投稿者名のない場合は見延典子が書いています。
2024・7・25
久保寺辰彦さん ⇔ 見延典子
「(場所)+(邂逅)+(誰に)という語順の例」
見延様
為書きについて、ご教示頂きありがとうございました。勉強になります。確かに2行目の「快臺翁録近作贈之」を一つの文と考えると快臺翁が書いた近作を贈ったと言う意味になると思います。
しかし、私は快臺翁で一度文が切れると考えています。つまり、場所である「麑洲旅舎」が先に来て、次に「邂逅」そして出会った相手「快臺翁」というものが一つのまとまった文だと思いました。漢文に関する素養がないので間違っているかもしれません。
「頼山陽全書」の前回の「幾彎」が掲載されている次のページに「邂逅」を使っている文があったので送ります。
これを見ると、(場所)+(邂逅)+(誰に)という語順になっています。「場所」が文の先頭ではなく、終わりに来る場合には見延さんが書かれた通り、「場所」の前に「於」という文字が来るのだと思います。
久保寺
久保寺辰彦様
久保寺さんのご所蔵品に失礼なことを申しあげました。ご自身が納得されているなら、これ以上申しあげることはございません。ありがとうございました。
見延典子
2024・7・23
久保寺辰彦さん ⇔ 見延典子
「快台について、わかったことをお知らせします」
見延様
快台についてわかったことをお知らせします。『名古屋市史[第7巻](人物編第2)』1980.4出版に掲載されているのが一番詳しいようです。
「太一庵快臺」という人物名で掲載されていますが、「其姓氏詳らかならず」とあり生前、誰にも名前や出
身を語らなかったようです。俳諧師として全国を行脚し「常に酒を愛し、人の杯酌を薦むるあれば喜で辭せず」とあるので山陽とも気が合ったのかもしれません。嘉永元年8月21日、87歳で没すとあるので山陽より20歳近く年上であったようです。
肝心の山陽との接点ですが、『雅楽堂雞肋集巻1』杉浦三郎兵衛著 大正12年発行という本に快台の著書『西国行脚道之記』を紹介した文があります。それによると「此の書は著者が文化十四年八月七日大阪出帆下ノ関に到る道中記なれど本文は文化十五年弥生末長崎日見峠に筆を起し、日向諸縣郡に終れり、文中多く俳句を記す、」とあります。
なので、時期的には合います。この『西国行脚道之記』を読むことができれば、もしかしたら山陽との出会いを俳句に残している可能性もあると思います。
山陽の軸は、私が所蔵するものです。5~6年前から山陽の書簡を中心に収集していますが、書作品もいくつかあります。
真贋は別として、今回のように解読不明部分がありますが、それでもよければこのHPで紹介しますが、如何でしょうか。
久保寺
久保寺辰彦様
江戸時代の広島の俳人に「多賀庵風律」がいますが、名古屋の俳人「太一庵快臺」については資料もなく、これ以上はお手上げです。
今後、情報が寄せられれば掲載します。ただ、その他のご所蔵品は真贋不明とのことで、本ホームページでの紹介は控えます。
見延典子
送った画像は下の部分が「手」となっていますが、上の部分は山陽と同じ崩し方です。同じような使い方がないかと探してみると、九州遊歴に出発する文政元年広島を出発して3つ目の句に「幾彎」とありました。
2024・7・21
久保寺辰彦さん ⇔ 見延典子
「自分なりの結論に」
見延様
いつも掲載ありがとうございます。
不明な字について自分なりの結論に至りましたのでお知らせします。
まず、初めの文字は「彎」という字です。現代表記では「弯」また「湾」と書き換えられるようです。まがる、みだれると言う意味とのこと。
不明だった2つ目の文字は「舎」だと思います。こちらも画像を添付します。旅舎」(りょしゃ)旅館という意味です。
私は、文字を調べるのに東京大学史料編纂所の「電子くずし字字典データベース」をよく利用します。
しかし、今回はなかなか分からず見延さんからの返信がヒントとなり見つけることができました。ありがとうございます。次は、「快臺」という人物について調べてみようと思います。
久保寺
久保寺辰彦様
さすがです。山陽は踏み外しはしない、ということを肝に銘じます。「快臺」についてもわかったことがあればお知らせ下さい。
この御軸は久保寺さんのご所蔵ですか? 差し支えがなければお知らせください。
見延典子
見延様
不明な字のご意見ありがとうございます。
確かに「窮」という字にも見えますし、意味も通りそうに思います。私は「饔」かなとも思いましたが、どちらにしても問題があるように思います。漢詩に関する知識がないので間違っているかもしれません。
それは、この2つのいずれにしても韻を踏んでいないように思えるのです。『頼山陽全書』に掲載されている似た漢詩は「瀾」「間」「山」となっています。私が投稿したものは「□」「顔」「山」です。□は「〇ん」だと思うのですが如何でしょうか。
