2024・5・22 

山根兼昭さん

「原稿用紙考」その②

   -木版印刷についてー

 

木版印刷は古くは1200年昔、仏教経典を印刷したともいわれておりますが、商業的に活用されるようになったのは江戸時代後期からです。

「日本外史の原稿用紙」(複品)

 東京王子「紙の博物館」所蔵


現在も京都で営業している「竹笹堂」は、江戸時代から続いた竹中木版が明治24年(1891年)独立した木版専業の会社であります。

この度、日本外史の木版印刷について確認いたしました。

 

1,木版印刷は、版木となる板(主に硬い木質の山桜の木)に、ノリを塗り原稿の表側を板に張る。

2,ノリが乾いたら和紙の原稿用紙の12枚を剝がし、1枚目の薄い部分を板に残す。

3,版木には、和紙の原稿用紙の1枚目の薄い部分が残る。

4,原稿用紙の裏側の逆になっている文字を、ミリ単位の彫刻刀で文字を彫る。

5,彫り終えたら、残った原稿用紙を洗い流して版木完成。

 

「日本外史の原稿用紙」も和紙で、楮を原料にしてすく時、3回抄けば紙は3層になっているわけです。

そのうち1層部分を版木に残し、2層部分を剥がせば、原稿用紙に書いた文字も鮮明に見えるわけです。

 

そもそも15世紀にドイツのグーテンベルクが発明した活版印刷もいち早く伝わった国は中国です。

それは印刷に使える良質の紙があったからです。

日本には、和紙があったので、木版印刷が発展し、浮世絵などもその一例です。それで活版印刷が行われるようになったのは明治の中頃以降です。

 

頼山陽が日本外史を書くために使った原稿用紙が、印刷に活用された。印刷を行うためには原稿用紙は不可欠なものになった。

 

明治以降の著名な作家たちも、東京、神楽坂の相馬屋、浅草の満寿屋など老舗の原稿紙屋に特製の原稿用紙を注文し、

夫々名作を発表しております。そしていつしか現在のルビの在る原稿用紙が一般化されたのです。完

                          山根兼昭

追伸、満寿屋5代目、相馬屋11代目、竹笹堂店主には大変お世話になりました。有難うございました。御礼申し上げます。

 

2024・5・21 山根兼昭さん「原稿用紙考」 ⇒ 見延典子

 

見延典子さんへ

ご照会の件

1  木版を作るのに、物理的に考えて、これ以外の方法は考えられないと思います。小生も推測でそう表現しました。

2 B5版、A5版という表現は、慶大、池田弥三郎教授「日本外史」の解読

   書の解説文か ら引用しました。和紙の大きさを現代風に表現したのだ

   と思います。

             松尾靖秋著「200年前の原稿用紙が面白い」
松尾靖秋著「200年前の原稿用紙が面白い」

「原稿用紙」考

先日「紙の博物館」へ行ったり時、図書室にある資料の中に雑誌「サライ」の記事で松尾靖秋著「200年前の原稿用紙が面白い」を紹介されました。松尾氏は工学院大学名誉教授で「原稿用紙」の研究もされいるようです。

曰く「日本のルーツは、印刷、出版業が成り立つ江戸後期に、字数を計算する必要から考案されたものでしょう。

現在の原稿用紙の原型は、頼山陽が「日本外史」執筆のため作ったものに見られるという。

但しこれはルビ罫が2本ある。「罫」という字は、「畦」とも書き、その形が田圃の「あぜ」に似ている名称という。

現存する最も古い原稿用紙と言われているのは、「日本外史」の少し前、藤原貞幹が描いた「好古日録」なんです。

「日本外史」が一行22字なのに、「好古日録」20字で20行、400字詰めでした。以上。

                                                                     山根兼昭

 

「日本外史の原稿用紙」(複製品)・東京王子「紙の博物館」所蔵

2024・5・20

見延典子「確認したいこと、2点」

       ⇒ 山根兼昭さん

山根兼昭さん

 頼山陽の原稿用紙の写真をお送りくださり、誠にありがとうございます。おかげ様で、アクセスしてくださる皆さまにご紹介することができました。心より御礼申しあげます。


 ところで確認です。

 

1 送ってくださった「頼山陽の原稿用紙の写真」は正確には木版印刷のために裏返しに張る紙ということでよろしいでしょうか?

 

2 5月18日の説明文では「B5版」「A5版」などが出てきます。ただ、A版は20世紀に入ってドイツでつくられ、B版は江戸時代の美濃判に近いものの、明治に入ってイギリスから入ってきたサイズがもとになっているようです。以上を踏まえ、山根さんがお書きになっている「B5版」「A5版」は、それらに近いサイズと理解してよろしいでしょうか?

