2022・6・25

久保寺辰彦さん「三樹三郎の『郎』最終払いはほぼ上に向き」

 

左は「三樹三郎」は、2019.2.26に紹介されている、三樹三郎28歳の時の書です。これは山陽ネットワークの登録団体の方から内容を知りたいということで、解読されたようですが頼祺一先生が真筆と判断されているものです。前回の書は25歳ということですが、わずか3年でこの違いです。私が持っているものは何歳の時の書か不明ですが、もし25歳や28歳の時の書であれば、明らかに三樹三郎の書とは違いますね。


見延先生が言われたように「様」や「拝」などの崩し方が明らかに違います。しかし、偶然なのかどうなのか三樹三郎の「郎」の最終払いがほぼ上に向いています。これは、本人の癖なのか、次の行に続く筆の運びなのか。次の字まではずいぶん離れているのでもし、癖だとすれば、次の行に何も書いていない「三樹三郎」があれば比較できるのですが。次回の「前」について、楽しみにしています。

 

2022・6・23 久保寺辰彦さん「『拝』が上の文字に続く場合」

                       ⇔ 見延典子

見延典子さんへ

いつもご指摘ありがとうございます。

「拝」の最終の払いの向きですが、「拝復」とか「拝見」とかあるいは「拝」で終了する場合は当然下向きになりますが、この場合、上の文字に続くので連綿線は上に向いているのは当然と思いますが。どうでしょう。

                         久保寺辰彦

久保寺辰彦さんへ

「『拝』が上の文字に続く」という「上の字」とは「侍」のことでしょうか。「続く」といっても、ずいぶん離れている気がしますけど(笑)

 齊藤先生所蔵の三樹三郎の手紙に文末に『拝』があり、同じように上の日付に「続く」箇所がありました。手紙の最後「頓首」で赤丸が「」だそうです。問題の箇所、最後を見ると、完全に下がりきっているとはいえませんが、少なくとも跳ねあがってはいません。このとき三樹(木)三郎は25歳。究極の崩しといえるでしょう。

  上/久保寺さんご所蔵

 上、/齊藤先生ご所蔵 真筆

 これだけの意識をもって「拝」を崩す三樹三郎が、左のような「拝」を書くかがポイントでしょう。

           見延典子

 


2022・6・22  久保寺さん「以前投稿の書簡は三樹三郎か?」

                         ⇔ 見延典子

   2021.7.27に投稿

  「山陽らしい内容」の書簡

見延先生から「頼」の違いを指摘され気づいたのですが、この「頼」の字はどこかで見たような気がしました。確認すると以前(2021.7.27)投稿した「山陽らしい内容」の書簡の「頼」に似ていることに気づきました。この書簡、頼山陽の字体とは少し違うと思っていましたが、とするとこの書簡は三樹三郎の可能性もあるのかなと思いました。

引き続き調べてみます。

見延先生が言われる通り、三樹三郎の真跡と言われる書簡は少なく、私はほとんど目にしたことがないので真贋は正直わかりません。

          


久保寺辰彦さんへ

 前田の「前」について書く前に。

 今回の件、2021・7・27付の書簡を三樹三郎が書いたとするには「様」がどうなんでしょうか。

 次に「拝」についても、齊藤先生所蔵の手紙と比較してみます。

上/久保寺さんご所蔵

上、右/齊藤先生ご所蔵 真筆


一般の「くずし字」と比較してみます。

くずし字解読辞典より

 齊藤先生ご所蔵の三樹三郎が書いた「拝」は、くずし方の基本を守っているのがわかります。特に最後の止めのあたりです。久保寺さん御所蔵の書簡は上に跳ねあげていますが、下に向けるのです。子どものころから仕込まれるというのはこういうことなのだと改めて感心しました。

     見延典子


2022・6・21  見延典子「比較してみました」⇒ 久保寺さん

 

 頼三樹三郎は遺墨や手紙の現存数が少なく、知名度は頼山陽より高く、贋作も頼山陽より多いといわれています。幸い函館の齊藤先生が、齊藤先生のご先祖に宛てた三樹三郎の手紙を持っていらっしゃるので、今回の書状と比較してみました。特に「賴」の筆跡にご注目ください。

上/久保寺さんご所蔵

上、右(三木三郎)

齊藤先生ご所蔵 真筆


次に「様」です。

上/久保寺さんご所蔵

右、上/齊藤先生ご所蔵 真筆


 いかがでしょうか? 

