特に記載のない場合は見延典子が書いています。

2022・11・27

広島県海田町①

頼聿庵の屏風など

 

 広島県安芸郡海田町にある旧千葉家住宅で『広島藩ゆかりの美術展」として、頼聿庵の屏風などの展示があるというので行ってきた。

西国街道沿いの町並み(海田町)
西国街道沿いの町並み(海田町)

 海田は、西国街道沿いの宿場町の一つ。地元のボランテイアガイドの案内で、町歩きを楽しむ。

 千葉家は中世前期に房総で勢力を誇った千葉氏一族を先祖とし、大内氏や毛利氏に仕えたが、毛利氏の移封に伴って武士をやめ、海田に来住し、宿駅業務を行なったという。


上/聿庵の二曲一隻の屏風には、五言絶句が書かれている。当時の国防への思いが詠まれているようだ。もとは海田町の某家の所蔵であったが、海田町に寄贈された。どなたか、御解読をお願いします。

左/「広島藩関係寄書亀図」には聿庵のほかに沢三石、加藤棕蘆らが寄せ書きをしている。聿庵の「頼協」の署名があるのは下の部分。残念ながらピントがあまく読みとれない。

下/近くの熊野神社には、江戸時代の絵師山野峻峰が描いた「三十六歌仙絵馬」が掲げられており、沢三石、加藤棕蘆、金子霜山らと共に聿庵も「詞書」を担当したというが、どの箇所なのかはわからなかった。


36歌仙絵馬。背景にわずかに金粉が残る。200年余り前はさぞ華麗であっただろう。
36歌仙絵馬。背景にわずかに金粉が残る。200年余り前はさぞ華麗であっただろう。

2022・11・13 

久保寺辰彦さん

「母宛て、頼山陽の書状」

 

現在、頼山陽史跡資料館で「青年頼山陽」と題して企画展が行われています。山陽は18歳の時に叔父、杏平とともに江戸へ行きます。


江戸へ着いたのが寛政9411日、同じ月の26日に母、梅颸へ認めた書状があるので紹介します。青年、頼山陽のワクワクした気分が伝わってくるような内容です。

この書状は木崎好尚が昭和11年に発行した『頼山陽名著全集』第7巻の2番目に「初めての江戸見物」として掲載されています。

ただ字句が異なる部分があるので、私が読み取った通りに活字化してみます。不明な字、間違い等ご指摘していただければ幸いです。

「御早便ニ申上候、当月七日出之御状、先日吉川武助ゟ届、相見仕候、愈御機嫌宜敷被遊御座、大慶奉存候、当地叔父様益御勇健、御勤番被成候、私儀も至極まめニ御座候而、持病之筋等一向無之、永代道中以来、懶惰柔弱之事をこらし申候而、身を固め申候様ニ仕候、雄助抔ぬかり無之、気を付くれ申候、灸をもおろしすゑ可申と申居候、其外他所之醫抔へも追々見てもらひ、養生仕可申と存居申候、松調薬も有之、先此を呑居申候、他出願ひハ未タ下り不申、尾藤へも先日礼ニテ、先参申これハ先便ニも申上候、其後一昨日又参、其夜ハとまり申候而、昨日帰り申候、あの方ニ□見物仕候所ハ、芝愛宕増上寺、神明前、御城大下馬、諸大名之御登城、上野東叡山、不忍池、浅草聖天、隅田川、梅若、近所日本橋見世物抔、サキデハ参らぬ積りにて、先日一両日ニ見てしまひ申候、何角帰国之上、御咄し可申上楽居申候、お十、はる抔と達者、苦なしニ遊び可申と遥察仕申候、随分病身ニ相成申さぬ様ニ仕度物ニ御座候、十にも宜敷被仰聞可被下候、おばさま、一郎さま、嘸御無事、当地之事抔、御咄し合可被成と存申候、これも只今比ハ、加藤へ御徒可被成と存申候、御序ニ宜敷被仰上可被下候、道中處々佳景、圖し置申候、どうで帰国之上、懸御目可申候へ共、先々よき便とも御座候ハゞ少々かき、御慰ニ縣御目可申候、先ハ右縷々申上度事共多御座候へ共、長状かさ高ニ相成申候故、先ハ申残し候、猶期後便之時候、恐惶謹言

  四月廿六日

追々時候も替り、暑気ニ相成申候故、御保養専一と奉存候、しかし夏げしきも宜敷可有之候間、おとゝさま等、御遊行被成、とかく御自愛御心付第一之義と奉存候、頓首

尾藤にて、ブッサキの事申談じ候、夏むき故、麻ブッサキ宜敷可有之ト御申被成候、何分叔父様申談、仕□可申候、

澤大夫 今朝御早道便ニハ封カサ高ニ相成候故、父上様へノ書状バカリ上申候、大阪ゟ御便御座候哉、承度奉存候

(四月廿六日認 五月廿七日至 澤氏つたへ)

