとめ千本とだれかぎりけむ

よし野花

もろこしの芳野をおのが都にて 住むひのもとの花の大王(おおきみ)

よいよいの 枕の上の さくら花 夢かわちかく 

 みよしのの山

           孝□画賛

右下の写真

2018・7・2

奈良、芳野花見1

 

ならにて

古衣きならのみやこきて見れば 猶八重にこそ花はさきけれ

みればげに天の香久山畝傍山 あらそいたてる春霞かな

久かたのあまのかぐ山きて見れば 春は霞の衣ほしけり

 作者不詳の画賛 明治本にはなし 
 作者不詳の画賛 明治本にはなし 

  1. 本歌は「ひとたびもまだ見ぬ道にまどわぬは 雨のあしこそ指南(しるべ)なりけれ」広島県にある36歌仙の唯一の碑
  2. 碑所在地 東広島市高屋町杵原  壬生忠見 芸藩通誌
竹林の七賢人:石湾焼き
竹林の七賢人:石湾焼き

2018・6・23

嵐峡花見2

 

春蟾(しゅんせん)(はく)なく(えいか)華を吐く 閏歳山桜晩轉些(うたた少なし) 幾片の香雲夜峡に(あきら)かなり。十分の月色五分の花。

嵐山峡口の第三家(だいさんか①)三度()(こし)に侍して来って花を看る。花已に以前(もとのまま)

(つつが)なし。慈顔紅は(えい)ず幾株の霞。

小阮(③阮咸)(山陽)は詩を吟じ 大阮(阮籍)(杏坪)眠る。同じく(おなじく)(らいかい⑪)(そそ)いで  共に陶然。一瓢既に倒して春宵短く。花は山窓を(あっ)し月は天に在り。      襄謹録

芳野におもむくひよめる

()た心みやこの花に残し置きて 身はもろこしのよし野にぞゆく 

  1. 雪の家 月、雪、花とて三軒茶屋と呼ぶ也その雪てふ茶屋にやどる

(梅颸日記文政二年三月二十四日)    写真参照

  1. 文政二年、七年とこの度

  2. 竹林の七賢 阮咸と阮籍は甥と叔父

     

 


2018・6・17 嵐峡花見1

 

嵐峡花を看る(いずれ)の處か(よろし)からざるなし 山松深き處(こと)奇なるを覚ふ 誰か(しら)ん老硬の(そう)鬚子(しゅし①) (かえ)って紅姫の為に艶姿を(たす)く。

満峡の綺羅終日(かまびす)し千金惜しむべし春宵(しゅんしょう)(なげう②)つを。両岸花有り

人去り尽きて。(午後11時)更月に(ともな)いて(けいきょう)(わた)る。

簟箔(でんはく②)竹椽幾塲開く。山花多き處酒茶忙し。夜深くして遊人を断送(だんそう)せし後。独り嬌娥(きょうが④)使()て百床を領せしむ。来り問う山樊(さんはん)(すい)(ひん⑤)と。

