2017・9・1 中津のオッサン「山陽作伝、本当ですか?」

 

昨日、図書館に行きましたら、ある本に山陽作伝として・・・

「京都三条糸屋の娘    姉は十八妹は十六

  諸国大名は弓矢で殺す  糸屋の娘は目で殺す」

と書かれており、前後の文がまじめな山陽さんの評価と実績が書かれている中で、なにか違和感とうれしさがでてきました。

山陽さんの酒脱な一面がうかがえました。

 

本当ですか・・・?

 

中津のオッサンへ

頼山陽作といわれている漢詩の作り方ですね。起承転結がわかりやすく書かれています。ただ、頼山陽が本当に作ったのか、定かではありません。

「三条」のところが「四条」「五条」だったり、娘の年齢が違うものもあります。繰り返しますが、この起承転結はいろいろな意味でうまくできており、漢詩を作りたい方の参考になるでしょう。

                           見延典子

 

「頼山陽」は真山青果史劇中五指の一つとある。「真山青果全集」(昭和51年)戯曲が日刊紙に連載されたのは異例。
「頼山陽」は真山青果史劇中五指の一つとある。「真山青果全集」(昭和51年)戯曲が日刊紙に連載されたのは異例。

塩谷温と頼山陽も添付ファイルの通り(右)です。昨年、頼山陽文化講座「楠氏論賛を読む」を担当し、中央図書館で関係資料を検索している中で見つけました。「謁楠河州墳有作」の漢詩、そして序論・論賛を資料として借用掲載、その解釈・説明にも十分活用させていただきました。

塩谷氏の経歴をみると,東大名誉教授の表示も見られ、講演された昭和6年頃では、頼成一先生より、格が上だったのでしょうか?

 

2017・8・7    

堀尾哲朗さん「情報を提供します」

 

ブログを楽しく拝見しています。

8月6日のメールを見て思い出し、私の情報を提供します。帝国劇場で上映された「頼山陽」は見延先生がお書きになった通りです。何年か前、「日本外史を読む会」でお見せしたと思います。添付ファイルの通り(左)、頼山陽没後100年を記念して、昭和6年に報知新聞連載とそして劇が上演されたようです。

 

  「楠公と頼山陽 附楠氏新釈」   (昭和12年 塩谷温)
  「楠公と頼山陽 附楠氏新釈」   (昭和12年 塩谷温)

2017・7・30

        グランマさん「頼山陽文徳殿 歴史のつながり明示を」

        堀尾哲朗さん「御便殿の記載は誤り」

 

グランマさん

「見延さんありがとうございます。

ご指摘のとおり、確かに比治山全体が負の歴史を背負っていますよね。

明治以降の広島の土地が背負った宿命?と重なりますか?

そういう意味では、「平和」を考えるとき、私たちは避けられなかっ「戦争」の事実を包み隠してはいけないと思います。

比治山に唯一残っている被爆建物「頼山陽文徳殿」が、歴史のつながりを明示して一般公開されるなら、その存在意義は大きいと思います。

見識ある方のお働きをねがうところです。」

 

堀尾哲朗さん

「御便殿の記載は誤りとおもい、私の考えを添付ファイルで送ります。(下方)

御便殿は帝国議会の中に造られた、天皇の控え室でした。

帝国議会場が解体され、天皇に関係する施設として比治山に移されたものです。

(広島城発行 『日清戦争と広島城』から。 33頁十50))

日清戦争時に、天皇の休息場所として比治山に造ったものではありません。

 

時代の流れと割り切る事は出来ませんが、比治山は「戦争の丘」であったかもしれません。加藤友三郎の軍服の銅像もあったのですよ。不確かな情報ですが、毛利輝元が広島築城用地として比治山の千丈岩付近を考えたようですが、城の防備がしやすいので、豊臣秀吉の意向をうけた黒田官兵衛が、現在の広島城の場所を進言したとも云われています。 (要害堅固な郡山から毛利氏を引き出し、地盤が軟弱、水攻めのしやすい現在の場所に築城を勧めた。) 戦国時代は、比治山より、仁保島の要害(今の黄金山)が重用であったようです。

 

(蒸し返しとなりますが疑問点)

1934年・昭和9年  「山陽文徳殿」竣工>

1935年・昭和10年 「山陽記念館」開館。 戦時で資金も不足していたのに、何故、2つの施設を作ったのか。

見延先生の『頼山陽』423頁から。

「昭和16年、衆議院で山陽を祭神とする「別格官幣社創建に関する建議案議決」とありますが、どこに(比治山?)に造るつもりであったのでしょうか?」

                            

 

→ 堀尾哲朗さんのお問い合わせについては

  「見延典子のブログ」でお答えします。

 

 

2017・7・29 グランマさん「軍都広島 原点の歴史を」

 

「頼山陽文徳殿」を考える

ー広島市はいつから戦争という言葉をつかわなくなったのかーそれは、広島が軍都となった歴史にさかのぼるのではないか?

 

広島市が比治山を「平和の丘」として整備する構想を出したとき、初めて陸軍墓地の方まで足を運んでみた。美術館がある方と違って、南に延びた尾根は広島の負の歴史を感じさせる空気が漂う空間であった。(単一なる平和の丘ではくくれない・・)

 

「博愛」という一語で、過去の不幸な事実を包み隠してはいけない。明治以降の広島のたどった歴史的役割、そして責任・・・宇品港を見下ろすことのできるその場所に立つと、戦争に巻き込まれた軍都広島の責任がのしかかる。原点の歴史を踏まえないで、どうして「平和の尊さ」が子孫に伝わるでしょう。

 

「頼山陽文徳殿」があらためて活用されるのであらば、その歴史価値から一考されることを願います。(それぞ、山陽さんの本望では?)さらさらコンサートなど催すところではないと考えます。

 

 

2017・7・28 堀尾哲朗さん「頼山陽を知ってもらう努力が必要」

 

山陽ネットワークを拝見しています。

頼山陽文徳殿については詳細が分からず、ウイキペティアを検索したところ、歴史の概要が書かれていました。れを読んで、現在の私の考えを少し書いてみます

 

原爆投下後、広島市役所の出先機関、浅野図書館として使用されていたようです。しかし昭和30年以降、使用の実態は書かれていません。そして今日まで、荒れ放題の建物でした。 誰の責任なのでしょうか? 今回の市の計画で、比治山一帯の再開発により、建物が再び活用される事は嬉しいことですね。見延先生のご意見は、正当と思いますが、被爆建物として活用される中で、この建物の歴史を多くの市民に知って貰うことが、先ず大切と思います。

 