  実は一番おかしいと思うのは「前田」の「前」です。次回書きます。

           鑑定はできないけど比較はしますの見延典子

               

2022・6・21

久保寺辰彦さん「『巻封』』です

 

見延先生、ご質問ありがとうございます。私もかなり疑り深い性格で疑問に思ったことが解決しないと安眠できません。()

ということで原文のカラーコピーを元に、当時の折り方を調べ再現してみました。折り方(書簡の出し方)にはいろいろな種類があるようで、今回のものは「巻封じ」と呼ばれているようです。

〆の赤い部分は私が補いました。よく見ると本文の左上に点のような墨の跡がありました。なので、この巻方で、〆をしたことにほぼ間違いないと思います。

この巻方は日付と宛先の間に空白を入れないとできません。よって、本文の書き手と宛名の書き手は同一人物だと思います。私も鑑定できるような知識も経験もありませんが、真偽は確かめたくなります。まず、疑問に思う(疑ってみる)ことは大切ですね。これからもいろいろなご指摘をお願い致します。

 


2022・6・20     久保寺辰彦さん「頼三樹三郎と思われる書簡」

                         ⇔ 見延典子

今回は頼三樹三郎と思われる書簡です。頼山陽に興味を持ち始めた頃に入手した巻子にあったものです。今回、自分なりに解読してみました。不明なところもあり、間違いもあると思います。皆さんにご指摘していただければ幸いです。

 

寒冷存候、御安寧奉賀候、今便岩崎より飛脚参候間、前日認置候、冬之詩弐首相託候、御受取可被下候、前度頂戴仕候、御丹醸之常酒、甚美ニ而、今以忘兼候、若御好便も御座候ハゝ、二三升後恵擇(澤)被下候様、奉希上候、甚以自由がま敷義、申上候段ハ真平御高免可被下候、小生酒ハ別而嗜(スキ)ニて候故、あつかましく御頼申上候、□□不尽

  十一月七日

前田臣□様 頼三樹三郎  状書弐枚添

 

山陽に負けず劣らず息子の三樹三郎もお酒が好きだったようですね。お酒のおねだりの仕方もユニークで憎めない感じがします。宛先の前田さんがどういう人かわかりません。また、「岩崎」という場所もわかりません。真贋も不明ですがよろしくお願い致します。

 

久保寺辰彦さんへ

 内容そのものより、日付の後の空白はなんでしょうね? これだけの空白がある場合、私が三樹三郎なら日付のすぐ脇に自署します。また本文の書き手と、左端の宛名の書き手は同一人物でしょうか?

        鑑定できないのに口をはさみたがる見延典子より

 

2022・6・7  久保寺辰彦さん「頼山陽の贋作を紹介」

 

頼山陽の贋作(書簡)の紹介です。偽物はたくさんありますが、だいたい真跡(法帖などの木版も含む)を見て似せて書くのが一般的だと思います。しかし、これは活字になっているもの(『手紙の頼山陽』木崎好尚 明治45年発行)を見て書いたと思われる、贋作としては珍しいものだと思います。

山陽の手紙が活字になっているものは、他にも徳富蘇峰や木崎などが編集し発行した『頼山陽書簡集』上・下・続巻 昭和2年~4年発行などがありますが、その書簡集にもこの贋作の元になっている小埜叔姪宛の書簡が紹介されています。