母上様 平安       久太郎 拝」

 

*青字は受け取った梅颸が書いたと思われます。

 

2022・10・21 

吉田松陰という人

 

 10月17日付産経新聞に掲載の山内昌之氏「歴史の交差点『日本外史』の誤読」に書かれている頼山陽の『日本外史』に関する指摘は、これまで頼山陽ネットワーク(見延)が繰り返し書いてきた内容とほぼ同じで、溜飲が下がる思いがする。

 

 特に「『外史』を素直に読めば、頼山陽が倒幕思想家でないことはすぐに分かる」という点は、現在、ホームページ上で連載中の「足利氏を読む」で確認いただきたいと思う。

 吉田松陰が江戸の獄に送られる直前、弟子が描いた肖像画。老成した風貌として描かれているが、このとき松陰は28歳の若者である。


これらを踏まえ、見延はこれからも『日本外史』の中に、今まで気づかなかった山陽からのメッセージがないか考えていきたいと思っている。

 

 また山内氏の吉田松陰に関する記述も、濱野靖一郎氏の『頼山陽の思想』からの引用ではあるものの、明治以降吉田松陰という人がいかに過大評価されてきたかについて間接的に語られていて、これも見延がこれまで主張してきたことと重なっている。(参照/2015年NHK大河ドラマ『花燃』に関する頼山陽ネットワークHPの記述)

 

 吉田松陰については「兵学者で、教え子をテロに誘い、満29歳で亡くなった」という点は記憶しておくべきだろう。明治から昭和20年にかけては歴史が曲解された時代である。この時代の誤謬が、戦後70年以上を経て、ようやく正されようとしている。

                         見延典子

 

日本外史の誤読 山内昌之

頼山陽の『日本外史』(岩波文庫)は、司馬遼太郎の小説と同じくらい面白い。しかし、司馬文学は『日本外史』ほど歴史の事実にこだわらず、山陽は『坂の上の雲』のように人物を芸術的に脚色したわけではない。ただ、双方の叙述に共通するのは、どの時代の内乱や戦争をとりあげても、人びとの平和に対する希求を大切にしている点なのだ。

山陽で誤解されるのは、『日本外史』が幕末勤王の志士に影響を与えた反徳川・反幕府の書物だという点にある。これは正しくない。『外史』冒頭の「例言」の4は、わざわざ「我が徳川氏」によって平和と繁栄の統治がもたらされたと明言している。徳川末期に生きる者は、もはや以前の騒乱に詳しくなく、自分が生きている時代の幸福のありがたみを知らないというのだ。山陽によれ

2022・10・17

麻生由紀さん「産経新聞に頼山陽」

 

本日10月17日付の産経新聞に、日本外史の記事がありました。第一面「歴史の交差点」です。


ば、『外史』に接する者は、最初から順を追って最後まで読めば、「その生の幸」が分かる。この書の結びは、「衣類も荷物も無防備のままに食糧をもたずに旅をできるのは、誰の力だろうか」と問うた。源平このかた平和の時期が少なく兵乱が多かった歴史に終止符を打った徳川家康の功業を高く評価したのである。

『外史』を素直に読めば、頼山陽が倒幕思想家でないことはすぐに分かる。しかし、書物の3分の1弱も占める「徳川氏正記」の部分をわざと読まずに『外史』を弟子たちに講じた人物もいた。吉田松陰にほかならない。濱野靖一郎氏の『頼山陽の思想』によれば、松陰は途中の「毛利氏」から講読することが多く、「徳川氏」を塾生と一緒に読むことはなかった。陶晴賢(すえはるかた)を討った毛利元就の「義」を強調し、関ケ原合戦の政治処理で領地を削られた毛利家(幕末の長州藩)の屈辱をまず門下生が学ぶような読み方なのである。

果たして、これで歴史を正しく理解できるのかという疑問がすぐに湧く。徳川家康と江戸幕府の平和統治を学ばないだけでない。天下を「民」の天下と考える山陽と、「一人」(天皇)の天下と信じる松陰の違いはこれまでも指摘されてきた。そのうえ、「人命至重」を主張し海外膨張を否定した山陽に松陰は激しく反発した。「純粋」な信念に由来する過激な行動を是認する松陰と、政治の結果責任を重んじる山陽はあまりにも異質だった(濱野)

私が松陰で気になるのは、歴史家における「ヘロドトスの悪意」のいくつかに陥っていることだ。プルタルコスのいう「ヘロドトスの悪意」の第3とは、「立派なこと、賞讃(しょうさん)に値(あたい)することを省略」することである(『モラリア』10)。家康や徳川氏の200年以上の平和の果実を無視し、時代を超越して「楠氏」(正成)の忠誠や悲運に慷慨(こうがい)する講義では、いきおい自分を正成に擬(なぞら)え、徳川の平和と繁栄の意味を理解しない塾生を育てることにならないか。高杉晋作はじめ松陰門下生たちが何かと幕府の営みに「難癖」をつけ、その失敗を喜んだのは、『外史』の誤読による不公平な歴史評価と無縁だったはずがない。 (やまうち まさゆき)