我々は頼山陽を尊敬し、広島が生んだ偉人と考えていますが、一般の人は広島を棄てて京都に走った人物とも考えているかもしれません。頼山陽史跡資料館も「刀剣展」「ひな人形展」「南画展」ばかりで、頼山陽の考えをもっと知って貰う努力が必要でしょう。頼山陽の「日本政記」や「通議」「日本楽府」 更に頼春水の学問所での役割、役人としての頼杏坪の庶民のための活動を通して、頼山陽の実像を知ってもらう努力が必要と考えます。

 

結論

先ず、頼山陽文徳殿を改修・公開することで、誰でもが使用できる、市民の教育の場となる中で、頼山陽を少しずつ知って貰う努力が必要と考えます。

 

 

2017・7・27 グランマさん

「頼山陽文徳殿の意義 頼山陽ネットワークで広島市に働きかけを」

 

「頼山陽文徳殿」を考えるについて

 比治山公園「平和の丘」構想(広島市による)によって、「頼山陽文徳殿」の存在意義が埋没されてしまうのではないか?という見延さんの危惧に全く同感です。

 

単なる被爆建物の範疇に区分けされしまうのは、反対です。

 

頼山陽ネットワークとしてこの際、文徳殿の設立趣旨、そしてあの独特の建物がいつ、誰の手で何の目的で建てられたのか(私も勉強不足で知らないのですが・・)、建物の中には何があるのか、再認識していただくよう

広島市企画室に働きかける必要があるのではないか—と思います。

「頼山陽文徳殿」が建てられた背景を知ることによってこそ、その活用の仕方が解ってくるのではないかと考えます。

 

2017・7・25

山根兼昭さん

「今、なぜか『応仁の乱』」

 

最近、書店へ行って、オャッと思うことは、「新刊・応仁の乱」がベストセラー5に入っていることです。

そう思って調べますと、今年は「応仁の乱」から550年に当たります。


「日本外史本文」

[東西両陣兵を解く] 

両陣皆兵を喪ひ、猶ほ屹然として相対す。12月(1473年)義政、軍職を義尚に譲る。・・・東陣に降りし功を賞するなり。11月(1477年)西陣の諸将、各々解いて国に帰る。

東陣も亦解く。応仁元年よりここに至るまで、凡て十有一歳。両陣の兵士、交々出でて焚掠し、文武の第宅、蕩として荒野となる。・・・1479年11月、足利義政、遂に退いて東山に居り、銀閣を起こし、以て義満の金閣に擬し、争乱を以て意に加えず。・・・・

 

「概略」

1336年、足利尊氏は、京室町に幕府を開いてより、1573年足利義昭が織田信長に追放されるまで、室町幕府は実に237年にわたり続いたわけですが、応仁元年(1467年)8代将軍足利義政の跡継ぎ騒動で、東陣の総大将、細川勝元と西陣の山名宗全とを中心とした勢力間でし烈な内乱がはじまります。以降、11年に及ぶ争いで、京の町はすっかり焦土と化してしまうのであります。

この後、室町幕府は次第に弱体化し、いわゆる戦国時代へと時代は変化してゆくのであります。

 

改めて「日本外史の時代」考。

794年平安遷都~1118年平清盛誕生~1185年壇ノ浦の合戦(平安時代391年)、1192年源頼朝、鎌倉幕府~1336年湊川の戦(鎌倉時代144年)、室町時代(1336年~1573年、237年)、安土桃山時代(1573年~1598年)この僅か25年によって、戦国時代にから江戸時代へと引き継がれ、繁栄の礎が出来たのであります。

 

 

 

2017・7・13 匿名さん

          「いつも楽しく読ませていただいております」

 

石村先生のblog、いつも楽しく読ませていただいております。

なるほど、文人の文化が断捨離によってなくなるとはまさに人災ですね。要不用の判断力が等しく無いことが残念です。何事も過ぎれば毒ですね。断捨離の本にも、必ず他人のものは捨てないこと、と念押ししてあります。よほど、他人のものを捨ててトラブルになったんでしょう。

 

2017・7・6

山根兼昭さん

「藤井聡太4段出題の詰将棋」

 

すっかり時の人となり、瀬戸のヒーローとなった藤井四段ですが、昨年プロになった挨拶に、愛知県知事を訪問いたしました。その時知事にプレゼントした色紙に書かれた「詰将棋」を紹介します(写真)。新聞の説明書きを見ますと、プロでも2~30分かかる21手詰めの問題です。解答はありませんので、頼山陽ネットワークの皆さん、挑戦してみて下さい。

 


2017・7・3 匿名さん「『花月』も楽しみです

 

「花月」参加予約します。よろしくお願いします。

 三谷春、大変すばらしいお庭を拝見しながらの美酒、会席ランチ、和服でのおも  てなしなど色々と得た楽しい猿旅、有難うございました。

「花月」も楽しみです。

 

2017・7・2 ふぃーゆさん「通信は盛りだくさん!」

 

今回も通信は盛りだくさん!

長崎のお座敷、おいしそう。

行きたいな。

 

2017・7・1  匿名さん「アーア、行きたかったなあ

 

アーア、6月15日行きたかったなあ

皆様の充ち足りた表情、羨ましい🙆

また引き続き、お知らせお願いします

 

2017・6・28

山根兼昭さん

「藤井聡太4段・14才―新記録達成」

 

愛知県瀬戸市在住、将棋の藤井聡太4段が30年ぶりに29連勝の新記録を達成しました。地元では新聞のトップ記事で報道され、瀬戸市では広報大使にとの話も出ております。


瀬戸市は、私の住む尾張旭市、名古屋市にも隣接する陶器の町です。室町時代から発展した瀬戸焼は、多くの名工を輩出し、最近では7代目長江惣吉が曜変天目再現に取り組み、その作品を瀬戸美術館で展示しております。今年2月に「なんでも鑑定団」に曜変天目の茶碗が出品され、2500万円との評価がされました。それを見た長江惣吉は本物かどうか疑問だとも言っております。

 

14歳と言えば、頼山陽は14歳の正月、母 ?に「葵丑之歳偶作」なる詩1首を見せました。その一節「・・・安んぞ古人に類して千載青史に列するを得ん」と大志を詠っております。また、頼山陽幼少時の座右の銘は「汝、草木と共に朽ちんと欲するか。」

 

最近、各方面において10代の活躍が際立っております。しかし我々も大いに刺激を受け、まだまだ負けられないとの気概を感じている次第であります。

 

 

デザートまで美味
デザートまで美味

2017・6・17

グランマさん「最高のおもてなし」

 

最高のお天気のもと~ 倉橋・三谷春は素晴らしかったですね。
私にとっては、いままでで経験する最高のおもてなしというか、全てにおいて興味ある見聞でした。(興奮の連続でした)


ありがとうございました。ひとえに「頼山陽ネットワーク」のみなさまのお陰だと心からお礼申し上げます。

これからも時間の許す限りご一緒させて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

 

御所蔵の頼家書軸について解説される   「三谷春」の林英紀氏
御所蔵の頼家書軸について解説される   「三谷春」の林英紀氏

2017・6・16

梅庵さん「大変な眼福」

 

