美しい越前和紙のテーブルセンター(越前市役所)2016・6・28
美しい越前和紙のテーブルセンター(越前市役所)2016・6・28

2016・7・1

宇津志さん

「見延和靖選手、すごい展開に」

 

同じ姓ということから「見延和靖」選手を応援~ という記事に興味を持っていましたが、すごい展開になりましたねー


見延和靖選手の壮行会(しかも越前市の)に出席され、和靖選手のお隣席、ツーショット撮影(本当にイケメンの方)

そして、

見延さんが一番興味を持っていらしたであろう ”見延姓ルーツさがし”

福井から北海道への移住の歴史があったこと・・・

なんと「見延」姓の集落があるという「国中」へ行かれることになる。

この時点で見延さん! こころ踊りましたね・・?

 

ご尊父が書き残されていた「戸籍の写し」高祖父(5代前)

「見延重右衛門」さんの本籍地をご自身の目で確認することができ、

まぁ~~ 胸高鳴ったことでしょうー

あなたの行動力のなせる結果ですが、感動が伝わってまいります。

わくわくするお話でした。 (*^_^*)

 

 

2016・6・18 山根兼昭さん

         「シャクナゲ」ではなく「シャクヤク」では?

 

「見延典子のブログ」のご紹介を拝見致しました。

 

私も庭で二十種類位の花木を育てておりますが、ご紹介の花は、花びら、葉の感じでは、「しゃくなげ」ではなく「しゃくやく」ではないでしょうか。見間違いであればごめんなさい。

 

しゃくやく(芍薬)は非常に育てにくい花で、庭の場合 日当たり、水はけ、周囲の樹木など注文が多く中々花が咲いてくれません。我が家でもやっと最近咲いてくれるようになり、玄関にも生けることが出来ました。

 

山根兼昭さんへ

 

ご指摘いただき、ありがとうございました。

あわてて訂正致しました。

 

石楠花と書いてシャクナゲ、芍薬と書いてシャクヤク。

勉強になりました!

                     見延典子

 

 

2016・6・9 匿名さん「西村先生の絵は相変わらず素敵ですね」

 

西村先生の絵は相変わらず素敵ですね。

今後も時々絵を提供いただけると良いですね。

 

2016・6・5 西村緋祿史先生「祝 頼山陽ネットワーク7周年」

 

『頼山陽』『竃さらえ』『怒る清盛』(見延典子著)の挿絵や装画を描いてくださっている西村緋祿史先生から、お祝いの絵が寄せられました。

2016・6・3 匿名さん「読み応えありますね!」

 

 

7周年おめでとう( ´ ▽ ` )

「頼山陽ネットワーク通信」、読み応えありますね!

 

 

そして、僕は大統領の車両より、この重厚な車両(写真上)に注目してしまいました。

 

何が載ってるのかな~。

 

平和公園に駐車してたであろうこの謎の車両を、Image,image.

 

 

 

 

 

 

 

 

2016・5・31

米山俊哉さん「オバマ車両」

 

5月27日、オバマ一行は速度違反すれすれで、吉島通りに群がる広島市民らの目の前を、車列(10台以上:警察車両)を組んで行進していきました。

 

空を見上げるとへりの爆音とともに

警官がビルの屋上に50メートルぐらいの間隔で配置されているのが見え,不審者をずっと上からも監視していました.

 

向かうのは平和公園
向かうのは平和公園

2016・5・27

堀尾哲朗さん

   「映画『ひろしま』」


27日のオバマ大統領の広島訪問で、広島の警備も大変のようですね。

久しぶりに広島市立中央図書館に行き、添付の資料を見つけました。

 

幻の名画と云われ、通常の商業映画館では上映は難しい映画です。

まだ御覧になっておられないなら、良い機会と思います。(昭和28年の作品・私は小学6年生)

 

広島で撮影しており、広島の当時の風景も見られます。

原爆をテーマとした映画としては、真面目な作品と考えます。

私はこの映画を見て、「観光ボランティアガイド」をやめました。

多くの人々が亡くなった場所を踏みしめて、得意げに平和公園を案内する自分の姿を考えたからです。

 

