2019・6・17
石村良子代表
頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文③
「すぽらほんのほんと 心をやるべし」
せい出してふりぬく これと同じ事 どういうたとて どうしたとて どうも こうもならず むこうの事 こちのよろず ちっともどうとも しょうなく だいたい わが心を立すへる事より外は とんと とんとなき事なり。どのように世間の事 人間の事さまざまの変事ありとも こうより外は しょうのなき事を能ゝかくごきわめ ずっしりと てづよく勇 志を立て立て立すへ 鉄石のごとく びんぼゆるぎも せぬに すっきり人情の やるせなきに まけず 人道の本然を立すへ戦場にむかって 馬にむちくれ 君に先だって打死にすべき心もち 常々の表にある事にて 今その気になれば それになり ぐにゃつけば ながれて やくたらずになり ただただ心で心をとり立てとり立てすれば 気しょうもつれて つよくなり りんりんとして おかすべからざるのみさほを 立て立て立すへ あっぱれ 手がら 剛のものよ 賢女よ 義斎の子 弥郎が妻 久太郎が母よ 婦人のかがみよ 手本よと ながきよまでのわらひ ほまれの わかれを わするまじきものなり あなかしこ
一 どうで(も) 侍の妻となりては町人 百姓のような根性さげては やくにたたず 侍の妻とて 人に貴ばれ敬はるるからは町人百姓どものような 根性をさげて居ては とんと身分がすまぬから かくべつな所なければ ならず かつ べつな所とは 道を守りて 勇を剛きにあり ぐにゃぐにゃ なき面人に見すべからず 秋の霜のおかすべからざるごとく りんぜんと
すずしく 立あがるべし かりにも よわきなみだもろき根性あるべかず
心で心をとりなをし気で気をひきたて これの思ひあらば うとふて て心を放散すべし くよくよむねにたむべからず おもふはやまひとなり
つがざる これ等のこと わするべからず
すぽらほんのほんと 心をやるべし
うき事の かさなる事は いさぎよく 世をうとふべき 便りならまし
うき事は よにあるほどの ならひぞと おもひながして 心はるけき
何事も さだまる道と あきらめて まよひだにすな なげきだにすな
後二首は前にやりたるようなり
七月十八日 父 やや
静子へ
湘瀟何事等閑帰の詩の書たる雁の かくの如く書きたる小茶碗
其方行有り候や否を聞ばかり 返却には及ばず候
2019・6・9
石村良子代表
頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文②
「人らしき人にならんとおもはば」
書かれた時期の詳細は不明だが、静が20代、幼い山陽を連れ、実家に帰省したころ(1780年代)に書かれたのではないか。義斎は大坂の儒医者で、1789年、73歳で没している。
註:天明の飢饉 天明2(1782)年から同7年にかけての全国的飢饉、 同2年は天候不順で凶作、翌同3年は春から冷雨が続き,さらに洪水,浅間山の大噴火のため大凶作となった。死者は30万とも50万ともいう
住馴し親里を離れ 遠き国におるも 只壱人の夫を頼りにして在る事なるに それだに又遠く離れし只ひとり おさな子をそだてくらす事 頼も力もなく いか斗のなげき かなしみ思いてくるも はてしなし
しかれども どのように ないても わめいても おどりはねても どうもこうも しょうなく こんきゅうしごくせまり きったる事神々にいのり きせいし人々にたのみ願いても ならぬ事はならぬ 天命いかんともぜひなく いっそ死んだら 此おもい 此くるしみ あるまいとおもえど げんざい おさな子あり老たる親あり かなしみおもう夫あり こがるる兄弟 しぬるもしなれず かかる時いかんとかせん さりとて いきもならず ただむねに むせかえり くるしみ斗なり
しかれども ここに にっちもさっちもゆかれぬ 人の道と いうものありて
そのせまりつめたる中に 凛々たる道義立ちすわり びくともせぬ うろりともせぬ有るを 能々明め悟り 能そだて やしない堅く執り守るべし しかれ一切のなげき うれへは さらさらと ゆき しもの とけるごとくあんらくなるべし
ここを聖人憂うるなく 知者は惑わず 勇者は恐れずとこそ仰られし 君子
わたくし かってなきゆえ憂うるなし 人のうれいなげきは 皆多 わたくしかって よくより生ずるなり 知くらく 義理すじ道わかれぬから めったくたり やくにもたたぬ事を あんじくらし うろたえ まどうなり 勇氣の志なきゆえ万事に へこたれあしこしすわらず ひょろひょろ さまざま びくびくし みれんさもしき事をするなり
さすれば 男も女も此勇の志 立すわるで仁も義も知も 信も出来るなり
とかく人らしき人にならんとおもはば 心の剛にして弱からぬが大徳にて
心よわきものは大の大ぞん やくにもたたぬを くどくど くよくよおもうも 皆勇なきゆへなり
勇とは 心いさみて つよくひるまぬをいう常々 此心をしゅ行すべし 大の徳つく事なり
すでに此たびの事でも 当時此天気にても さきだって順気にて 天下万民悦び楽しみしに かくふりつづきて民ぼっと とうわくし いのりきたりし なき 悲み
うらみ なげきのたらたら よまい事のたらたら かまひせしけれども 天気 き よろしとして せいだし
2019・6・7
石村良子代表
頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文①
「人情と人道」
書かれた時期の詳細は不明だが、静が20代、幼い山陽を連れ、実家に帰省したころ(1780年代)に書かれたのではないか。義斎は大坂の儒医者で、1789年、73歳で没している。
註:天明の飢饉 天明2(1782)年から同7年にかけての全国的飢饉、 同2年は天候不順で凶作、翌同3年は春から冷雨が続き,さらに洪水,浅間山の大噴火のため大凶作となった。死者は30万とも50万ともいう
人には人情と人道とあり 人情はしのびがたく やまれぬものなり これなければ人にあらず
又人道というは道理のたがえられぬものあり これなければ人たるの本体なし
故に人情の やむにやまれぬることありて むせびかえり こがれはつるかなしみ あればありとても 又そこからも たがえられぬもの有る事を天性也本心也人道也
能々明らめ悟りて きっと情の行くままなるを制して ほしいままにせず
きっと道を立ちすへ堅く守りて変ぜざる これを人の道を得たりとす
その人情のやまぬありとも 人道を以って制すべき事なるに 情欲のみ専らに盛んにして 人道を以って 制するすべをしらざる これ鳥獣の道にして 人たるの道にあらず
世間人間の上 まちまち さまざまの変ありとも かうより外 かくごすゆべきなく万々の事 この準則を以って ゆくべきより外なし その所を能しれば
まよい うろたえなきはずの事なり
ここが合点ゆかぬと 諸事 変あるたびに当惑 邪曲を生じ乱逆に至りて 人でなしとなり 世の笑いものとなり 終る事たちまちなり