三谷春ツアー、ありがとーございます。
頼先生もおっしゃてましたが、たいへんな眼福であり、こんなに素晴らしい書に囲まれ幸せな時でありました。
無骨者には勿体のうございました。

 

 


2017・6・15 会員様「三谷春、楽しみにしております」

 

15日の三谷春の件につきまして、集合時間・場所等のご案内ありがとうございました。

 

倉橋はわりとなじみのある地域ですが、三谷春の蔵元様をお訪ねするのは今回が初めてです。梅雨の晴れ間の一日、参加者の皆様方と有意義な時間を過ごせることを大変楽しみにしております。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

2017・6・10

会員様「『耶馬渓』を購入」

 

いつも「頼山陽ネットワーク」を楽しく拝見しております。

近砂敦さんの『耶馬渓』を購入したいと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

 


会員様へ

 

「耶馬渓」をご購入いただき、ありがとうございます。

明日発送し、明後日にはお届けできると思います。

今後とも「頼山陽ネットワーク」をよろしくお願いいたします。

               「頼山陽ネットワーク」事務局

 

 

護岸工事後の「青の洞門」付近      2017・6・2
護岸工事後の「青の洞門」付近      2017・6・2

2017・6・7

匿名さん「なつかしい耶馬渓」

 

耶馬渓の情報をありがとうございます。

私は勤務の関係で別府支店、大分支店に勤務し、都合7年間大分市に住んでいました。耶馬渓や山國川の美しさは今でも目に浮かびます。


当時の観光地は菊池寛の小説の舞台となった青の洞門と耶馬渓のみでしたが、最近はすっかり変わっているのでしょうね。

大分支店時代は余裕もあり、休みの日は県内と九州一円を走り回っていました。山国町から耶馬渓、そして深耶馬渓を通り大野町?に抜けたドライブも素敵な思い出です。

余談ですが、大分市から日帰りで、久住連峰を7回も単独山歩きをしていたのてすよ! 行き帰りはマイカー運転、登山の疲れは麓の温泉で癒して。

また妻と一緒に、熊本の黒川温泉に日帰り入浴旅行、温泉手形を使って黒川温泉。当時は25旅館の温泉のうち23軒の温泉に入り、記念品もゲットしています。

一日に3カ所の温泉の入浴が限界なので、都合79回も通い、懐かしい思い出となっています。

しかし当時は頼山陽に関心も薄く、今となっては残念な気がしています。

 

                                

2017・6・6 山根兼昭さん 🔁 見延典子

 

見延典子さんへ

 

頼山陽が生前書いたものは「日本楽府」、これは将に歴史から学んだものの集大成です。収録されているうち「蒙古来」、「本能寺」は愛唱している詩の一つでありますが、高い歴史観を感じます。また、山陽の足跡をしらべていると、その地で読まれた漢詩の存在は、貴重な資料の一つであると実感しております。 (いただいたコメントのうち、関係分のみ掲載しています)

                                   山根兼昭

山根兼昭さんへ

 

話がかみ合わず、残念です。

お伝えしたいことは別に機会があれば、書きます。

                        見延典子

 

 

2017・6・5 山根兼昭さん 🔁 見延典子「江戸の文化」

 

見延典子さんへ

 

「江戸の文化を急速に独自に発展させたもの」

平安時代、内大臣菅原道真は894年200年続いた遣唐使船の派遣を中止いたします。その間、遣唐使によって唐からもたらされた新しい仏教文化として、経典(漢字)、お経(音楽)、仏画(絵画) 仏像(彫刻)、寺社(建築)などを、1118年に生まれた平清盛が実権を握り、世の中が安定すると次第に発展してゆき、鎌倉、室町時代にかけ醸成されるわけであります。また、大陸よりは、南宋の朱熹がまとめた「朱子学」や、明の「陽明学」が、秀吉の時代1582年には朝鮮より活版印刷(木版)が伝わります。戦国時代1861年京の冷泉家に生まれた藤原惺窩は相国寺の禅僧として儒学(朱子学)を極めます。そしてその弟子、林羅山は「方広寺の梵鐘に書かれた『国家安康』は家康を呪詛する意味だ」と進言して、大坂夏の陣の口実とし、家康に認められるわけであります。その後、林羅山は3代将軍の侍講とし家光の信頼を得て、羅山の私塾「昌平黌」は幕府直属となり、林家は代々大学頭(だいがくのかみ)として以降250年間にわたって江戸時代の儒学を担うのであります。1790年老中松平定信は「寛政異学の禁」を発布して、朱子学は武家から知識人など急速に普及し、漢字や、漢文を読み書きできる人が激増するわけであります。それと平行して町民文化の発展も見逃せません。

 

中村真一郎は「頼山陽とその時代」の中で、「日本外史が発行されると、爆発的に売れ、漢文の読める人は殆ど読んだであろう。その数、数十万部と思われる。」と言っております。江戸時代265年にわたる繁栄は、それまで天平から江戸まで1200年にわたって培われた文化が、漢字文化に寄る情報の共有により一層発展したものと思われます。江戸後期その一翼を担ったのが頼山陽であることを忘れてはなりません。此の礎があって、明治維新があり、今日の日本文化があると思います。

                                         山根兼昭

山根兼昭さんへ

 

頼山陽が生前、出版できたのは『日本楽府』だけです。このことを山根さんはどのようにお考えでしょうか? お聞かせください。

                         見延典子

 

 『校刻日本外史』川越市立博物館
 『校刻日本外史』川越市立博物館

2017・6・4

見延典子から山根兼昭さんへ

 

山根兼昭さんへ

山根さんが書かれている「多くの人々が、漢字の読み書き、知識を得て江戸の文化は急速に独自の発展をする」の根拠とするものを教えてください。

               見延典子

 


 会場風景
 会場風景

2017・6・3

山根兼昭さん

「尾張旭市民塾開催 第1日目」

 

6月2日(金)10:00~12:00、第3回尾張旭市民塾を尾張旭中央公民館、26名の出席を得て開催いたしました。


今回はプロローグとして、頼山陽の人物像を相対的に説明するため、1、儒学者、2、文学者、3、歴史家、4、芸術家、5、思想家、6、経世家、7、ロマンチストと分類して、このような人物を育んだ江戸時代の特徴を説明いたしました。

 

1603年、徳川家康は江戸幕府を開いたとき、ブレーンとして時の儒学者、林羅山を登用いたしました。そして第3代将軍家光の教育係をはじめ、代々林家を「大学頭」として、儒学(朱子学)を奨励し、1790年「寛政異学の禁」を発布して、朱子学を江戸の学問としたのであります。またその学問を裏で支えたのが、印刷技術の発展であります。

 

