2023・6・10 肥本英輔さん(鹿児島県在住)
「頼山陽の『前兵児謡』、元ネタは亀井南冥の「南游紀行」本文②最終回
十月二日 今朝帰国するつもりだったが、雨のため帰れなくなった。そこで主人の林泰が書を欲しいと紙を持ってきたので、筆を揮っている時のことだった。
時に十数人の少年たちが笛を吹きながら集まってきて門の庇の下で騒いでいる。「これは何ですか」と主人の林泰に聞くとこう答えた。「ここで言うところの兵児二才(へこにせ)が吹いているのです。楽器の名前は天吹といいます。洞簫(一節切)に似て短いが笛ではありません」と。そこで私は「兵児二才とは何ですか」と尋ねた。時有年少十数輩。吹笛嘯聚于門廡囂囂如。余怪問之。林泰対曰。此所謂兵子貮歳者所吹。器名曰天吹。似洞簫而短非笛也。余曰。兵子二歳。何為者。
「兵児は武家の子弟のことです。二才とは若者を称する言葉ですが、よくわかりません。たぶん外城の武士の子弟のことで、年齢は十五、六歳から二十歳くらいまでです。互いに誓いあって集団をつくり、もっぱら軍事訓練をしていて、その合間にはがやがや騒いで気ままに遊び、集まったり散ったりして定まった場所にいません。対曰。兵子者兵家子弟也。貮歳稱年少之辞。未知何謂。蓋外城兵家子弟。年十五六至弱冠左右。相誓樹黨。専以練兵為業。業之暇。噂沓遊遨。聚散無定處。
天吹を吹き、琵琶を鳴らして、昼夜なく騒ぎたてて遠慮するところもないのですが、もしいったん、命をかけて駆け付ける緊急事態となれば、約束を重んじて逃げることはしません」吹天吹鼓琵琶。無晝夜嗷嗷無所忌避。若夫傾命赴人急。重諾不回避。・・・・
「実は、このことについて書いてある文書が盟府(地頭仮屋の意か)の蔵にあります。今申し上げたことはその概略です」と。林泰の話はまだ終わらない。その時、兵児たちが急にその場を去ろうとしたので、私はあわてて筆を投げ出して彼らを注視した。鬢の毛は伸び放題で着物は一枚。尻をからげて長い刀を差している。顔つきはとても素朴で田舎くさい。有文書蔵在盟府。此其概略也。言未畢。兵子鳥散去所。余投筆出観之。突鬢単装。衣短後帯長劔。貌甚朴野。
ときに、声をそろえて歌い始めた。曰く、均聲歌曰。
肥後乃加藤加来奈羅波。烟硝肴仁團子會釋。
肥後の加藤が来るならば煙硝さかなに団子会釈(肥後の加藤清正
が攻めてくるならば、鉄砲の煙を肴がわりに弾丸で挨拶してやろ
う)
其天波以屋登云奈羅波。頸仁太刀遠引手物。
それではいやというならば首に太刀を引出物(それはイヤだとい
うならば、刀で首を落として引出物にしてあげよう)
私は彼らの歌を聴いた。確かに林泰の話は嘘ではなかったのだ。薩摩は南海の南にあり、領域も数千里四方と広い。人口も百万人以上。北に険しい山があり、南には海や島が広がる。加えて刀剣づくりも盛んで良馬を産する。まさに天下に対抗するものはない。余聴之。知林泰之不我誣也。夫薩國于南海之南。地方数十百里。衆百餘萬。北據天嶮。南控海島。加之鐵劔之利。産馬之良。天下莫能當也。
秀吉が九州征伐に来た頃、豊州に大友、肥州に加藤がおり、薩州の島津とあわせ、三者鼎立の状態であり、国境はたびたび緊張した。そこで山田民部有栄が出水、そして新納武蔵守忠元が大口の国境を守った。このため、北東から来た兵たちに大声で怒鳴らせたり驕らせたりしたが、この二つの拠点を窺う者(加藤勢)はあえて進撃しようとはしなかった。蓋自豊王征西也。豊有大友氏。肥有加藤氏。勢如鼎立。而彊場数駭。於是有山田明部當出水之衝。有新納武蔵守大口之塞。使東北兵虚喝驕矜不敢進闚両関者。