(くも)()(みず⑥)若く(ごとく)去りて跡なく。只三花有り(きゅうしゅん⑦)(おなじゅう)うす。

右(はじめの)四絶句 杏坪

あらし山にて雪月()といへる亭にやとりけるに月のあかかりければ

月花のひかりはやがて雪なれば 三つを一夜に見るやどりかな

雪月花三つの扁題は(きゅう)(らく⑨)が書なりと聞きて

大井川花はあとなくなりるれど 三つの水茎今ものこれり

嵐山より帰る夜も月のいとおもしろかりければ

あらし山花を見すてて帰るさを 引とどめけるも月の影かな

太秦にて故事をおもい出でて

われもまた下うずまさにやぶれけり 花をとうとて野山あるけば

                        ただなご

おもいかね花にくらして宿かれば 月ぞさかりの嵐山かな

又やみん老いもさかりの嵐山 月と花との春のあけぼの 梅

 陪遊於嵐山三首

  1. 松の異名 自分の事にたとえる

  2. 春宵一刻価千金 蘇東坡の詩に本歌ある 放り出すのが惜しい

  3. 竹の莚

  4. 月の女神 月の異名 蓬莱の薬を服用しており、不老不死である。月の兎達の指導者

  5. 山の端と水際

  6. 似雲 1673~1753  浄土宗の僧和歌をよくす嵐山に庵す   広島人

    若水 16711729 入江若水 漢詩人 摂津富田人京西山に庵す

   風流な名の二人を詩意に掛け いれた

  1. 旧春 

  2. 雪の家 月、雪、花とて三軒茶屋と呼ぶ也その雪てふ茶屋にやどる

    (梅颸日記文政二年三月二十四日)写真は明治4年ごろ

  3. 亀田窮楽1690~1758書家

 

月花:嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」を保津川南岸から北に望む。明治4年頃長崎大学写真(上)治時代の嵐山渡月橋(左)

 


2018・6・7

十旬花月帖「嵐山花見」

 

京に入りて竹中文()の杏花園を()ひ賦して贈る

洛を(けん)するの医名久く已に()く。董林花裡に仙亭を問う。一株(うえ)ず君(いか)るを()めよ。半壁(はんぺき)詩を(とど)む病杏坪。


 

神仙伝に董奉(とうほう)、人のために病を医し(むくい)を求めずして只杏樹を種えしめた、董仙の杏林と云ふ、己の号杏坪なるにより思いをなす

高山仰慕する幾年来。(たちまち)喜ぶ春城(おなじ)く杯を()()ふ莫れ()(らん)の花(ひらく)くこと(おそ)しと。白桜亦是れ君を待って開く

清輝楼に集う杏坪先生に呈し奉る一粲(いっさん(賛)) 紀選(浦上春琴)

嵐山 花見くらして やどからば 月もさかりに 匂ひけるかな 杏坪

()着月                      (ひゃく)(こく)

 

一痕宵月(しゅん)(じん)に落つ。(すいしゃ④)(もた)る新柳の陰。(あつ)(みつ⑤)何ぞ妨げん()(ちく⑥)を絶つを。満堂の金玉(きんぎょく⑦)余音(よいん)有り。惟柔 呈諸子

鳴り物の禁も(ゆる)みて東山の花見にまかり長楽寺にてよみける

さかりなる 春をみやこの さくら花 さかゆ()少女(おとめ)

むれあそびつつ

嵐山の花見にまかりけるに正輔うじにはじめて逢い侍りければ

                    惟柔

世にたぐひ あらしのやまの花のもとに 又たくひなき人に

あひけり

  1. 竹中文助(竹中文輔 たけなかぶんすけ) 1766~1836 紀伊田辺の人。和田泰純に外科を,また池田独に天然痘の治療法をまなび,京都で開業して名声を博した

  2. 浦上春琴1779~1846年文人画家。浦上玉堂の長子

    画中では 琴字今が金になっている

  3. 小田海遷1785~1862は南画家。 通称良平、名は羸

  4. 水辺・水中に建てられた,四方が展望できるように柱だけで壁のない高殿

  5. (あつ)(みつ) 音曲の中止

  6. 琴と笛

  7. 詩文の美なるものを金玉の声ありと云う

  8. 栄える 咲き乱れる

     

付記 梅颸日記「第二京遊日記」

 

三月六日 清輝楼より呼び久太郎出かける 小石、春琴誘いに来る

  七日 夕方 山紫水明處にて酒宴、平塚瓢斎、笠山夫婦、天野俊平

     後より

   八日 長楽寺花見 かん桜盛り

  十日 御所、金山まで三千三つれ聖護院森に能見物おりえ、細香同行

     南翁 久太郎は錦小路 竹中文輔に招かれいく

   十三日 嵐山花見見分に 常太 謙蔵いく

   十五日 嵐山花見に行く、翁、余(梅颸)籠

   十六日 笠山、三千三、三五、大蔵、細香、甥、門人連れ、川那邊岱

       正輔 比禮雄 籐七夫婦、子供連れ  同行する

 