 

                           見延典子

2024・5・18 山根兼昭さん「原稿用紙と日本外史の出版」

 

頼山陽は「日本外史」を1826年に脱稿しますが、初出版は天保7年(1836年)の拙修斎叢書の和装大本(B5版)サイズの木活字版でありました。日本外史が爆発的な人気を呼んだのは、1844年川越藩の「校刻日本外史」の発行でありました。その4年後、京都と広島で「頼氏正本」が出版されますが、いずれもB5版サイズ木活字版でした。

元治紀元(1864年)日本外史新刻 頼氏蔵板は、木版印刷の和装中本(A5版)で、持ち運びに便利な小型サイズであり、幕末の志士たちが、好んで持ち歩いたと思われます。

 

木活字印刷と木版印刷

1,木活字印刷は、文章をブロックに分け、ブロックごとに版木を作り、それを組み合わせて1頁の版木とする。次ページ以降に使えるブロックがあれば利用するので、1回の印刷枚数には限度がある。

2,木版印刷は、版下の紙(原稿用紙)を裏返して版木に張り、その逆文字を彫刻して印刷用の版木を作る。一度版木を作れば大量に印刷できる。

 

日本外史の原稿用紙

頼山陽は、日本外史を書く時、読みやすい内容にすることを心掛けました。しかし脱稿後すぐには製本せず、亡くなる前に、弟子の江木鰐水、関藤藤蔭を呼んで日本外史は20年後に出すように指示したのであります。

その後、川越板、頼氏蔵板が出ますが、B5版サイズと大きいので、1864年(明治維新1868年)、新刻頼氏蔵板を日本外史、頼氏蔵板。二十二巻 全六冊 和装中本(A5版)として出版しました。(写真ご参考)

 

「日本外史の原稿用紙」はA4サイズで半分に折るとA5サイズになるので、新刻頼氏蔵板の版下として作成され、使用されたと推測することが妥当と考えます。

 「日本外史の原稿用紙」(複製品)・東京王子「紙の博物館」所蔵

2024・5・17 山根兼昭さん「日本最古の原稿用紙か」

 

5月2日友人より「頼山陽のことが描いてある」と言って1冊の本(徳岡孝夫著『薄明の淵に落ちて』1991年発行)を渡されました。

曰く「浅草の原稿用紙店満寿屋・店主 川口ヒロさんは、自分の仕事の源流をたどって、昔の原稿用紙も調べた。東京・王子の「紙の博物館」で見つけたのは、頼山陽の「日本外史」の原稿用紙だった。楮を手すき和紙に、朱色の罫で22字詰め20行。山陽の原稿用紙が変わっているのは、マス目の両側にルビ欄がある事。これは漢文の性格から本文の右側に送り仮名、左側に返り読み記号を付けるから、こうなったらしい。」

 

早速「紙の博物館」へ電話をして、閲覧と写真撮影の申請をし、512日許可をいただきました。川口ヒロさんの説明の通り、楮の手すき和紙に朱色の罫で、大きさはA4版程度であることを確認いたしました。

 「日本外史の原稿用紙」(複製品)・東京王子「紙の博物館」所蔵

 

2024・5・14

山根兼昭さん「頼山陽の原稿用紙の写真、凄いものが出てきました」

           ⇔ 見延典子「許可が下りましたら、紹介します」

 

紙の博物館で「日本外史の原稿用紙」の写真を撮りました。

正しくは「日本外史の原稿用紙」の複製品で、A4サイズ程度の和紙製です。凄いものが出てきました。

ホームページで紹介するため、紙の博物館へ申請しています。

 

 山根兼昭さんへ

 ありがとうございます。これまで紹介されていない貴重な資料ですね。

 紙の資料館から許可が下りましたら、ご連絡をお願いいたします。

 ホームページでご紹介し、皆さんに見ていただきます。

                        見延典子

 

2024・4・27 久保寺辰彦さん「的場復斎について調べました」

                          ⇒ 見延典子

見延典子様

 

原稿用紙のことから的場復斎のことを調べ始めました。

ネットではほとんど情報を得られませんでしたが、国立国会図書館のデジタルコレクションで少し見つけることができました。

 

黒岩一郎著「香川景樹の研究」1957年や井上通泰著「南天荘雑筆」1930年によれば、的場復斎は名を健といい、備中早島(倉敷)の儒者、医者であり、香川景樹の妻、包子の妹が的場の妻のようです。天保651963歳没ということで、山陽より9歳も年上だったのは意外でした。香川景樹の門人というので、山陽より年下だと思っていました。 

左「頼山陽書簡集下巻」    

中「南天荘雑筆」   右 原文(南天荘雑筆より)