一つの方策をもって攻め落とせるとはとても思われないからだ。其方略豈一而足哉。(意味不明)
(注) 朝鮮出兵時および関ヶ原合戦後の加藤清正勢との肥薩国境での睨み合いの時期には、新納忠元は記述の通り大口を守っていたが、山田有栄は出征中のため不在で、出水地頭として着任したのは江戸時代初期。面高林泰が間違った説明をしたとは考えられないので、南溟の誤記と思われる。(補注参照)
おそらく兵児二才という若者たちは、このときに生まれたのだろう。そうでなければ、百年も誓いを守り、勇にして方(正)を知り、かつ外寇の際には勇躍して馳せ参じ、死なないことをひたすら恥とするという境地に彼らのみが至っているということはありえないだろう。兵子二歳。蓋始于此乎。不然誓約百年勇而知方。尚且距超踴躍。唯愧不死乎外冦者。何独至于如斯哉。
すでに知識桃園が使いをよこして「少し酒があるので先生と一緒に楽しみたい。それに今夜は卜で吉とでています。ぜひ来てほしい」という。そこで私をはじめ林泰、権左衛門、雲栢、周蔵みんなで出向いた。呑みだすと、どんちゃん騒ぎとなった。既桃園使人請余曰。僕有小酒。欲與先生合歓。且卜夜而吉。敢請見臨。余乃與林泰権左衛門雲栢周藏皆至。飲宴驩甚。
桃園や権左衛門など昔は皆、兵児二才だった。みんな侠気が胸にあふれてきて、もはや抑えきれなくなった。私は琵琶を取って権左衛門に渡すと彼はすぐに弾き始めた。桃園権左衛門本皆兵士貮歳。侠気淪肺腑者。所時乎發不可禦也。余取琵琶授権左衛門弾之。
桃園は琵琶に合わせて歌う。変徴(中国式の哀調)ではなく羽声(興奮した声調)である。 荊軻が燕の太子に頼まれて始皇帝を暗殺するために秦に入る時に歌ったとされる歌であり、その侠気を想うと胸を打つ。桃園和而歌。非変徴則羽声。荊卿入秦之侠可想。
(注)荊軻は出立に際してこの歌を初めは変徴で悲しく歌い、次は怒りのこもった羽声を張り上げた。準備が整わないままに太子にせかされて未熟者と同行することになり、無念の出立となったためだ。結局、荊軻はあと一歩のところで暗殺に失敗した。「風蕭蕭兮易水寒。壮士一去兮不復還」(風蕭々として易水寒し。壮士一たび去ってまた帰らず)『史記』刺客列伝。「詩吟 易水送別」参照
鶏の鳴く声で、弾くのをやめた(お開きとなった)。鶏鳴而罷弾。
十月三日
十月三日は遅く目が覚めた。伊藤宅で皆さんと餞の酒を頂いた。林泰は私を留めようとしてくだくだと話かけてくる。私の心はそれを知るが、目は摂して(?)周蔵は旅装を整えはじめた。支度が整い、いよいよお別れである。みんな麓を出て一緒に三四百歩ほど行くと、高柳橋がある。「橋に柳という名がついています。ここでお別れとしましょうか」林泰が言った。「いや、まだまだ」と、他の三人は同意しない。三日晏起。諸子飲餞于伊藤氏。林泰欲猶留余。設事絮話。余心知之目摂周藏辨装。装成辭別。皆送而出邑。行三四百歩。有高柳橋。林泰曰。橋以柳名。請自是辭。三子不聽。(注)「客舎青青柳色新」(王維の五言絶句「送元二使安西」):柳は別離の象徴。中国では送別の際に柳の枝を環にして渡した。高柳橋という名称から有名な王維の詩を連想したことがわかる。
そのまま送り、野間原関所に至って別れた。私と周蔵は彼らの親切に感動し、語り合った。肥薩の境界の標柱を過ぎて袋村に至る。私はそこでまた足痛を発症してしまい、収穫中の農夫に頼んで馬を借り、一里半先の水俣にたどり着いた。送到于野間原関。乃別。余與周藏感其親厚行且語。経肥薩分界之標。抵嚢邨。余足痛又發。呼農夫在穫者。買馬行一里半。到水俣。