誤った記憶かもしれませんが、

  岡田英次が英語の授業の場所は、国泰寺中学校の教室を使用したと聞いています。

  被爆直後、本川の中で「鯉城の夕べ」(広島一中の愛唱歌)を歌いながら、

流されて行くシーンもあったと記憶しています。

 

  場所:広島市映像文化ライブラリー

  日時:65日(日) 1030分  14時の2回。

  テーマ:「月岡夢路特集」です。

 

         

 

2016・5・25 山根兼昭さん「大槻盤渓と頼山陽」

 

岩手一関ゆかりの漢学者 「大槻磐渓」と京都の「頼山陽」。遠く離れた存在ですが、学問を通して意外に近い関係にあったようです。

 

丁度、山陽が「日本外史」の一稿を書き終えた27歳、磐啓の叔父大槻平泉(33歳)が京都を訪れ山陽に会います。その時「日本外史」の目次はまだ決まっておらず、平泉に見せたのは平安初期からだったようです。

 

それから20年が過ぎ、山陽47歳(1826年)のとき、大槻磐渓(27歳)長崎遊学の帰り京の水西荘に山陽を訪ねます。この書斎いっぱいに広げられた日本外史の原稿の一つに磐渓の眼が留まります。「先生、この部分はこうではありませんか。」磐渓の指摘に山陽は烈火のごとく怒り、否定いたしました。

 

1848年、「日本外史」が刊行され、それを見た大槻磐渓は、あの時指摘したとおりに訂正されていたことを確認し、改めて頼山陽に対する思慕の念を深めたようであります。

 

大槻磐渓の漢詩には「平泉懐古」「春日山懐古」などがあり、頼山陽と共に、多くの吟詠家に愛唱されております。

 

     平泉懐古     大槻磐渓 作

 

 

   三世の豪華 帝京に擬す  朱楼碧殿雲に接して長し

 

          只今唯 東山の月のみ有って 来たり照らす当年の金色堂

 

            大意・藤原氏三代の栄華は豪華さを極め、京都に似せて雲にとどくばかり

         の朱楼碧殿が立ち並んでいる。このような豪奢も今は金色堂のみ、唯東

    山に出る月のみが今も歴史の哀愁をただよはしている。

 

福井美術館の山陽詩幅の漢詩に就いて、進藤多万先生のご感想をお聞きできればと思います。

 

 

 

 

2016・5・21

山根兼昭さん「頼山陽の愛した女流詩人・片山蘭女」

 

さすが頼山陽ネットワークの情報力すごいですね。

 

1、去る3月28日「嵐山観櫻・その3」掲載の福井藩士、橋本左内が京都で山陽の詩幅を2隻入手、その内1隻を藩主松平春嶽老公に献上、もう1隻の「武景文・細香・山陽嵐山に遊ぶ」の詩幅は藩医、半井南陽に贈呈し、安政の大獄で処刑されることを覚悟した左内は愛蔵していた山陽の詩幅を2人に託したのであります。

今回、福井市立郷土歴史博物館に展示された頼山陽作「橋北橋南・・」の詩幅

(軸裏に松平春嶽の筆で「頼山陽真筆、安政中橋本左内呈、春嶽識」、とあることから左内から春嶽に献上されたものであることが知られている。)

 

2、詩の大意

福井の足羽川に架かるつくも橋の両岸に桃の花が咲き、花見客が行きかっていて、川もが人々を分かっている。対岸に知人を見つけ川を隔ててお互い呼び合い応え合っている。

 

3、女流詩人・片山蘭女

頼山陽と殆ど同時代に生きた人、京で出会い漢詩を教えるなど目をかけたのですね。山陽は福井へ行ったという記述は無く、足羽川のことは、蘭女から聞いた福井の情景を詠ったのでしょうか。

 

興味ある詩を見つけました。

山陽 (34歳)が美濃を離れるとき、上有知湊で詠んだ詩

「・・崖頭に我を送る人豆の如く 笠を挙げ招招と呼びて互いに応う。」 

「橋北橋南・・  水を隔てて招招、呼びたがいに応う」

 

この詩にはモデルがあるのでしょうか。

第3の恋人、貴重な発見ですね。

 

 