また、「南天荘雑筆」の中に、先日引用した山陽の手紙の釈文がありました。これが添付画像のとおり、山陽書簡集で「京儒に、外に」となっている部分が「京儒之外に」となっていました。これだと大分意味が違ってきます。前者の書簡集ならば、京の儒者でもこれほど書ける人はいないという最大限の褒め言葉になりますが、後者の方だと京の儒者並みという意味になってしまいます。

 

そこで、原文はないかと探すと、同じ「南天荘雑筆」にありました。画像の通り、「京儒ニ外ニ」となっています。書簡集が正しく、京の儒者より

よくかけていると褒めています。

 

その他にも先日送った原稿用紙の文が掲載されていましたが、「最楽軒」についてはまだ調べ中です。またなにかわかりましたらご連絡致します。

                          

                           久保寺辰彦

 

2024・4・25 見延典子「よろしくお願いします」 ⇒ 山根兼昭さん

                           見延典子「的場復斎の原稿用紙?」 ⇒ 久保寺辰彦さん

山根兼昭さん

 写真をよろしくお願い致します。ホームページに掲載できる許可が下りればいいのですが。

                         見延典子

久保寺辰彦さん

「頼山陽書簡集」を確認しました。寄せられた写真の原稿用紙は的場復斎(原稿用紙にある「最楽軒」は復斎ゆかり?)の原稿用紙で、それに山陽が朱を入れたのではないでしょうか。そうであっても、山陽が生きた時代に、オリジナルの原稿用紙をつくる趣味人がいたことがわかります。

                         見延典子

 

2024・4・24 久保寺辰彦さん「頼山陽、朱書き入り原稿用紙」

                   ⇒ 山根兼昭様 見延典子

山根様、見延様へ

 

 画像の原稿用紙は天保元年3月、山陽51歳の時に香川景樹へ送ったものだと思われます。ただ、文は香川景樹の門人である的場復斎が書いたもので、朱書きの方が山陽の書いたものです。ご参考までに送ります。縦字数は20字で統一されているようです。

 

これは、山陽が景樹のために作った「土佐日記新解序」に対して門人である復斎がこの批判文を送り、それに対して山陽が朱書きで答えているもの

だと思います。

 

詳しくは「頼山陽書簡集 下巻」279ページを参照して下さい。

面白いのは、この原稿に添えた、景樹への手紙に批判した復斎に対して

「何分小言を申され候処の文、甚だおもしろく、京儒に、外におそらく是程に書け候人はあるまじく候」と批判を喜んで褒めているところです。山陽の大きさを改めて感じました。

                         久保寺辰彦

2024・4・23

山根兼昭さん「紙の博物館に利用申請を準備」⇒ 見延典子

 

見延典子さん

色々貴重な情報、ありがとうございます。せっかく乗り掛かった舟なので、もう少し追求してみたいと思っております

  紙の博物館 東京都北区のHPより


今「紙の博物館」宛てに、「収納資料利用申請書」を準備しております。「頼山陽ネットワーク」の関係記事をつけて申請すれば、「日本外史の原稿用紙」の現物を確認出来そうです。

 

縁者が東京に居り、写真も本格的にやっているので、写真を撮ってきてもらう予定です。閲覧日時に双方のスケジュールの調整が必要ですので、一カ月以内に実現したいと思っております。

                               山根兼昭

 

2024・4・22

見延典子「頼山陽直筆『日本外史』の原稿」 ⇒ 山根兼昭さん 

 

 左は安藤英男著『頼山陽日本外史』(昭和57)の口絵に載っている「頼山陽直筆『日本外史』の原稿」(京都頼家所蔵)です。

 中央に「日本外史」とあり、片側は9行。文字数は17字~19字くらいで、まちまちです。ご参考になさってください。

        


2024・4・18 見延典子「川越版『校刻日本外史』の版木用?」 

                        ⇒ 山根兼昭さん

山根兼昭様

 

「紙の博物館」にお問い合わせ下さり、ありがとうございます。

「原稿用紙を最初に使ったのは頼山陽」という話は以前聞いたことがあり、少々調べたことがありますが、よくわかりませんでした。

 今回、山根さんからの情報提供で、改めてネット検索したところ、日本出版学会の会報(2015年)に三村泰一さん(当時の肩書き 東北大学大学院情報科学研究科博士課程後期)という方が「紙の博物館」に所蔵されている頼山陽の原稿用紙を見たとして、次にように書かれています。

 

「 川越版『校刻日本外史』は,22字詰めで表裏各10行であり,紙の博物館の「原稿用紙」に字数・行数が一致する。すると,これは板本を作成するさいに使われたものと考えられないだろうか。(略)