15世紀初めにドイツのグーテンベルクが発明した印刷技術は、いち早く紙を発明した中国、韓国と伝わり、頼山陽が柴野栗山より「これからは通鑑綱目を勉強しなさい」と言われたころには韓国で印刷されたものが紀州藩に伝わっており、それを元に多くの人々が、漢字の読み書き、知識を得て江戸の文化は急速に独自の発展をするのであります。将に頼山陽は時代の申し子としてその文化、知識を享受して成長したのだと思います。

 

*以上は私流の発想ですので、コメントがあればお願いします。

 

 

2017・5・25 平本成美さん 🔁 見延典子「廉塾に観光客を」

 

福山市の文化観光振興部のA学芸員から紹介されて連絡させていただいています。私は,平本成美と申します。「福山未来づくり100人委員会」の一員です。これは,枝広市長さんの公約です。「福山の30年後を見据えた街づくり」を市民からアイディアを出してもらって,各グループごとに話し合い,集約して来年3月にはまとめる予定です。私は「観光部会」に属しています。鞆の浦,福山城,福山駅前,ばら公園,神辺の菅茶山の廉塾など数カ所を周遊していただきたい(長く福山に滞在してほしい)というのが,部会10人の総意ですが,それぞれが推薦する場所をもっと掘り下げていく必要があると思いました。実は,私は福山市に住んでいませんので,いろいろな場所に行ってみて魅力と課題を見つけてきました。鞆の浦,福山城,ばら公園には,多くの観光客を引き付ける魅力があります。福山駅前はその部会があるので,そちらで考えていただこうと思います。大きな魅力と潜在力を持ちながら,今一つ観光客を呼び込めていないと思うのは,菅茶山の廉塾です。まず,県立図書館で福山の歴史の本を借りて読んでみましたが,菅茶山の廉塾で学んだ人たちとの交流が,一つのドラマのように思い描けないのです。そこで,福山の歴史に詳しいA学芸員を紹介していただき,今日お話を伺って来ました。いろいろ教えていただき,話し合いもできました。見延典子さんの「頼山陽」を読んでみなさいとのことでしたので,読んでみます。いろいろ読んで学んで,最終的には菅茶山(主役か脇役かはわかりません)のストーリーを描けないものだろうか?と考えています。史実を基にしたドラマなら,より多くの人々にアピールできるのではないかと思います。大河ドラマや朝ドラは無理としても,単発ドラマかアニメが紹介されると,認知度があがると思うのですが…。今後ともよろしくお願いします。返信をお待ちしています。

                         平本成美

平本成美様

 

初めまして。「頼山陽ネットワーク」公式ホームページにメールをくださり、ありがとうございます。また「福山未来づくり100人委員会」に関する情報もお寄せいただき、重ねて御礼申し上げます。

 

さて菅茶山についてですが、私は平山さんとはまったく異なる印象を持っています。メールに書かれているA学芸員をはじめ、福山の、特に神辺にゆかりのある、心ある人々は菅茶山をとても大切にされて、よく調べられられていると思いますよ。もし問題があるとすれば、菅茶山にかかわりのある団体間の連携不足かもしれません。それぞれが良い活動をしているのに、つながりが持てないため大きな力や流れに発展していないのです。

(頼山陽ネットワークを立ち上げた理由はそのあたりにあります)

 

もう一つ、「廉塾」をとりまく環境についても考える必要があろうかと存じます。私は何度か廉塾を訪れましたが、残念ながら内部には入ったことがありません。ご子孫の方がお住いと伺いました。多くの観光客を呼ぶには「廉塾」を公開することが前提になるのではないでしょうか。ただ、結論からいえば、ご子孫にそれを求めるのは無理な気が致します。

 

甚だ粗略ではございますが、ひとまずお返事と致します。「福山未来づくり100人委員会」の皆様とご議論され、よりよい道筋を見つけられますことを願っております。

                          見延典子

 

2017・5・21 匿名さん「剪定作業、気をつけて」

 

剪定作業、身体に気をつけてください。

当方も、狭い庭の草取りに疲れ、砂利を敷き詰めようと考え、砂利3(20kg)

を運搬中ぎっくり腰となり、この一週間その痛みと格闘中です。 

 

 

2017・5・12 会員様から「耶馬渓」「三谷春の会席ランチ」

 

会員様から

『耶馬渓』一冊、よろしくお願いいたします。

  

  会員様へ 

   ご購入いただき、ありがとうございます。本日発送し、明日には

   お手元にお届けできる予定です。

 

 

会員様から

 ご案内のあった「三谷春で会席ランチ」に2名参加ということで

 申し込みたいのですが、よろしいでしょうか?

 

   会員様へ

    「三谷春で会席ランチ」にお申込みいただき、ありがとうございます。

      しかしながらホームページにも紹介の通り、まず4月28日会員様に

     ご案内し、続いて一般の方にご案内した5月3日、満席になりました。

     ご要望にそえず誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます。

       今後も会員の皆様が気楽にご参加いただける企画を考えてまいります。

       その折には何卒ご参加下さいますようよろしくお願い申し上げます。

                     頼山陽ネットワーク事務局

 

 

2017・5・11

石村代表から麻生由紀さんへ

「売茶翁の特集」

 

新幹線の中で 賣茶翁→石村 と連想してくださいまして有難うございます 早速手に入れます

画を見ると 鶏まで賣茶翁のサロンに(笑い) 実に豪華です

 若冲→鶏 なんでしょうか 読んでみなけりゃわかりませんよね

 


 

元京都国立博物館の狩野さんが書かれていました。この本は駅で売っています。もしご覧になりたければ、お渡しすることも可能です。

村さんも興味が御ありかもと思っています。

 

 

2017・5・11

麻生由紀さんから石村代表へ

「売茶翁の特集」

 

いつもお世話になります。

先日新幹線のグリーン車に乗った時、この本がありました。

「売茶翁の特集」です。何か御役に立てばと思いメールしました。


2017・5・3  ナンシーさん、愛山さん テングさん

                  「旅猿ツアーに参加します」

ナンシーさん

素敵なお誘いありがとうございます。

参加します。よろしく。

 

愛山さん 

ご案内ありがとうございます。

まだ空席がありましたら、参加させてください。

 

テングさん

夫婦で参加させていただきます。よろしくお願いします。

 

2017・5・1 山根兼昭さん「ミニトマトの育て方」

 

「見延典子」のグログにミニトマトの苗を植えたことが出ていましたが、私は毎年植木鉢での栽培をしておりますので、ご参考にしていただければと思います。

ミニトマトの品種は色々ありますが、市販されているものでは「アイコ」がベスト、「ノリコ」ではありません。(ゴメン)

高い方の苗は接ぎ木した苗で、強く沢山なります。鉢は大きいもの(直径4~50センチくらい)に1ッ本にします。

れでも実のなるころには鉢一杯になり100個くらいはできます。枝が張りますので、伸びてきたら折れないように支えをします。

1鉢に2~3本にすると、肥料不足になり実が実りません。

私もこれから植えますので、結果は後日ご報告いたします。

 