文政7年、山陽45歳の時、京に遊びに来ていた梅颸を広島へ送り届け、その帰りに岡山の小野家に立ち寄りました。その際のお礼を翌、文政8年の正月に書いたものです。

『頼山陽書簡集』ではなく、『手紙の頼山陽』を見て書いたと言えるのは、叔姪(しゅくてつ)の解説部分である傍線の(招月亭移山亭)という記載が『頼山陽書簡集』にはないからです。しかし、この( )書きは木崎の解説部分であり、山陽が書いたものではないと気づかなかったのか不思議です。内容についてもかなり省略しています。また、宛先も「小埜叔姪」とすべきところを「小埜寂姪」と間違って書いています。ただ、行間の尚々書きだけはこの書き手のオリジナル部分のようでありそれなりに工夫しているようです。

2021・12・12

不動院麻生さん「思文閣 頼山陽や関連の人々の書状]

 

思文閣の最新冊子で、頼山陽、市川米庵、篠崎小竹の書状が売りに出されていますので、ご紹介します。

頼山陽の書状。宛名の父親が京都についたこと、酒を送ることを伝える。


2021・11・3

久保寺辰彦さん

「木屋町の生洲で一杯」

 

「頼山陽書簡集下巻」に月を欠いた二十日付の梁川星嵒宛ての書簡があります。木屋町の生洲(鴨川沿いの料理屋)で一杯やろうという誘いのようです。その書簡の前に出したと思われる六月二十日付の書簡を見つけたので紹介します。以下内容です。間違いあると思いますが素人ですのでご勘弁を。

「此間帰京、未得捧侍、大暑如何御暮被成候哉、四條磧光景、鳥度見及候へども、無一杯可、廿日今夕、行水過より、携一瓢御誘可申候、久しき御あつけの御馳走ニ可相成る哉と存候さ候へハ、一妻一児をつれ参、磧中之生洲と云ものゝ椽をかり候て、一酔妙歟、御答可被仰下、今夕御差支なれハ明夕ニても明後日ニても可仕候、如何 六月廿日

星嵒様 山陽」


この書簡に対して、恐らく星巖が「御誘いお受けします」の返答があったので、書簡集下巻にある月を欠いた二十日付の書簡を書いたものとおもれます。具体的な時間がや場所が書かれ、月が欠いているのも頷けます。それにしても一妻一児を連れていくとは、梁川家とは本当に家族ぐるみの付き合いだったようですね。書簡を届けたのは塾生だったと思いますが、筆まめの先生に仕えるのも大変でしたでしょうね。

 

2021・9・12

山下幸太郎さん → 見延典子「頼山陽の新たな一面」

 

 調べて頂き有難うございます。頼山陽が読みたい書について具体的に示す記録があったのは驚きでした。

 加えると、頼山陽全集には注釈として、「福山・門田宮一郎氏ニ襲蔵セラル。ソノ祖朴斎、親シクコレヲ手授セラレタルモノナリ」とあります。

つまり、頼山陽は「禹貢図」を門田朴斎を譲渡し、曾孫の宮一郎氏にいたるまで門田家が所有していたのではないかと推測しています。

「禹貢図」は文政10年に書かれたものでありますが、この年は『日本外史』が完成した年でもあります。頼山陽の新たな一面が見えてくるのではないかと思いました。

 

2021・9・11

見延典子 → 山下幸太郎さん「頼山陽と中国古典について」

 

「頼山陽が中国古典を抜粋・編集する形で書き遺した作品は多いのでしょうか」というご質問ですが、頼山陽が生きた時代は中国の古典が学びの中心でありましたから、漢詩にしろ、『日本外史』をはじめとする著作にしろ、中国古典を理解していないと頼山陽の意図はくみ取れないだろうと思うことは多々ございます。

石村良子代表にも伺いましたところ、頼山陽が幽居中に書いた陳情(下んの写真)には読みたい本が書かれおり、六経は我が身を修めるもの、その次の群に晏子他、文章の手本にしたい書物に管子など挙げている、とのことです。

2021・9・10

山下幸太郎さん → 見延典子

「頼山陽と中国古典について」

 