前夜祭で挨拶後、詩吟を披露される山根兼昭さん。愛知県から駆けつけてくださった。
前夜祭で挨拶後、詩吟を披露される山根兼昭さん。愛知県から駆けつけてくださった。

中国茶席では大煕和尚の中国茶、賣茶流の煎茶席では石村良雪先生より、最高の茶器で一煎、二煎のお茶をいただきました。

頼山陽は、唐の茶聖「題陸羽像」の画賛の詩に「竹炉銅鼎の別天地、尽く先生に付して一仙と作す」と詠んでおりますが、良雪先生曰く「一仙は煎茶の一煎と同意」最高のものであると。賣茶流の皆様による終日に亘るおもてなし有り難うございました。

2016・5・12

山根兼昭さん「代表石村良子

     (良雪)先生に感謝」

 

頼山陽ゆかりの地、竹原の森川邸は歴史ある純日本建築で一部屋に欄間が二つも有り、建具も組子細工、庭も新芽がきれいな素晴らしい庭園、落ち着いたたたずまいがよく合いました。

 

煎茶について語る石村良雪先生。写真右。 頼山陽ネットワーク代表。竹原森川邸にて。
煎茶について語る石村良雪先生。写真右。 頼山陽ネットワーク代表。竹原森川邸にて。

メインイベント「古琴演奏会」は殆どの方が始めて聴く音楽であったと思います。

唐の時代、遣唐使によって伝来した古琴も一度断絶したようですが、江戸時代になり浦上玉堂等の文人によって復活したようです。その古琴を現在伝承している方が坂田進一先生です。

演奏された曲の中で「流水の曲」「越天楽」などが印象に残っております。

演奏者といい、古琴といい重文級の存在と思いますが、よく竹原までお越しいただいたなと思います。これも偏に石村良子先生のご尽力の賜物と厚く御礼申し上げます。

(頼山陽ネットワーク7周年記念行事として5月2日「前夜祭」、5月3日「古琴演奏会とお茶会」がいずれも竹原で行われました)

 

 

いつも表紙を飾ってくださるひろしま「フォト歩き」さん。ありがとうございます。
いつも表紙を飾ってくださるひろしま「フォト歩き」さん。ありがとうございます。

2016・5・10

ひろしまフオト歩きさん

「広島FM放送を聴きました」

 

放送時間がちょうど昼時だったので、スマホで楽しく聴かせていただきました。

 

 


ホームページ「頼山陽ネットワーク」を通じて、人の輪も広がっているようで何よりです。

5月6日には、そのホームページも過去最高のアクセス数を記録したそうですね。おめでとうございます。

 

ところで、作品「汚名」をわずか40分で読んだという柏村さん。さすがに有名人で、速読のプロですね。驚きました。個人的には、やはり3時間はかけて味わいたいですね。

 

でも、「続編を出してほしいですね」と良いことも軽く言っておられました。確かに小説を超えて、広島の幕末から明治にかけての動きについて興味を持てるようになったし、それ以降について勉強することもなかったので、思わず頷いてしまいました。

 

 

 特別に頼家の琴を演奏する坂田進一琴士
 特別に頼家の琴を演奏する坂田進一琴士

2016・5・4

匿名さん

「目も耳も心も大満足」

 

今日はお陰様で、やっとやっと念願の竹原に行くことが出来ました!

しかも、文化財の森川邸で 珍しい古琴の演奏や煎茶席等々、このような機会でなければ体験できないことばかりで、目も耳も心も大満足。

 

盛り沢山な内容で、しばし頼山陽の時代の文人趣味の片鱗に触れさせていただき、楽しく幸せなひと時でした。

 

本当に貴重で素晴らしい時間を過ごすことができ、お誘い下さったおかげと、友人共々 心から感謝しております。

 

二人仲良く椅子に腰かけてお庭に行き交う小鳥を眺めながら、のんびりとお弁当を頂きました。

 

ゆったりと余韻に浸りながら、まったく贅沢な時間だよね~~と。

 

何と熱いお茶まで頂戴し、皆様方にも大変お世話になりました。

 

生憎の雨になりましたが、退出したあとは景観地区を散策。

 

お寺や史料館や文化財住宅、今井正之さんの陶芸まで見れて、初竹原を心ゆくまで堪能致しました。

 

何から何まで、本当にありがとうございました

                          (写真も匿名さんのご投稿です)

 

 

 

2016・5・1 akiko noteさん「坂田先生のCD購入法は?」

 

良子先生お久しぶり。サイトは見てます。

坂田先生の”孔子幽蘭”のCD何処で購入できます??