 

2017・4・30  角増正裕さん、梅庵さん

                  「旅猿ツアーに参加します」

 

角増正裕さん

「三谷春で会席ランチ」参加を申し込みます。

よろしくお取り計らいください。

 

梅庵さん

倉橋の酒蔵とは面白そう。よろこんで参加させていただきます。よろしくお願いいたします。

 

2017・4・23  赤松昇さん

            「ホームページとブログを立ち上げました」

           

 姫路の赤松です。

 

皆さんに、わかりやすく仁寿山校や播磨を紹介したいという思いで『歴史の街・播磨』のホームページとブログを立ち上げました。私が住んでいます地から播磨の歴史を探索していくというコンセプトでつくっています。

 

頼山陽、河合寸翁、仁寿山校、赤松円心、黒田官兵衛、姫路城、そして、『易経』も織り交ぜながら、且つ文章、図、写真、動画などを挿入し、わかりやすく紹介しています。頼山陽の私の記事が増えましたら独立してページを作りたいと思っています。

 

皆さんに見ていただければ幸いです。

 

『歴史の街・播磨』 

https://synchronicity64.wixsite.com/harima

 

柿本神社に咲くカラタチの花
柿本神社に咲くカラタチの花

2017・4・21

グランマさん

「十数年ぶりの柿本神社」

 

好天のうちに、高角詣でができまして感謝です。ありがとうございました。

 


私事、十数年前に柿本神社のふもとに主人が単身で赴任しており、土手を登れば高津川、角を曲がって数メートルいけば柿本神社そして裏手に続く万葉公園(万葉の山)・・・ 益田は歴史のある街なので、お寺、神社、雪舟さんゆかりの場所など・・ いろいろ歩いたものでした。

 

今回、変貌しつつある石見国にも驚いたことでした。

(どこにも道路が出来ますねー)

 

※グランマさんのブロググランマのつれづれでも今回の旅猿ツアーを紹介してくださっています。ぜひアクセスください。

 

 

久留米つばきの中の「正義(まさよし)」という品種です。

もう一種、 ファイヤーダイスバーにも似ているような? 

造園屋さんに聞こうと思いつつ、確認できていません。因みに、私の母は「肥後椿」という熊本の椿の会に入っています。

 

2017・4・9

ちづPさん「久留米つばきでは?」

 

「見延典子のブログ」で、名前がわからないと書かれていた椿と似ている椿をインターネットで見ました。

写真は2枚ともインターネットより
写真は2枚ともインターネットより

ちづPさんへ

ありがとうございます。

インターネットを見ると、赤と白の斑の椿が多数出ていますね。自然交配したか、人為的に交配したのでしょうね。

「肥後椿」という会があることも初めて知りました。「椿」の世界はいろいろ奥が深そうですね。

           見延典子

 

 

夫の生家に咲く椿。姑は「しおがえし」と呼ぶが、果たして正しい名前なのか。

       見延典子のブログより


2017・4・9 池田さん「斎藤選手の名前が…」

 

斎藤選手の名前が間違っていますよ。

正しくは「佑樹」です。

 

池田さんへ

ご指摘いただき、ありがとうございます。

早速、訂正致しました。

                 頼山陽ネットワーク事務局

 

2017・3・26 桑野恭彬さん「多万さん、無念さを明るく表現」

 

多万さんのお母さんの被災のことお知らせいただきありがとうございました。25日付の中国新聞19面「くらし」の投書に多万さんの「白寿の罹災」が載っていましたね。

 

無念さを明るく表現されていました。多万さんがそのマンションから嫁がれたとか、感傷的になられたことでしょう。

 

それにしても多万さんの文章は起承転結が分かり易く見事です。あらためて「文学者」と思ったことです。

 

 

2017・3・11 竹本義明さん「違うのではないかと」

 

これは有意義なブログがあるっ思って、抜き読みをしていたら、違うのではないかと思う部分があったので、2点のみ。

 

2016.3.21 酒と茶の中で「博燦」とあるのは「博粲」の誤記で、「お笑いぐさに」という謙遜語です。「一粲を博す」という言葉もあります。

 

2016.4.12 末尾の近くに「臘望」としているのは「彌望」だと思います。ビボウは広く見渡す意。

                   いずれも「頼山陽の手紙」

 

竹本義明さんへ

 

当ブログの記事  有意義なブログがあるとアクセスしてくださる方がおられたとは 只 ありがたいです

 

御指摘部分  改めて元本を見ますと 3月21日は誤記しておりました 是は 古文書の常識でした

4月12日は 日付けと思い込んでおりました

貴重なご指摘 「彌望」 ぴったりきますね

 

これからも 御教示御批正 よろしくお願いします

多方面から光が当たり 山陽をより理解することが出来ればと思います

 

               頼山陽ネットワク代表 石村良子

 

 

 

2017・3・3 匿名さん「充実していますね。びっくり!」

 

「頼山陽のネットワーク」のホームページが

充実していますね。びっくり!

 

 

2017・2・27

会員様「ブログで『汚名』紹介」

 

私のblogGrand-f-pub(趣味宝庫)で以前、見延典子先生の名著である『汚名』を紹介させていただきました。(素晴らしい書を知って頂くという思いなので、失礼にはならないと考えPRさせて頂きました)

 

会員様のブロブはこちらです。

              頼山陽ネットワーク事務局

 

2017・2・25

山根兼昭さん「見延家ルーツリポートに思う」

 

「見延家ルーツリポート」興味深く拝見いたしました。

フェンシングの見延選手から始まって、見延家のルーツにまで辿り着いた。2月1ヶ月間で11回に及ぶレポートに見延さんの小説家魂を感じました。それだけ奇跡があったり、身近なことであったと思います。

 

頼山陽は、揮毫旅行で岐阜県の美濃市、郡上市にしっかりとした足跡を残しておりますが、そこから一つ山を越えれば、越前であり加賀の国です。美濃善応寺の総本山は福井の永平寺です。

 

福井の女流詩人、片山蘭女は京都で山陽より漢詩を学びました。そして蘭女のために「橋北橋南花影層なる・・・」の詩を書き、この紙幅は後に藩主・松平春嶽に献上されたのであります。また、西部萬年に贈った詩には、「・・・北行幾里なるか、林端忽ち得る賀州の山」と、もうすぐそこに越前があるのに行けなかったことは残念でありました。

 

大河ドラマ「直虎」にも「川奈のかくし田」がでてきますが、当時「国中のかくし田」を守るために「ごぼう講」が出来、今日まで300年余も続いていることは、飢饉など村を守るため如何に苦労をしたか、その生き証人の様な気が致します。

 