こんにちは。

以前教えて頂いた「禹貢図」(頼山陽全書 文集巻11 499頁)について調べていたところ、以下のようなことが分かりました。

・禹貢図は誠之館歴史資料館に所蔵されており、「諫景公・平準貨権論・禹貢図」として三つの作品が一枚に収められていること(右の図はその一つ)。


・諫景公の原典資料が、『妟子春秋』の内篇諫上第一の第24章である。

・平準貨権論の原典資料が、『管子』の国蓄第732編と3編を変則的に組み合わせたものである。

・禹貢図には全書499頁と同じ「丁亥臘月望夜。客散酒醒。更挑燈。讀禹貢一過。約略圖之。」襄。の文が書かれている。

誠之館の歴史資料館にも問い合わせて協力して頂いているところですが、

頼山陽が中国古典を抜粋・編集する形で書き遺した作品は多いのでしょうか。

『頼山陽史跡&石碑巡り』と直接関係はないかも知れませんが、私にとっては頼山陽の別の一面が見えたような発見だったので連絡いたしました。

 宜しくお願いします。

 

 

義斎は広島藩の武家に嫁ぎ、慣れぬ土地での生活に戸惑娘娘静に、訓導の手紙を出したのだった。

飯岡(いのおか)義斎
飯岡(いのおか)義斎

春水へは「世の定め、悲しきことの、多けれど、生きてわるほど、ますものはなし」「心強き、人こそよには、うらやまし、よはきはものに、くだけやすけれ」等の和歌を送るなどしている。(右は義斎の墓に参る梅颸。画は西村緋祿史。見延典子「頼山陽」連載中の挿絵)

 

2021・8・17

石村良子代表

「頼静宛、飯岡義斎の手紙」

 

古文書研究会で「頼静宛、飯岡義斎の手紙」をまとめた。飯岡義斎は静(梅)の父。A4判、50ページ、16通。他に春水宛も。

「人の道といふものありて、その迫りつめたる中に、りんりんたる道義立ちすわりびくともせず、うろりともせねものをあるを能よく明らめ悟り能よく育て養い堅くとり守るべし」と諭している。


2021・7・27 千葉県の久保寺辰彦さん「山陽らしい内容」

 

この書簡、「頼」と書かれていますが、山陽の字体とは少し違うような気がします。しかし、内容が山陽らしいので紹介します。

御懇書 拝誦仕候、春寒強御座候處 一啓、御清適被為在、奉敬賀候、一昨日ハ推参仕候處、御優待被成下、久々ニて得拝顔、高話拝承 大慰久闊之情、大慶之至ニ奉謝候、扨又一昨夜遺却之品有之、其御代りとて美菓御恵贈被下、御叮寧と申、甚通却仕候、鶏卵澤山 御恵贈被下、是ハ何之謂ニ御座候哉、辭可申處、知己之贈、不辭して拝戴仕候、宜御礼申上候

〇拙毫誠ニ昨冬病中一揮、別テ拙劣、御海容可被下候、昨日ハ拙寓へ御賁来も被成度ニて、途中渥美氏ニテ抑留ニ御逢被成、澤村氏も被参候よし、御愉快と拝察仕候、猶其内拝眉可申述候、乍末令置憚、御一同へ宜敷御傳聲、奉頼候、

 

〇旧国より到来枯魚、入尊厨、御一笑可被下、不焼前ニ腹背ヲ能々マキニてたゝキ、御焼二度ほど、麁と醤油を付ケ、程能切ツテ下物ニ御用可被下、随分見かけよりハ妙と存候、一笑々々 草々頓首 正月九日 足立様 頼拝

 

旧蔵内邸とは?

旧藏内邸は明治時代から昭和前期まで福岡県筑豊地方を中心に炭鉱を経営し、また大分県などで錫や金の鉱山も経営した藏内次郎作、保房、次郎兵衛の藏内家三代の本家住宅です。

2021・1・15

近砂敦さん「福岡県で頼山陽に」

 

昨年末、福岡県築上町にある「旧蔵内邸に」カミサンと訪問してきました。コロナ禍で訪問者は私達のみで館務員の案内でゆっくりと見学できました。その時に山陽さんの書が掛けられており「ご無沙汰しております。お変わりございませんか」と

声を掛けさせていただきました。その時の掛軸です。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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