サイト教えてくれれば行きますが。

 

akiko noteさんへ

「坂田進一の世界/江戸の文人音楽ー付録、江戸の三曲合奏」というCDがあるようですが、「孔子幽蘭」が収録されているかはわかりません。またこのCDは一般には流通していないようです。「古琴演奏会」で直接坂田先生にお訊ねするのがよいかと思います。(事務局)

 

2016・4・23 山根兼昭さん「煎茶の歴史に就いて」

 

5月3日の頼山陽ネットワーク7周年記念日(古琴演奏会)まで10日となりましたが、今回おもてなしをいただく「煎茶」の歴史に就いて、昨年石村さんからいただいた資料をまとめてみました。

 

*煎茶道 三癸亭(サンキテイ)賣茶流(バイサリュウ)

 

中国唐の時代に、煎茶の創始者・陸羽は茶聖と呼ばれ、陸羽の茶室が三癸亭。頼山陽は田能村竹田が書いた陸羽の肖像画に「題陸羽像」の画賛の詩を書いております。

 

我が国では18世紀、抹茶の茶の湯に対して、「賣茶翁」が気楽に楽しめる陸羽の煎茶を広めました。その直系の賣茶流のおてまえで、今回おもてなしをいただけます。

 

*坂田進一先生の古琴コンサート・この古琴は中国宋の時代のもので、曲も2500年前の孔子作曲

 

将に「頼山陽ネットワーク」創立7周年記念ならではの企画、楽しみにしましょう。

 

 

2016・4・21 高尾美恵子さん「まさに、会員登録の特典」

 

中国新聞登場、おめでとうございます。

 

お隣さんから、載ってるよ!

と、連絡があり、結構時代の波に乗ってるのね!

と、私の読書趣味を、見直されました。

 

何しろ中国新聞登場前、読後1カ月の『汚名』ですから、

それは、もう。

 

なわけで、なにやら、るんるんの、本日です。

まさに、会員登録の特典でした。

まずは、ご報告まで。  

 

 

高尾美恵子さんへ

事前予約でご購入の上、ご感想もいただき、ありがとうございます。

今後も会員様への便宜を図って参りたいと思っておりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。

 

 

2016・4・13   米山俊哉さん「頼山陽と朝鮮通信使」

小生、縁あって「朝鮮通信使研究会」という会に関わるようになりまして、世界遺産がど~のこ~のと発言なさるのをみておりました。まあ、なんとか会の所期の目的を達成することができましたが、その過程で、当時両国の文化交流は予想しなかったほどのレベルの高さで行われていたのを知りまして、ひょっとすると「ロックスター」頼山陽ならば、物珍しい文化と佳い人には必ず食いつくはずだよねえ、とばかりに探求を開始しました。

しかし、確証は見つける事ができません。たしかに頼山陽は、朝鮮通信使の文物に大変興味を持ったことは間違いないといっていいでしょう。なぜならば頼祺一先生の文章に次の一文がございましたので。

「文化七年(一八一〇)、神辺の管茶山の廉塾にいた頼春水の子・山陽は、叔父の尾藤二州(幕府儒官)を介して、幕府の使節に随行して対馬に行くことになっている古賀精里(幕府儒官)に同行を依頼した。春水の友人である故に、その子・山陽の素行に批判的であった精里は、『此者(注、山陽)放心ハ能ク調へたるトハ、父兄弟共申儀二候得共、其著述(注、日本外史)等之沙汰承候処、一向外馳いたし候而、悔懲内省之意、絶而不相見、則亀井父子(注、福岡の亀井南冥・昭陽父子)之所為二も、格別不異候、』(古賀精理の子・穀堂ら宛書状)として断っている。

精里は、随員として穀堂の門人草場さん(肥前出身)と、他に塾生の中から樋口平三(会津出身)を選び、もう一人の大学頭林述斉は松崎さん(肥後出身)を指名した。

山陽がもし翌文化八年対馬に行っていたなら、通信使とどのような筆談・唱酬をしたであろうか」  

      出典『広島藩朝鮮通信使録 広島県蒲刈町』(注:難字を一部省略)