私が住む愛知から福井県まで車で2~3時間の身近な存在です。1年を通して、グルメ、レジャー、温泉など愛知の奥座敷的存在です。福井は、コメはコシヒカリ、寿司も安くてうまい、酒もおいしいはずです。

 

山根兼昭さんへ

ご指摘のように越前国は美濃国と隣接しており、「見延」という姓も「美濃」にいわれがあるでは、と想像しております。見延和靖選手のフエンシングでの活躍を見るにつけ、越前国で農民になる前は〃サウスポーの侍〃として槍の一刺しが得意だったのでは、などと想像がふくらみます(笑)

福井県はコシヒカリの発祥の地だそうですが、残念ながら「酒は今一つ」とこれは地元の方から伺った話です。

                           見延典子

 

2017・2・19

会員希望さん「頼山陽先生の人としてのすばらしさを」

 

私の街に仁寿山があり、江戸末期に姫路藩家老・河合寸翁が設立した仁寿山校がありました。河合寸翁は頼山陽先生を招聘し、先生は仁寿山校の学生の為に講義を授けたと記録にあります。私はそのことを知り、広島の頼山陽記念館や竹原に行ったことがあります。私は頼山陽先生と易経に興味を持っています。頼山陽先生の人としてのすばらしさを知ることができればと思っています。

会員希望さんへ

拙著『頼山陽』で頼山陽が仁寿山校で講義をする場面を書きました。

ただ、仁寿山校はすでになくなっているという話でした。もし山陽の足跡が御地姫路に残っていましたら、お知らせください。

                         見延典子

 

2017・2・9

松崎正董さん「軍都広島も忘れてはならない」

 

2月7日のホームページ比治山「平和の丘」構想着手へ味深く読ませていただきました。全面的にご意見に賛成です。

 

広島が世界最初の被爆都市として、「平和」を強調するのは当然ですが、その原因となった「軍都広島」も忘れてはならない重要な歴史的事実です。

 

広島市民は「陸軍墓地」が比治山にあったこと、加藤友三郎の銅像もここにあったことを語り継いで行かなければなりません。軍都広島を意識的に無視しがちのように思います。

 

 

2017・2・6

匿名さん「日本外史の原文を読みたい」

 

歴史物の漢文書籍に興味の有る者です。『日本外史』の原文(書き下しではない漢文)を読みたいのですが、その様な書籍は御存知無いでしょうか。出版元は日本でなくても構いません。

 

回答

書き下しではない原文、いわゆる白文による『日本外史』は、現在、日本国内で刊行中のものはないと思います。古本として見かけることもありますが、返り点などが打たれている場合がほとんどです。また2015年9月に張暁輝という人物によって北京大学出版社から刊行された『日本外史』はこちらで紹介しましたが、横書きの上、句読点が打たれています。

 インターネットまで広げていいのでしたら、早稲田大学古典籍データベース(まず読みたい『日本外史』の写真をクリック)で、3種類の『日本外史』を白文で読むことができますし、ダウンロードもできます。

ご参考になさってください。

 

 

2017・1・31 会員様「旅猿ツアーに参加」

 

会員様

「来る4月18日、旅猿ツアーに参加させていただきますのでよろしくお願いいたします。また皆様にお会いできることを楽しみにしております。」

 

会員様 

「旅猿ツアー、是非参加したいと思います。」

 

 

見延典子のエッセイ集 2004年南々社刊
見延典子のエッセイ集 2004年南々社刊

2017・1・25

山根兼昭さん

「名古屋の書店で発見

      『頼山陽にピアス』」

 

先日、少し時間があったので、大きな書店に立ち寄ってみました。名古屋でも「汚名」あるかナア、と新刊コーナーを見ましたが、ありませんでしたので、一般の書籍棚を見ていると、「頼山陽にピアス」。大変な掘り出し物を見つけました。早速読みました。


「遅れてくる人」 私は詩吟の会に入って30年になりますが、その間教えられたことは、「遅刻は最大の悪」です。通常30分前までには着くよう心がけます。次に教えられたことは「品格」です。先日、大相撲の解説で、「以前、横綱の朝青龍に、品格とはどうゆうことかと聞かれたそうです。解説者曰く、1つ・自分に厳しい事、2つ・他人にやさしい事、3つ・目標を持って努力すること。」

 

「頼山陽にピアス」 先ず本のタイトルについて、「すっぽらぽんのぽん」数年前2回読んでも意味が解らず、頼山陽史跡資料館に電話いたしました。説明いただいた方は花本さんだと後でわかりました。それから、「頼山陽、上中下」「竈さらえ」などを読みました。「頼山陽にピアス」は「すっぽらぽんのぽん」の少し後に発行されたと思いますが、今まで発行された数冊の解説書の様な感じが致しました。

 

本文「思えば頼山陽なんぞ、五十三年間の生涯を駄々っ子のように生きた萬年問題児であった。・・・あーあ、いい加減、山陽とは手を切り、吉田松陰先生についてもっと知りたい。と思うものの、松陰先生は親子二代にわたって山陽の「日本外史」を愛読していたと知ると、もうしばらく山陽にかかわっていようと考え直す私なのである。」

 

「困ったときの頼山陽」まさに「頼山陽にピアス」ですね。

 

山根兼昭さんへ

「お宝」を発見しましたね(笑)

帯のキャッチコピー「最近読む本がないとお嘆きの皆様へ」は現時点でもじゅうぶん通用すると思っております。

                         見延典子

 

2017・1・4 宇津志さん「ルツ解明・繋がりに驚き」

 

拝見しておりますとも~

お母上のご先祖につながる徳島県の井川さん・・・

屯田兵墓地での墓参、ママ友kさんの娘さんの結婚相手の名字が「井川さん」で、しかも徳島の方だということで繫がりを直感されているところまで、私も見延さんならずともワクワク期待して・・・

ご先祖のルーツ解明・繫がりを驚きをもって待っております

 

2016・12・22  匿名さん「来年の日帰り旅行」

 

来年の日帰り旅行楽しみにしています。

 

匿名さんへ

2017年の「旅猿ツアー」は、目下、計画を進めております。決定次第、会員様優先で募集を開始し、そのあとホームページ上で発表します。ご参加をお考えでしたら、会員登録をお勧め致します。よろしくお願い申し上げます           

                  頼山陽ネットワーク事務局

 

2016・12・15

角増正裕さん「『もう頬づえはつかない』を読みました」

 

デビュー作『もう頬づえはつかない』を読みました。一気に読んだ後、映画も見たいなと思いました。


『限りなく透明に近いブルー』が昭和51年発表、この作品が昭和53年で『ベッドタイムアイズ』が昭和60と自分の読書歴から3つの作品が並びました。どれも文部省推薦でないのが素敵です。

 