 

浄春寺門 義斎先妻浅川氏柳の墓がある。芭蕉の碑、田能村竹田の墓もある。
浄春寺門 義斎先妻浅川氏柳の墓がある。芭蕉の碑、田能村竹田の墓もある。

 

別来三十有餘年。忽ち翁の来るを聞て喜びて(てん②)せんと欲す。(たす)けて軽舟に上って春色を賞す。江花江柳共に欣然。舊を問へば()為る(なる③)は口に出すは()めよ。()(てつ)(りゅう)如く(ごとく④)能く酒を勤む。

明日三日又舟遊し。酔夢を裁せて皇州に入らん。 

      弼(篠崎 小竹)

2018・5・16

山陽の出迎え

 

先生浪華に到るの日に子成(しせい①) (てき)に京より来たり迎う,因て余に謀りて舟遊す 丁亥三月二日也

頼山陽の母方祖父母の墓
頼山陽の母方祖父母の墓

韵を次して賦して謝す

 

(こく)賜う(たまう⑤)こと十旬暮年を楽しむ。謝す汝が迎へて老いを(ねんごろに)(てん)(たす)くるを。良朋の旧好を(あたたむる)むる有り。津(摂津)上の風物(ふうぶつ)蕭然(しょうぜん⑥)たらず。

 

江魚の枕下(ちんか⑦)亦口に(かな)ふ。一椀已に酔う丹醸(たんじょう⑧)の酒。酒醒めて端無く昔遊を悲しむ。江山恙なし古皇州。

 

結末追憶(あん)道子(どうし)(きん⑨)諸亡友            柔(杏坪)

住吉のしおひにまかりて 

 

かすみつつ 潮干人こそ 散しけれ けふ住吉の あられ松原

 

  1. 頼山陽の(あざな)

  2. 正気を失う

  3. 舊を問へば,、、旧友が死んで居らぬと云うな

  4. 才のすぐれたること

  5. 休暇をいただく

  6. 蕭然(しょうぜん)  もの淋しい

  7. 魚脳中の骨を枕といふ、又身を丁といふ。

  8. 伊丹

  9. 篠崎三島 葛子琴

 

 

梅颸日記「第二京遊日記」

 

  1. 3月3日住吉参詣 霰松原の碑 住吉舟遊

 

住吉は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。

 

  1. 34日龍渕寺 浄春寺に墓参 四天王寺参詣

  2. 35日伏見稲荷に参拝

    三本木に到着 支峰(5)三樹(3)初見

    劉淵寺の飯岡義斎の墓(梅颸の父

 

 

 

 

 

頼杏坪が書いた「十旬花月帖」(上)

備後神辺にある廉塾ならびに菅茶山旧宅(右)右写真提供/広島フオト歩き

2018・5・11

神辺に到着

 

神辺に到着

梅颸、杏坪、三千三(13才)、頼常太(立斎),太蔵,久蔵(二僕)

宮原節庵(尾道より同行)


頼千祺先() 梅夫人(   ②)て北上す 此れをして

送り奉る

 

たちかぬる 身をこそなれし 旅衣 こころはおなじ 

はなにあれども

はるかぜを まかせていへる 旅衣 うらやましくも 

みゆる袖かな 

うちつれて はなにといそぐ 旅衣 立ち返る日を 

まつぞわびしき

花をみに こころにけふぞ おもい出ぬる 旅衣 さくらが

もとに 二夜いねして

旅衣四章 三章は章五句 一章は六句    晋帥

 

茶山先生を訪ふ

駅門馬を(くだ)れば(すで)斜暉(しゃき③)。認め得たり(すい)楊樹(ようじゅ)()の扉。一見して先ず(よろこぶ)ぶ叟の(つつが)なきを。生顔鶴髪白衫(はくせん)(え④)