なんとか幕府に手をまわして、対馬で朝鮮通信使の学者と「筆談・唱酬」しようと画策、そして夢叶わず大きく落胆したさまが目に浮かびます。なかなか「ロック」してますねえ。

なんだか、なにくそと俄然その後張り切った山陽の活動も目に浮かぶようです。

 

米山俊哉さんへ

古賀精里の山陽評は手厳しいけれど、笑ってしまいます。

この頃、山陽は31歳。父春水の力で廉塾の都講の職を得ていますが、精神的には後がない状態に追い込まれていました。高い山に跳ね返されたからこそ、いよいよ「ロック魂」に火がついたんでしょうね。

 

 

 

2016・4・3  角増正裕さん「写真の肖像権と著作権」

 

肖像権・著作権について教えてもらったメールがあったので添付します。

 

写真については、著作権と肖像権がある。

カメラマンが職務上撮影した写真の著作権は所属団体に属すが、その団体が消滅してから50年間たてば著作権は消滅する。
肖像権については、公務に従事する者が公務中に撮影された写真に肖像権は生じない。国会開催中に議場で撮られた写真が自由に掲載できることと同じ。

但し、これらは法律上の問題が生じないというだけ。自分が撮ったものではない写真を出版物に掲載する場合、出典を明記することで問題の発生を回避できる。

 

肖像権は公務に従事している際の写真なので生じない。

著作権は広島市は今も昔も存在しているので広島市にあるということかなと思います。

 

角増正裕さんへ

ありがとうございます。

「出版物=ホームページ」と考えれば、歴代広島市長の肖像写真の掲載は大丈夫ということになりそうですが。

広島市からの一日も早い回答を待ちたいと思います。

 

 

 嵐山の桜 無料写真を使用
 嵐山の桜 無料写真を使用

2016・3・31

山根兼昭さん

「頼山陽の嵐山観桜(最終回)

 

 遊 嵐 山        頼 山陽

 

清渓一曲水迢迢 夾水櫻花影亦嬌

桂楫誰家貴公子 落紅深処坐吹簫

 

読方嵐山に遊ぶ   頼  山陽

 清渓一曲水迢ちょう 水を夾むの桜花影も亦嬌なり 桂揖誰が家の貴公子ぞ 落紅深き処坐して簫を吹く

 

(大意)桜花美しい嵐山を訪れば、大堰川の青く澄んだ清らかな水が、一曲りして遥かに流れていく。両岸の桜は水面の流れに花影を映して、ひときわ美しい。桂の櫂を操り、美しい舟に乗って舟遊びをしているのは、どこの家の貴公子であろうか。散り落ちる桜の花びらの深く積もる処に坐して、笛を吹いている。

 

以下、見延典子著「頼山陽・上ー第十章」より抜粋

 

文化八年(1811)閏2月6日、神辺を発った32歳の山陽は、三省という門人を一人伴い、西国街道を東上した。

途中備前での、武元登々庵、北林兄弟との再会は心躍るものであった。

山陽が大坂江戸堀にある篠崎三島の屋敷に着いたのは閏2月15日であった。三島と養子の小竹が山陽の到着を今や遅しと待っていた。

三島が山陽に聞いた。「ところでこの後どうする。京なら、小石元瑞殿がいる。」

大坂で篠崎三島の世話になった山陽は、三島から紹介を受けた小石元瑞を頼り、京へ上ることになった。

京の安着祝いの宴の後、翌日、小竹は大坂へ帰っていった。

山陽は元瑞に連れられて嵐山へ行ったり、御所で行われる闘鶏を見学したりと外出が続いた。

 

ー表記の詩は、このときの感懐を詠んだ三首連作の第一首である。-完

 

 

 

  嵐山の桜 (無料写真を使用)
  嵐山の桜 (無料写真を使用)

2016・3・28

山根兼昭さん

頼山陽の嵐山観桜(その3)」

 

詩幅「武景文・細香と同に嵐山に遊び、旗亭に宿す」  頼山陽  

 

この詩幅は、後に福井藩士・橋本左内が愛蔵しておりました。

 