取り寄せた中古本の第一刷が昭和53118日で、4月弱後昭和54226日に第十刷となっています。鹿児島に来るかとの話が出たあと産婦人科に向かった場面、先生が広島にいることが思い浮かびました。先生のご主人が法学部出身というのもいろいろ想像して読みました。

 

作家生活の記念碑的作品ですので、『賴山陽』『汚名』で見延文学に出会った方も『もう頬づえはつかない』読んでみていただきたいと…


2016・11・23

匿名さん「追っかけ日記がとどきません」

 

おっかけ日記がとどきません。ぜひぜひ送ってください。

匿名さんへ

「追っかけ日記」は会員様に配信しております。ご住所、お名前、お電話番号をお知らせくだされば、すぐにお送り致します。

 

2016・11・20  

山根兼昭さん「石村代表の『頼山陽に書を頼むといくら』に興味津々

 

文化10年(1813年)825日付、山陽が村瀬藤城に出した手紙、ー藤城812日まで京、車屋町の塾に滞在 「外史写本之儀、承知仕候・・・御承知之通、三両壱歩、後便ニ御遣し下され候べし」

村瀬藤城に請求した写本代は3両1歩、今のお金で約31万円です。

 

頼山陽は、若い頃よリお金には人一倍苦労しており、それが経済観念を発達させたようです。山陽は詩人とか歴史家と言われることを好まず、「経世家」を自負していたようです。

 

京で生活を始めたころ、祇園のお茶屋より、部屋に飾る額を頼まれますが、断っておりまして山陽のプライドを感じます。しかし生活のため姫路とか淡路島に出張講演をして潤筆料を得ております。

 

山陽は父春水より「旅猿」と言われたように、生涯を通して、揮毫旅行をライフワークとしておりましたが、此れは偏に生活資金を稼ぐ手段だったわけです。

 

一番ながい旅は1年に及ぶ九州旅行でしたが、その3年後に初めてのマイホーム「水西荘」を持つことが出来ました。一説によりますと、自家の値段は二百五十両(今なら2500万円)でその多くは九州旅行で稼いだとされその六年後に別邸を設け「山紫水明処」と名付けました。

 

山陽の晩年には高い名声を得て、姫路藩の講演料 五十両、彦根藩に至っては百両であったと言われております。

 

 

 

2016・11・16

会員さん「ちょっと涙が(T_T)

 

(「追っかけ日記16」を読んで)

いいお話聞かせていただきました。

ちょっと涙が(T_T)

 

2016・11・9

山根兼昭さん「痛いようにわかる 山陽の心情」

 

石村代表の「頼山陽、入京の心配事」 感激しました。

 

山陽の生涯の出来事は多くの文献に、いろいろ書かれておりますが、これほどリアルに山陽の本音が書かれたものは初めてです。

 

中井履軒の「頼山陽の親不孝論」 履軒は大坂で父春水の親友であり、山陽のことも幼少時よりよく知っていて、その後の成長にも関心をもっていたのですね。

 

山陽が脱藩事件を起こし、やっと解放されて菅茶山の世話になる。茶山に乞われながらも、意を決して京へ出たのが32歳の春です。

 

山陽は何の迷いもなく上京したのかと思っていましたが、小竹への手紙の中で、「帰国すれば落城のそしりは免れない、帰れば二度と出ることはむつかしい。」こうするしかなかったとの思いが痛いようにわかります。

 

京での最初の年は生活も苦しく、本音を語ったのではと思いますが、あの剛直?な山陽も人間だなあと安心いたしました。

 

文面の後半に、3年後に「家翁も上国し同遊・・・」とあり、日付五月九日は1814年(山陽35歳)でしょうか。

 

 

 

長男浦上春琴の筆による父浦上玉堂の像
長男浦上春琴の筆による父浦上玉堂の像

2016・10・12

匿名さん「自画像ではありません」

 

10月11日、坂田進一先生の写真の右下の絵に『玉堂の自画像』と書かれていますが、あれは自画像ではなく、春琴(長男)の筆によるものです。 (既に大勢の方がご指摘されていることと思います)


匿名さんへ

ご指摘をいただき、ありがとうございます。

訂正いたしました。

 

 

2016・9・14 山根兼昭さん「9月15日は中秋の名月」

 

ー9月15日・陰暦八月十五夜ー

 「頼山陽、中秋の名月を武元登々庵、浦上春琴と同じく二条大橋に見る」

 

豆莢秋に肥えて 芋魁柔らかなり  牀を借る河亭酒は油の如し

楼台何れの処か 糸竹ならざらん  吾曹も亦た観月の遊を為す

同じく京城に寓して 今幾許ぞ    六年  此の好中秋無し

旧を話して識らず 夜己に午なるを 月は灘心に満ちて 数ふべし   

 

(大意)秋になって莢豆はふとり、芋頭は柔らかくなって食べ頃だ。鴨川沿いの茶屋で腰掛に陣取り,濃醇な酒を酌み交わす。あちらこちらの酒楼から笛や三味線の音が聞えてき、我々もこうして月見の遊びをしている。我々がこうして京に居を定めるようになって、どれほどの年月が経ったであろうか。数えてみれば六年になろうか、しかしその間、この様な素晴らしい中秋の日はなかったなあ。

来し方を話し合って既に真夜中になったのも気付かず、ふと川面に目をやると、皓皓と輝く中天の月が隈なく早瀬を照らし、川底の石が数えられるほどだ。

 

 文化十四年、山陽三十八歳の作、父春水の喪中で酒は絶っていたはずだが、名月の元友あり、この日だけは特別だったのかな。

 

 

 

2016・9・7

山根兼昭さん「『耶馬渓』(近砂敦著)は 中津市の貴重な資料」

 

耶馬渓』拝読いたしました。

 

著者 近砂敦さんの郷土愛、学識、豊富な資料、登場人物など非常に重厚な内容で、今後、中津市の貴重な資料の一冊になると感心致しました。

 

収録されている『獲物』(見延典子著)は、手元の「没後百五十年頼山陽展」に掲載されている「耶馬渓図巻」を見ながら、本文を読みましたが、如何に山陽がこの山国谷に魅せられたか、文中に、馬を何度も止め、馬方が急くのも無視して見入る様子が表現されております。

 

また登場人物も、広瀬淡窓、田能村竹田、雲華上人他多彩な内容で、読み終えた感想は、耶馬渓の大岩、奇岩の織り成す渓谷美の重厚さに対し、「獲物」は、山国川の渓流そのもので時々岩にぶつかりながらも清涼感にあふれ、両者の軽妙なコントラストが爽やかでした。

 

今私が美濃での調査の中で、山陽の渓谷愛を感じます。西部萬年への詩の中に「奚嚢、探勝 百峰の間・・」と飛騨の山々と長良川の渓流が織りなす景色を、これは何という景色かと、感嘆の気持ちを表しております。将に山陽の詩の中に山陽の息ずかいを感じます。

 

 

 

