特に記載がない場合は、見延典子が書いています。
この神社内に正成公以下御一族等の墓所がある徳川光圀公が命じ碑石(ひせき)を建て、みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字を書いたという
みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです」とある偶然居合わせた掃除中の宮司さんにたずねると 頼山陽が訪れた記録はのこっているという。ポスターの神社は明治天皇が1000両御下賜 明治2年建立されたというもの。現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年10月24日に復興新築されたもの、なにやら立派である。
2019・9・3
石村良子代表「楠正成の顕彰」
神戸の地下道を歩いていたら 湊川神社の版画ポスターが貼ってあった 湊川神社ホームぺージの古写真に似ている
同ホームページには「幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽.吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、
なぜこんなミスをするのか、自問自答しつつ調べるうち、光圀の周辺にある「スッキリしない部分」についてわかったことがある。
湊川神社内に「楠木正成戦没地」がある。史蹟指定は昭和26年。湊川神社内を歩くと、まさに明治に作られた特殊な神社であることを実感する。 右の写真は楠木正成戦没地。
2019・2・20
湊川神社③
19日付けで書いたものはまた間違いだった。左の写真で、徳川光圀が書いたのは右の八文字、左の文字を書いたのが京都の書家岡本元春(文は明の朱舜水)であった。お詫びして再度訂正します。
『大日本史』と一口でいっても、完成するまでに230余年を費やしている。頼山陽が読んだ『大日本史』は、現在伝わるものとは異なっている。今さらではあるが、そういうことだったのか、という気づきがあった。『大日本史』なんてほとんどの人(私を含め)は通読したことなどないはずから。この気づきについてはいずれ何かで書きたい。
2019・2・19
湊川神社➁ 頼山陽も
17日付けで「嗚呼忠臣楠子之墓」は徳川光圀が書いたは間違い。「揮毫は京都の書家岡本元春」と湊川神社のパンフレットにある(訂正済)
「頼山陽、墓所参詣、漢詩「過楠河州墳有作」ともある(右の写真)
寛成9年(1797)山陽が江戸遊学の途上のことである。
同じく17日付けで書いた「お堂」の写真も「三間四方の碑堂」として掲載されている。(左の写真)
正門右手に「大楠公(楠木正成)御墓所」と見えるので、進んでいく。
楠木正成の家紋「菊水紋」(緑色)
現在はあづまやのような屋根の下にあるが、江戸後期はお堂の中に保管されていたという(右は先進繍像玉石雑誌巻第一。国会図書館デジタルより)
2019・2・17
湊川神社①
大阪府に桜井駅址を訪ねたあと、神戸市にある湊川神社を訪ねる。「高速神戸」の駅から徒歩2分。楠木正成の戦没地で、墓がある。
徳川光圀が書いたという「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑が建っている。周囲は柵で囲まれているので、写真はズ一ㇺで写す(斜め左下)頼山陽も拓本を見て、漢詩を残している。(進藤多万さんからいただいた読み下し、訳はいずれ機会があればご紹介する)