「旅〇」も「者」とのこと。確かに「旅者」とか「旅寓」だと意味はわかる気がします。「麑洲旅者、快臺翁と邂逅し、近作を録して之を贈る」とでも書き下せそうに思います。ただ、添付した拡大文字からは「者」や「寓」には見えないように思いますが如何でしょうか。
久保寺
2024・7・19 久保寺辰彦さん ⇔ 見延典子
「頼山陽が薩摩で詠んだ漢詩 & 未判読の漢字」
見延様
薩摩で読んだ漢詩について、似たものを『頼山陽全書』で見つけたので添付資料の通り、送ります。
久保寺
久保寺辰彦様
『頼山陽全書』は私も確認したのですが、見過ごしました。そこで坂本箕山『頼山陽』をややゆっくりめに確認したところ、ところどころ今回の漢詩に似ている文?に出会いました。
それを読むうち、「山脈南窮地・・・」にあたり、久保寺さんが判読できなかった最初の漢字は「窮」ではないかと思いました。また二つ目のご不明の漢字は「者」だと思います。「麑洲旅者邂逅」です。
間違いがあればご指摘下さい。
見延典子
2024・7・18
見延典子 ⇒ 久保寺辰彦さん
「薩摩で詠んだ漢詩」
坂本箕山『頼山陽』によれば、山陽が薩摩に滞在したのは1818年9月9日から10月初旬。その間に会ったと考えられるのは以下の通り
鮫島白鶴 名は元吉、字は黄裳、通称吉左衛門。書家。
伊地地季幹 赤崎海門の外甥。浪士。飛来山房の屋号で団扇を作る。
肥後芸谷 四条派の画家
五代五峰 名は秀尭。五代友厚の父
星山仙太郎 名は恭彦。読書習字を子に教える
河南源兵衛 商人 鹿児島野菜町に支店。中国の河南省出身。帰化人。
小田海僊 又は百谷 南画家(友人。同時期に九州遊歴)
上記でいえば、山陽の書を買ってくれそうなのは、河南源兵衛くらいでしょうか。阿久根での漢詩に「台湾」が入っているので「台翁」と結びつけてしまいますが、ムリがありすぎでしょうか。山陽にとって、中国(清)も台湾も一つ、というか、時代的に一つだったはず。しかし書に書き入れるなら、正式名でしょうかね? 当てずっぽうで書きました。何かわかったらご教示ください。
「鑿嶺通東路幾□、坡陀下視萬孱顔、一峰秀削如生鐡、説是麑城對峰山 麑洲旅□邂逅 快臺翁録近作贈之 山陽外史」
快台翁という人物は、太一庵快台という俳人なのか。確かに、長崎に遊歴した記録があるので、山陽と会った可能性もあるとは思いますが、これについてもご存知の方がいたらご教示下さい。
2024・7・16
久保寺辰彦さん
「薩摩で読んだ漢詩か」
1818年(文政元)九州遊歴中、薩摩に入った時の漢詩だと思いますが、わからないことが多々あり解説して頂けると助かります。自分なりに翻刻したものが以下です。間違っているところ、わからない文字、読み下しなどよろしくお願いします。
2024・6・27
大石鐵蔵さん(東京都)⇒久保寺辰彦さん(千葉県)
「久保寺さん、良く書写されています」
久保寺辰彦の投稿を拝読しました。私の様なものの投稿がこんなことになるなんて驚いてます。久保寺さんの筆が、暗い会場の中で本当に良く書写されてました。
2024・6・26
久保寺辰彦さん
「『竹石図』を見てきました」
頼山陽ネットワークの大石さんの投稿を見て、五島美術館「一味爽涼」展で展示されている頼山陽の書画を見てきました。
五島美術館 東急の元会長五島慶太が蒐集した美術品を収蔵。☎03-5777-8600
予想通り、館内はすべて写真撮影禁止でした。山陽の書画をしばらく見ていると、職員の方が「撮影はできませんが鉛筆でのメモ書きはできます」といってバインダーに挟んだコピー用紙と鉛筆を持ってきてくれました。せっかくなので雰囲気だけどもと思い、現場で書写したものを送ります。
瀟湘之雨 其聲颼飅 筆底招嵬 萬古千秋
家に帰って調べてみましたが、この詩は山陽の詩集には見当たりませんでした。四言詩のようですが、内容等わかる方がいたらご教示いただけると幸いです。書画は見た瞬間、本物だと直感致しました。
頼山陽筆「竹石図」大東急記念文庫蔵が出品されていました。説明文に「 瀟湘之雨其聲」とあり。本品は国史、国文学者の萩野由之の蔵品で書家の日下部鳴鶴の80才を祝いに出品された。賛があり。頼山陽がお酒に酔って書いたと記されている引首「友竹」お役に立てたか心配ですがひとまず連絡まで。
2024・6・23
大石鐵蔵さん(東京都)
⇔ 見延典子
近所の五島美術館(東京都世田谷区上野毛3-9-25)で、6月22日から「夏の優品展」が開催され会員なので行ってみました。
大石鐵蔵さんへ
情報をありがとうございます。五島美術館のホームページを見てみましたが、残念ながら頼山陽には辿りつけませんでした。
なた何かあれば、お知らせ下さい。
見延典子
2024・6・3 頼山陽像2体
あるサイトをのぞいたら、広島の彫刻家圓鍔勝三作の頼山陽像が掲載されていた。工芸品の頼山陽像も出ている。
一方、下は工芸品の頼山陽像。
圓鍔作の山陽像は、これまでにはない「耳の形」である。