2016・8・24 会員希望さん「『日本外史』現代語訳は?」

 

見延典子さんの「頼山陽」を読んで興味を持ちました。

日本外史も読みたいのですが、原文には歯が立ちません。

わかりやすい現代語訳はありませんか。

 

『日本外史』現代語訳についてご紹介します。

 

1、頼成一著『日本外史解義』(上、中、下巻 1931年 弘道館)

読み下しと訳文がついていますが、昭和6年刊行ですので、その時代なりの解釈として読む必要があります。「日本外史を読む会」(広島市)でテキストとして使用しています。

 

2、藤高一男著『日本外史を読む』(全5巻 2006年)

最も新しい全訳です。藤高氏は以前、上記「日本外史を読む会」の講師を務めていらっしゃいました。

 

3、日本の名著28 頼惟勤著『頼山陽』(1979年 中央公論社)

 (1984年 中公バックス 内容はほぼ同じ普及版)

全訳ではありませんが、一部が「抄」として掲載されています。解説もあり、入門書としてはお勧めです。

 

但し、残念ながら1、3はすでに絶版ですので、一般書店では取り扱っておりません。ご参考になさってください。

 

 

2016・8・15 山根兼昭さん「終戦の日に思う」

 

昭和20年8月15日、小生8歳(小3) 愛知県知多郡南知多町在住

当日は朝から快晴無風、8月の太陽がじりじりと照り付けておりましたが、親から「戦争が終わった」と聞かされ、子供心に体の力が抜け、暑いはずなのに体の血の気が引いたように、汗一つでなかったことを鮮明に覚えております。

住んでいたところが海岸近くで、海軍の格納施設があり、前日までグラマンの襲撃が毎日のようにありました。

時には流れ弾が家の中に来るので、畳を起こし壁にして隠れておりました。

当時は、都会では食糧難で苦労していたようですが、我が家は米も作っていたし、舟が出るとカニやエビなど舟が沈むほどとれ、ソーメンのつゆはカニのだし、今でも食べられないような毎日でした。

私が昭和28年より名古屋の高校に通うようになりました。当時の話題は、終戦当時の食事情でしたが、田舎での話をすると「お前は非国民だ」とよく言われたものです。

その後、健康にも、仕事にも、趣味にも恵まれ、集大成として頼山陽に会えた。

わが人生に悔いなしです。

「頼山陽ネットワーク」の皆々様方のご多幸を祈念申し上げます。

 

 

2016・8・10 山根兼昭さん「頼山陽考その2

            石村代表のブログ『端渓の硯』

 

頼山陽が初めて「端渓の硯」を見たのは34歳に時、美濃の善応寺で禅智和尚より「寺の宝と言って出された端渓の硯と,程君房古墨」で、次のような詩を残しております。

 

善応寺に禅智和尚を訪う

端研水を呵して玉質を試む

程家宝墨 帯こおらず

橐(たく)を探し詩を写して君と与に看る

燈明るくして方丈 夜促膝

 

大意

有名な探渓の硯に水を注ぎ試して見たが、やはり玉質で少しも水を吸わない。誉れ高い程君房の貴重な墨をすって使用したところ、さすが筆ののりは良い。せっかくだから、旅の途中で得た詩を浄書して、禅智師と一緒に鑑賞、我々は夜の更けるのも気付かず、膝を寄せあった。

 

頼山陽は数年後、村瀬藤城に「あの硯をもう一度見たい」と書簡を出しております。

 

 

 

2016・8・6 山根兼昭さん「頼山陽考① 山陽と顔真卿」

 

頼山陽の生涯を垣間見ると、多分に唐の時代の影響を受けているように思います。山陽は、14歳の正月、江戸の柴野栗山より「通鑑綱目」を読むように言われます。それで、早速「通鑑綱目」、司馬光の「資治通鑑」を読み、その中で特に影響を受けたのが、玄宗皇帝の家臣、顔真卿であったと思われます。

 

山陽は「題陸羽像」の詩の中で、陸羽、李白、張旭のことを、「李白、張旭は唐代一の酒豪、陸羽は煎茶の祖師」と詠い、陸羽は顔真卿とは深い関係にありました。顔真卿に係る有名な話は、「平原の太守であった顔真卿が、安禄山の軍を撃退し、玄宗皇帝に称賛された」とか。当時、王羲之が書の大家として君臨していたが、楷書の顔真卿、草書の張旭が対抗し評価を得ていた。

 

外山軍治著「顔真卿・剛直の生涯」の中で、玄宗の家臣として、文人として生涯を信念に従い、剛直に生きた。平原での活躍について山陽は二首の詩にしておりますが、若き山陽が、「通鑑綱目」の中にいる顔真卿に共感して、山陽のその後の人生観を形成したのではないかと思う次第です。

 

頼山陽は、儒学者の家庭に生まれながら、自らの人生を剛直に生き抜いた。将に信念において顔真卿を連想させるのであります。

 

2016・7・14 山根兼昭さん「見延さんのルーツ探し」

 

同姓の誼といいますが、そのお相手が素敵なオリンピック選手。誰でも応援したくなります。ルーツを探したくなります。その結果が、福井の越前市であった。事実は小説よりも奇なりといいますが、見延家のルーツが福井であったとはなんと言う因縁なのかと思います。

 

幕末の福井藩は、藩主松平春嶽、藩士橋本左内、財政の由利公正、客人・熊本藩士横井小楠、土佐藩士坂本竜馬他、皆 頼山陽の「日本外史」を耽読し、日本政記、通議を読んで活躍した人ばかりです。

 

中でも橋本左内は大の頼山陽フアンで、先日福井美術館で展示のあった山陽「橋北橋南・・・」の詩幅は左内愛蔵で、安政五年十二月、大獄で身を案じた左内が春嶽に献上し、その後を託したものです。

 

また、愛知から福井までは車で2時間くらい、丁度、広島から鳥取くらいの感覚であると思います。

 

私も福井へは、レジャーでは魚釣り、ゴルフ、観光では永平寺、東尋坊、蟹のシーズンには越前、と身近な存在で有りますが、何か今回のことで一層近親感を覚える次第です。

 

 

2016・7・2  山根兼昭さん「NHK『あさいち』で桃井かおり」

 

7月1日のNHK「あさいち」に女優の桃井かおりがゲストで出演されました。

最近ブラジルで自ら監督として映画を作られたようです。

 

桃井かおりが映画に初演した作品が見延典子著「もう頬つ゛えはつかない」で奥田瑛二と競演、映画の画面と二人の会話もあり興味深く拝見致しました。

 

見延さんの処女作が映画になり、作家人生の素晴らしいスタートとなったのだなと実感致しました。

 

同姓の誼から発展したこのたびの件、小生 福井には色々思いも有りますので、全部見てコメントさせていただきます。

 

 

 

   見延典子
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 近砂敦著『耶馬渓』

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