橋本左内は16歳になって、大坂適塾にて修行後福井に帰り勉学をしておりましたが、その頃頼山陽の3部作が発刊されます。山陽を敬愛していた左内は、それぞれ耽読しますが特に「通議」に深い関心を持ち将来の日本を考えるようになっておりました。そこへ熊本藩の鬼才・横井小楠が逗留、財政学など教わります。また坂本竜馬もやってきてお互い意気投合いたします。ある時、左内は浪華に行き帰途京都の友人を訪ねこの「詩幅」を見てすっかり気にいり購うて帰ったのであります。その後、この詩幅を福井藩医・半井南陽に「予に代って愛護せられよ」と言って贈呈したのでありました。その時安政五年十二月八日、年が変わって安政六年、左内は将軍継嗣問題で囚われの身となるのであります。

 

獄中の作      橋本左内

 

二十六年 夢の如く過ぐ 顧みて平昔を思えば感ますます多し

天祥の大節 嘗て心折す 土室猶吟ず正気の歌

 

 (感想)頼山陽没2年後、橋本左内は生まれるのですが、血気盛んな二十歳ころ「日本外史」を読み、山陽に心酔したと思われます。この詩幅は藩主松平春嶽も気に入り、左内の宝であったと思わわれます。安政の大獄により頼三樹三郎はじめ多くの得がたい人材を失ったことを西郷南州も嘆いております。

 

 

 

   嵐山の桜 (無料写真を使用)
   嵐山の桜 (無料写真を使用)

2016・3・25

山根兼昭さん

頼山陽の嵐山観桜(その2)」

 

前回の詩ー母を奉じて嵐山に遊ぶーの起句に「嵐山に到らざること既に五年・・」と詠まれていますが、5年前1814年、正月に山陽は小石玄瑞の養女・梨影(18歳)と再婚いたします。その3月に大垣より山陽の弟子・江馬細香(28歳)が初めて山陽宅を訪問致します。新妻梨影は才色兼備な細香にあい複雑な気持ちになりますが、以降二人の山陽を支え合う関係は生涯続くのであります。

 

頼山陽は江馬細香を桜が咲き始めた嵐山へ案内します。この時京にいた岡山藩儒学者・武元登々庵も誘い雪亭に一泊致しました。

 

 ー武景文・細香と同に嵐山に遊び、旗亭に宿す-

 

山色 やや瞑けれども なお明らかなり 綺羅 路を分って おのおの 城に帰る

詩人 (ことさら)に擬す 人後に落ることを 燭を呼んで 渓亭に 水声を聴く

 

(大意)山々は暮色につつまれているが、花色はなお分明である。着飾った花見の客は、おのおの家路について分袂していく。しかし我ら詩人は、ただ花のみ愛する俗客とは異なる。夜を迎えて灯火を点じ、桂川に沿うた旗亭の欄によって、水声を聴くのを楽しんでいる。

 

この詩幅が後に関わるエピソードについては(その3)をお楽しみに。

 

 

   嵐山の桜 (無料写真を使用)
   嵐山の桜 (無料写真を使用)

2016・3・22

山根兼昭さん「頼山陽の嵐山観桜」

 

1819年3月山陽(40歳)は母 梅颸を始めて京へ招き、24,25の両日嵐山雪亭に宿を取り歓待したのであります。

 

 

ー母を奉じて嵐山に遊ぶー      頼 山陽

 

嵐山に到らざること既に五年 万株の花木倍々鮮姸

 最も忻ぶ母と枕を同にし 連夜香雲暖かき所に眠る

 

  和 歌             梅 颸

あらし山 花になれたる鶯の

    声のにおいは 世に似ざりけり

 

梅颸は、今まで散々苦労させられた久太郎が、満開の嵐山で親孝行してくれたことに胸がいっぱいでよく眠れませんでした。朝早く外に出ると鶯の声に自らの気持ちを重ね感涙に咽ぶのでありました。

 

そして山陽は28日の朝、急に思い立って吉野山の桜を見に行ったのですが、花は殆どなく葉桜になっておりました。

 

(感想)この山陽の記述を見ますと、200年程前、江戸後期の気候は、今の青森くらい寒かったとおもわれます。将に旧暦と新暦の季節感が一緒、温暖化の影響でしょうか季節が一ヶ月も早くなったと思われます。