(以下、略)
2023・6・8 肥本英輔さん(鹿児島県在住)
「頼山陽の『前兵児謡』、元ネタは亀井南冥の「南游紀行」本文①
手を後ろ手に組んで散歩する武士に出会った。その人についていき、伊藤氏のお宅はどこかと尋ねると、「私についてきなさい。伊藤さんは親戚で、我が家の隣です」という。遇一士人負手散歩。就問伊藤氏所。曰。尾我来。此僕親族。屋亦接隣。
「みなさんは筑紫の方ですね。姓は何々で、お名前は何々ですか。私は面高で名は林泰と申します。さっきの者は名を権左衛門いい、鹿児島から帰ってきています」と。公等得非筑人姓某名某乎。僕姓面高。名林泰。日者権左衛門。還自麑府。
続けて「御李の栄(お迎えできてうれしいの意か)」とか「権左衛門だけに鶏料理と酒で(先生を)歓迎させるわけにはいかない」などと盛んに持ち上げる。誘われるままに遂に林泰の家に行った。盛稱御李之栄。且約西轅過此也。殺雞醞酒以候之者。豈独権左衛門乎。遂誘至其家。
そこへ権左衛門がたまたまやってきた。私が面高家の座敷で話しているのを見てひどく驚いたようが、林泰が事情を説明すると、手を叩いて大喜びをし、自分の家に泊まるようにと強く誘った。権左衛門偶来。見我輩語于堂甚怪之。林泰以状告。撫掌大喜。欲邀宿于家。
(注)南冥は伊藤権左衛門とは鹿児島での宴席で二度ほど会っている。その際伊藤の識見を認め、出水郷士であることを聞いた。帰路出水に立ち寄れば、伊藤に会えると思ったのであろう。
私は疲れていたので断った。しばらく茶話をしてそのまま突っ伏して折り重なるように寝た。余以疲辞之。茶話数刻。相俯纍而寝。
十月朔日(安永四年九月は小の月のため二十九日まで)
この日は、南冥の来訪を聞きつけた医学生の池袋雲栢、知識桃園が名刺をもって病人を連れてやってきた。二人は上級の出水郷士で若い儒医と思われる。南冥はすでに高名な儒医でもあった。診断の様子は興味深いが、割愛する。
門人の一人が命じられて酒を注いで回る。私も雲栢もほか数人、皆酔ってきた。その頃、ちょうど芝居がかかっているというので、みんなが私に一緒に観に行こうという。夕方に終わったので帰ろうとすると、また脚が痛みだした。短い竹の杖をついてふらふらしながら大勢の人前を歩く。そのためか美人に笑われた。因命弟某行酒。余與雲栢数子皆酔。時邑有雑劇之観。数子要余往観之。及暮而帰。余以脚痛也。曳短筇。〇蹣還往乎広衆中。其為美人笑。豈徒罷癃之於平原氏哉。(最後の句は意味不明)
雲泊は私に酒を飲むように勧める。彼の家に行く。連れの四人も同じだ。宴の途中、田島雲中という者が一詩僧を連れてやってきた。
その僧は私の詩作を見たいといって、まず自分で筆を走らせた。次に、その発句に合わせて韻を踏んでいる。私もすでに一詩が頭に浮かんでいた。そこで書いて贈ったのだが、すぐに後悔した。雲栢請飲余酒。延至其家。一行四人皆従。宴半。田島雲中者延一詩僧至。僧請見余所業走筆。次韻。余已孕一詩。遂書贈。既而悔之。(末節は意味不明)
湘江北去楚顔寒 秋色今朝送我帰
(福岡に帰る私と同様に)中国の湘江は北に流れ、
南国(楚)の人の顔は憂いに満ちて寒々としている。
めっきり色づいた秋の風景は、今朝帰国する私を見送るだろう。
何惜為君停史筆 周南無地不名山
どうしてあなたのために史筆を停めることを惜しむでしょうか。
南九州をめぐる山々は名山でないものはないのだから。
解釈(みなさんはどなたも素晴らしい方たちなのですから、みなさんのために思いを込めて筆を
走らせますよ)の意か?