 板下の紙は板木に貼り付けられ彫られてしまうので,使用後は残らない。これは,『日本外史』の板下を作った時,その板下の書式を一定にするために作られた板木がたまたま残り,それで刷られたものの可能性が高い。そうだとすれば,今日の意味での原稿用紙ではないが,江戸の整版印刷の歴史を考えるうえでの貴重な史料といえる。また,本資料のような用紙の形式が,後世の原稿用紙に影響を与えた可能性も考えておく必要があると思われる。」

 

 このあたりが真相のように思われます。

                        見延典子

2024・4・17

山根兼昭さん『山陽の原稿用紙」 ⇒ 見延典子

 

「楮を手すきした和紙に、朱色の罫線二十二詰め、二十行の原稿用紙」につきまして、416東京王子の「紙の博物館」に照会致しました。

 

学芸員曰く「確かに和紙にマス目の罫線があり、余白に「日本外史」と書かれている。しかし中は白紙である。」現物は収納されていて手元にはなく、写真等もないので送れない。

 

浅草、満寿屋紙店のブログ。現存する最古の原稿用紙は藤原貞幹作(1797年)好古目録の草稿である『日本外史』の専用原稿は少し後であるが、マス目の用紙で朱色の罫紙である。

 

満寿屋店主曰く「自分の仕事の源流をたどって、昔の原稿用紙も調べた。紙の博物館で見つけたのは、頼山陽が『日本外史』をこの原稿用紙に書き上げたことだった。

 

山陽の原稿用紙が変わっているのは、マス目の両側にルビ欄がある事。これは漢文の性格から、本文の左側に返り読み記号、右側に送り仮名をつけるからこうなったらしい。以上。

                                                  

2024・4・15

見延典子「山陽の原稿用紙」 ⇒ 山根兼昭さん

 

 文中にある楮を手すきにした和紙に、朱色の罫で22文字詰め20行」「マス目の両側にルビ欄」があるという「頼山陽の原稿用紙」の写真をぜひ送ってください。よろしくお願い致します。

                        見延典子

 

      和紙の原稿用紙
      和紙の原稿用紙

 楮を手すきにした和紙に、朱色の罫で22文字詰め20行。この用紙に山陽は、全22巻の野心作「日本外史」を書き上げたのである。

 

山陽の原稿用紙が変わっているのは、マス目の両側にルビ欄がある事。これは漢文の性格から、本文の左側に返り読み記号、右側に送り仮名をつけるからこうなったらしい。このマス目模様の原稿用紙は、山陽が「日本外史」を記したものが日本最古である。

 

江戸時代以前は、縦線のみを刷った罫紙であったが、山陽が上記の書式を注文したと思われる。

2024・4・14 

山根兼昭さん

「マス目模様の原稿用紙は、頼山陽『『日本外史』が最古」

 

 ある原稿用紙店の人が、昔の原稿用紙を調べた。東京・王子紙の博物館で見つけたのは、頼山陽の「日本外史」の原稿用紙だった。

       日本外史原稿
       日本外史原稿

 

また紙は和紙であったが、山陽は美濃遊歴により美濃和紙の優れた紙質を知っており使ったと思われる。

 

このような歴史を経て後、原稿用紙店が書式を工夫して、此のルビ欄をつけた原稿用紙が現在の主流になったのであります。

 

また、日本外史の原稿用紙の研究は、頼山陽史跡資料館の花本哲志先生がされておられると聞きました。

 

2024・3・13  

久保寺辰彦さん「小林よしのり氏の公式ページで頼山陽」

 

漫画家の小林よしのり氏の公式ページで頼山陽のことを書いた投稿が掲載されたので紹介します。

 

人を動かし、時代を作る本 | ゴー宣DOJO (gosen-dojo.com)

 

小林氏は以前にもコロナ論の紹介で書きましたが、個人的には頼山陽に似ていると思います。

 

     頼山陽史跡資料館所蔵
     頼山陽史跡資料館所蔵

2024・2・15 赤松昇さん

「『私の易の学び方』のホームページを立ち上げました」

 

 昨年の10月より、正しい『易経』を知っていただく為に『私の易の学び方』のホームページを立ち上げました。易と歴史の項目に頼山陽の記事も掲載しております。


 また、昨年の12月に頼山陽史跡資料館様にご協力をいただいて「頼家に伝わる占筮用具」の取材をさせていただき、ホームページに掲載しております。皆様にご高覧いただければ幸いです。

 

ホームページトップ

 

「頼家に伝わる占筮用具」(歴史>易と歴史>頼家の占筮道具)

 

 掲載する内容が多く、日々学びながら掲載を継続しております。

よろしくお願い致します。

             

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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