2022・9・17 頼杏坪が碑銘、春水が題額「奥明碑」

 

 今年7月、広島東照宮近くの国有林で埋もれているところが見つかった広島藩の砲術家奥17321802)の碑。7回忌に頼杏坪が碑銘、春水が題額を書いたという。いずれ建て直すというので、写真はそのときに紹介するとして、郷土史の田辺良平先生から碑銘の内容をにいただき、掲載の許可も得たので紹介したい。石工は「石田直之」。呉の広邑新墾碑」も掘った石工である。

2022・9・1 久保寺辰彦さん「頼山陽の書と山水画」

 

千葉県鴨川市出身の政治家で城西大学の創始者でもある水田三喜男は、浮世絵のコレクターとして知られていますが、頼山陽を始め、佐久間象山、吉田松陰、梁川星巌、勝海舟、西郷隆盛の書など300点余りの書も集めていました。それらは水田氏没後、鴨川市郷土資料館に寄贈され保管されています。今回、資料館の学芸員である高橋さんにお願いして保管してあった頼山陽の作品3点を見させていただきました。

 

この詩は『山陽詩鈔』に「題自畫山水」として載っています。

 「分明に昨夜青山を夢む。幾朶(だ)の峰容髻鬟(けいかん)を束ぬ。晨起童を呼びて急に墨を磨り。写し来れば半ば堕す渺茫(びょうぼう)の間。」とありまずが、一部違っていて転句の「磨墨」が「磨研」へ結句の「半堕」が「已堕」となっています。

 

いかにも推敲を重ねる山陽らしさを表しているように見えます。字もそれなりに山陽らしさを感じます。しかし、山水画の方はかなり粗雑さを感じます。そこで印を確認してみると、印譜集に載っているものと明らかに違いました。

 

学芸員の高橋さんも、「書はともかく、山水画を見たときは、ちょっとこれはなぁと思いました。これで本格的にお蔵入りですね。」とおっしゃっていました。山陽の書は人気があっただけに美術館や博物官にもそれなりに贋作がありそうです。

 

ただ、印譜集に載っていない印もあるということだけは気をつけたいと思います。今回は同じ書体の印で、似てはいますが違う印だったので贋作だろうと判断したのですが、同じ書体の印をいくつも持つことを山陽はしたのでしょうか。ご存知の方がいればご教示願います。


 この『吉田驛詩帖』を剞劂した人は井蛙堂の河津祐度と言う人物です。天保13年に発行された『三十六峯山陽外史遺墨』もこの人が彫っています。いずれも発行者は積書堂の吉田治兵衛で、吉田氏とのコンビが多いようです。

画像の白黒の方が河津が彫ったもので実際の『吉田驛詩帖』では、彫った部分が白くなっていますが、ネガポジ反転で黒くしています。画質の問題もありますが、実際に書かれたものより、躍動感があるように感じます。

2022・8・15

久保寺辰彦さん

「版木師のレベルの高さに驚き」

 

江戸時代に墨帖などを作るとき、肉筆の書を写し取り、それを版木に彫りこむ人を剞劂氏(きけつし)と呼んでいたことを最近知りました。

頼山陽の『湊川帖』や『吉田驛詩帖』を見ると、その書の躍動感はまるで本物の書をそのままコピー印刷したのではないかと錯覚してしまいます。

原本が残っている『吉田驛詩帖』などは、実際に書かれたものと比較することによって、その精密さに驚嘆します。


2022・7・1  石村良子代表「頼山陽が借金をした那須閑斎の情報を

 

15周年バス旅行 コロナ下の15周年バス旅行も障りなく無事に終わりました  皆様のご協力に感謝しております

改めて楽しかったこと思い出し「頼山陽史跡詩碑めぐり」を見ております

あの時千葉の久保寺さんから秘蔵の頼山陽の手紙などの巻子コピーをいただきました。巻子の最初の山陽から那須閑斎への手紙は、現在私たちが古文書教室で習っている「菅茶山から杏坪、春水への手紙」の内容にリンクするものでした頼山陽はこの那須閑斎に神辺に行く前から借金していたようです

偶然の出来事に喜んでいましたら 又教室の望月さんが手紙の中の「牛窓屋」という店は大学時代の同級生の家では、と言われます。那須与一は扇の功賞にこの地方の荘園をもらったそうですが 閑斎と関係があるのかないのか  色々話しを続けたいので 那須家の事又何かご存知の方は御教示ください

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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