先生今年八十此れを賦して寿を為す

人生七十古来稀なり。況や復た八旬(たくみ)に詞を為す。朝堂(ちょうどう⑤)(ほしいまま)に杖を()くを(うらや)まず。天下に横行(おうこう)す五千の詩。      柔

遠く春事を尋ねて皇幾にいる、妙思名花麗奇を闘わす。芳野山中千嶺の雪。(けい)(ぬ⑤)(たん)(じょう⑥)一嚢の詩。

千祺先生北上するに賦して呈す    晋帥

  1. 頼杏坪 この時72才

  2. 頼静 山陽の母68才

  3. 夕景の事

  4. 単衣の着物

  5. 礼記には八十は朝に杖をつくとあり

  6. 下僕

  7. 荷物

 

2018・4・29 十旬花月帖 出発

 

春草

(ぎん)()(あん)出でざること十余年。始めて向かう五幾煙水の間。 孤客京城花満つの日。 (こうべ)(めぐ)らし(かえ)って望まん故郷の山。

春曦楼(しゅんきろう)観午上人 菖野諸氏に(りゅう)(べつ)

(わかち)て山字を得たり。

京洛の東風二三月。鶯花海裡(おうかかいり)に身を投ぜんと欲す。人情の忍び難きを

(かるがる)しく(なげう)ち去る。数畝の家園数樹の春。

(まさ)に門を(いで)んと二十八字を留む。         杏坪  柔印

 

吾宿の 花やうらみん 旅ころも みやこの春に けふいでたつを

いでつつも 身をわけばやと おもうかな やどのはなにも

心のこりて

ことの花 匂いにこめて かえりませ 難波わたりの 

春のはる()を                  八千頴   

けふよりも こころは花に なりにけり 都の春に 思いたつ身は

さくら色に 袖をそめてや かえらまし 花に旅たつ 春の衣手

                        柔

  1. 春のはるへ   春の頃、春先

 

 神戸楠公墓所(湊川神社)
 神戸楠公墓所(湊川神社)

出立前の文政10年2月10日山陽から杏坪への手紙「大阪着までの船中用意の銀銭のみでよろしく….」後は自分持ちで、春水の19日忌祭済み次第乗船するようにと 待ちかねる様子書き送っている

 生田社拝殿
 生田社拝殿

2018・4・3

十旬花月帖➁

 

梅颸68才杏坪72才

山陽48才茶山80才

木米61才竹洞53才

 

竹田51才春琴50才海屋51才景樹58才小竹47才百谷44

 湊川神社拝殿(墓地にある楠公社)
 湊川神社拝殿(墓地にある楠公社)

2月19日  

春水の忌祭追え夜4つ(午後10時)乗船

20日  夜 竹原着 

21日祖先の墓参

22日  尾道上陸

23日  神辺 宿


3月1日  楠公社 生田社 巡拝 西宮、尼崎、たそがれ頃

        中之島広島藩蔵屋敷に着く

      山陽出迎える

   2日  小竹 梅颸、杏坪一行招き舟遊

   3日  後藤松陰、広瀬竹梁らと船で住吉に

   4日  淀川を遡り 

  5日  4つごろ伏見に着き 駕籠で三本木水西荘に着く

 

 

「頼先生游記帖」は頼杏坪が広島を2月19日に発ち京阪・吉野・有馬温泉などを巡り、5月22日に帰着するまでの間、詩画帖を携えて行き、自身漢詩や和歌を書き記し、諸家の揮毫を受けた記録書である。

2018・3・31

十旬花月帖①文政十年北遊記

 

古文書教室では4月より「頼先生游記帖」を勉強する。 読み下し本はないという事なので 順次こちらで紹介していきたいと思う。


参考本は坂本箕山「頼山陽」 序文は、頼元緒古梅先生、肩書に頼山陽曾孫、広島陸軍幼年学校教官とある。また一人は大隈重信、肩書は前内閣総理大臣侯爵。昭和はじめごろの頼山陽の立ち位置がうかがわれる

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