 

 

 

2016・3・18

山根兼昭さん

「名古屋を愛した頼山陽の好物発見」

 

昨年十一月に名古屋納屋橋の料亭「得月楼」のご紹介をしましたが、当時「得月楼」で最も好まれたのは「おつけもの」で、山陽もその味を賞賛して、「得月楼」の命名をしたようであります。

 

    史跡 詩碑 漢詩の紹介 愛知県(名古屋市)

 

その「おつけもの」は当時より名古屋特産の「守口大根の奈良漬」です。

 

しかし閉店時にいた職人達が、120年間愛された「おつけもの」の技術を生かして「おつけもの若菜」を設立、その商品が現在も市販されております。

 

商品名は守口大根、瓜の奈良漬「得月楼」、きゅうり、かぶ、ひろしま菜などの浅付けです。

 

「若菜」の名付親は、作曲家の山田耕筰です。

 写真はすべて頼山陽ネットワーク
 写真はすべて頼山陽ネットワーク

「得月楼」は江戸、明治、大正、昭和と栄えましたが、昭和19年に閉店となりました。

「おつけもの若菜」のホームページにのせられている頼山陽筆とされる「得月楼」の扁額
「おつけもの若菜」のホームページにのせられている頼山陽筆とされる「得月楼」の扁額
    こちらは「かぶ香り」
    こちらは「かぶ香り」

左の写真が名古屋特産の「守口大根の奈良漬」

 

一度ご賞味ください。

 

 

 

 

 


2016・2・17  頼夏さん「びっくりして、連絡」

 

初めまして。

びっくりして、連絡しました。

 

 

2016・1・20 大西五己さん「自分のルーツ探し」

 

先日、歴史講座でお目にかかった者です。

 

自分のルーツ探し、家族史の調査、あるいは「ヒロシマ」を考えるのに、歴史の学び直しをしています。

 

叔父(母の弟)は宇品から朝鮮半島へ派兵された。叔父(母の長兄)は呉から潜水艦で出港し、南洋で亡くなったそうです。その祖父は日清、日露戦争で呉から海軍兵士として出兵しています。

 

父は朝鮮半島で警察官として勤務していましたが、応召されスマトラ派遣されています。また祖父(父方)も徴兵されたようです。まだまだ調査ができておらず、昨年ようやく父の軍歴証明書を入手しました。

 

頼先生は大学時代お目にかかったことがあります。過去を振り返りながら、ヒロシマ、日本の歴史を学んで行きたいと思います。

 

江戸時代の我が家の「名寄帳」を解読したいのですが、なかなか古文書は難しくて、その世界に入ることに躊躇しています。

 

大西五己様

 

頼山陽史跡資料館 古文書教室は毎月第24の木曜日午後3時より旧日銀跡(広電袋町下車すぐ)3階で 頼先生御指導のもと 古文書解読に勤めております

と格好いい事言っておりますが 私などは頼先生の弟子である自分に

満足しているだけで 何年やっても進歩した気がしませんが 視野が広がり良かったと思っております 新年です まず見学からと お出かけください

お待ちしております

 

                       石村良子

大西五己様

 

先日はご聴講いただき、ありがとうございました。

また大西さんのブログでご尊父の軍歴証明書も拝見いたしました。あのようなものがあることを初めて知りました。

古文書も含め、自分の家系のことは自分で調べるしかありませんが、いろいろなつながりの中で、あるとき突然わかることもあります。

ある方から国会図書館に戦争関係の資料があり、インターネットでも公開していると教えていただきました。

ただ、膨大な資料から自分が知りたいものを探すにはそうとうな労力を要するでしょう。私も二の足を踏んでいます。

                        見延典子

 

2016・1・19 匿名さん「頼山陽がロックスターとは」

 

いつも楽しく拝見させていただいております。

頼山陽がロックスターとは、すごいですね。ロックスターといいますが、誰に近いのでしょう。興味があります。

デヴィッド・ボウイなのか。ジョンレノンなのか。

 

 

2016・1・10  近藤敦彦さん「山陽に興味を持ち始めました」

 

最近、頼山陽に興味を持ち始めました。2月に水真流一門の大会で山陽の詩を吟じます。

   見延典子
   見延典子

 

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