2023・6・7 肥本英輔さん(鹿児島県在住)
「頼山陽の『前兵児謡』、元ネタは亀井南冥の「南游紀行」解説②
「南游紀行」(安永四年、一七七五年)
出典:『亀井南冥・昭陽全集』第一巻(四七八頁~四八九頁)
『南游紀行』大阪大学総合図書館蔵 懐徳堂文庫デジタルCC4.0
*「南游紀行」は安永四年秋、福岡の著名な儒学者・亀井南冥が熊本、鹿児島を訪れたときの紀行文。漢文記述のためか、これまで注目されることは少なかった。しかし本紀行に記された出水麓の兵児二才(へこにせ)たちの異様な姿は、江戸期の文化人たちにとっては衝撃であり、その後に薩摩を訪れた頼山陽の詩作に大きな影響を与えたと、明治期の知識人は書いている。(西村天囚『肥薩見聞』、高野江基太郎『儒侠亀井南冥』)
また、出水三日間の滞在記は、当時の出水郷士たちの教養の高さや文化的な日常を生き生きと伝えている。
以下、筆者が試みた現代語への翻訳文(赤字)を掲載する。
主な登場人物
亀井南冥(本人)当時三十二歳 門弟の周蔵とともに出水麓を訪れる
面高林泰(林左衛門)俊房 当時二十六歳 もとは伊藤家分家の三男で
面高家に養子入り
伊藤権左衛門祐雪 当時二十三歳 伊藤家本家に他家より養子入り
*年齢、プロフィールは出水麓軍役高帳、出水諸家系譜集などより推定
八月下旬 熊本、水俣を経て小川内関を越えて大口に至り、九月一日に鹿児島入り。滞在中、開設したばかりの藩校、学舎を訪ねたほか、鹿児島の文人との交流。
九月二十七日 鹿児島を出立、伊集院で朝鮮陶工集落を訪ね、湊に泊。
九月二十八日 向田、高城を経て西方に泊。
九月二十九日 朝、西方を発ち、阿久根、野田、高尾野を経て出水に到着(夕刻か)
2023・6・6 肥本英輔さん(鹿児島県在住)
「頼山陽の『前兵児謡』、元ネタは亀井南冥の「南游紀行」①解説
最近、頼山陽の『前兵児謡』は添付の資料のように亀井南冥の「南游紀行」を元ネタとしたのでは、と考え
るようになりました。
なお、明治の知識人・西村天囚も「大阪朝日新聞」で、山陽は亀井昭陽に会って「南游紀行」を借覧。それを読み、薩摩に乗り込んだら、あまりに都会風に堕落していたのでがっかりし、「後兵児謡」ができたのだろうと書いています。(明治41年7月14日「肥薩見聞」)
肥本さん訳の亀井南冥「南游紀行」を掲載(連載)する前に、同じく肥本さんによる解説をする(見延)
亀井南冥(1743~1814]江戸後期の儒学者・医師。筑前の人)について
亀井南冥は福岡に戻り、藩侯の信任を得て仕官、大いに出世する。十年後には福岡藩の藩校「甘棠館」の初代学頭に就任。志賀島の金印調査でも功をあげる。朱子学を批判した荻生徂徠の有力な後継者として、福岡のみでなく西日本全域で名声を博した気鋭の学者だったが、寛政異学の禁により、また当時主流であった朱子学一派の策謀、藩財政の悪化などの複合的な要因により、福岡藩から追放される。それでも私塾・亀井塾を主宰し、広瀬淡窓はじめ多くの人材を輩出した儒傑である。最期は自宅の失火の際、火中に飛び込み、非業の死を遂げる
『南游紀行』が書かれた背景には、当時、各藩において学堂設立ブームが起きたことがある。福岡藩でも先行事例の調査が始まり、若き南冥に熊本・時習館、鹿児島・造士館の探索が託された模様であり、南溟は現地見学などを行っている。その際の前後の見聞を旅行記にまとめたものが本書であろう。漢文体のため全体に高踏的な印象は否めないが、内容は南冥の豪快な性格が素直に表現された洒脱な紀行文となっている。今回現代語訳を試みたのはその一部であるが、西村天囚(朝日新聞天声人語の創始者)も認めるように、十月二日の「兵児二才」(へこにせ)の描写は薩摩の強力な軍事力の核心に迫ったものであり、歴史的(少なくとも地方史的)な文献としての価値は高いように思われる。
『南游紀行』が書かれた四十三年後の文政元年(一八一八)頼山陽は九州を歴訪、詩作の旅をしたが、その際、火中に憤死した南冥の子息・昭陽を福岡に訪ねている。二人は頼春水の長子、南冥の長子という立場で古くから面識があった。したがって山陽が薩摩入国にあたって『南游紀行』を見た可能性は非常に高い。山陽の『前兵児謡』『後兵児謡』は今日でも有名だが、その元ネタが十月二日の「兵児二才」の記述ではないかとの推測も十分に可能と考えている。
なお、荻生徂徠が『政談』で力説した「武士社会の再建のためには武士の帰農が不可欠であり、奢侈に流れる都市生活が徳川政権弱体化の根本原因である」といった視点は、亀井南冥にも継承されていたはずであり、大げさに言えば南冥は、たまたま投宿した出水郷の郷士の日常に、徂徠の理想が具現しているとの感銘を受けたのかもしれない確かにその百年後、薩摩は徳川政権を見事に葬り去ったのだ。
(補注)朝日新聞の重鎮・西村天囚が書いた『肥薩見聞』(『大阪朝日新聞』一九〇八年七月十四日)によると、兵児二才が生まれた背景には「朝鮮出兵」があったという。夫の出征が長引く間に夫人たちの素行に問題が生じたため、間違いが起きにくくするために、新納忠元らが不出征の若い兵児などに非常に汚い格好をさせて戦意高揚に努めさせ、盛んに衆道を奨励したことが兵児二才の起源だとしている。