2015・12・29

高尾美恵子さん「 面白い!」

 

ただ、拍手を送りたくて、書き込みです。

 

 大朝の天狗しで、車を飛ばさず、こんなにも鑑賞できて、感謝です。

 

見延さんの「追っかけ日記」いつも読んでますが、郷土の浜省さんで、さらに同調。どこまでも、やって!のエールです。

 

 


2015・12・24

米山俊哉さん「愛あるメッセージ」

 

こんにちは。

宮本先生に送る愛あるメッセージ拝読いたしました。大音量の2時間半、お疲れ様でございました。

歴史と宮本先生愛と文学の真髄を極めるためこれからも、ますます東奔西走されんことと存じますが、酒量に留意されながらの旅であることを勝手ながらお祈りさせていただきます。

 

 

 

2015・12・19

ご自由にご覧下さい。

 

頼山陽史跡資料館の庭のもみじも見納めです。ご自由にご覧下さい。

 

都会のオアシスです。

 

 

 

お時間がありましたら、現在「頼山陽の生涯」の展示もご覧下さい。こちらは有料(各種割引あり)。高校生以下は無料。

 

9時半から17時(休館 月曜日)

 

 


2015・12・13

石村良子さん「県警の黒田さんより電話あり」

 

県警捜査二課 黒田さんより電話あり。オレオレ詐欺が捕まり、私の銀行通帳の番号が記載された書類が残っていたとの事。実被害は無いかとの事で 通帳にお金ないので心配ないです、と答えたところ、それなら良かったと言う。良くないと思いつつ受話器置いたけど、なんだかねー。向こうに悪い人いるのに、何も出来ない。

山陽の手簡で徂徠の書は贋物を勉強したけど、山陽もそれでどうしたとかは無い。まあ、骨董の世界はだまされた方が馬鹿と言う事になってるから話しは違うけど。

 

 

2015・12・11 亀楽さん「山紫水明処に行ってきました」

 

「山紫水明処」(京都市)へ行ってきました。美麗の御当主夫人が出てこられてびっくりしました。建物はまさに頼山陽の「作品」であり、小宇宙です。ありきたりの茶室的なものを想像していたので、これもびっくり。最後にお庭の巨大な「穴」にびっくり。平面図では、普通の池にしか見えませんが、恐ろしい深さです。以上、三つもびっくりして大満足でした。

 

 

2015・12・3

ひろしまフォト歩きさん

「トップ画面は十月桜」


このたびは、雑誌に掲載されました写真をわざわざご紹介いただき、大変ありがとうございました。11月20日に発行されると聞いて、11月に撮影した写真を選びました。これからも皆さんに感動していただけるような写真を撮りたいと思います。どうぞよろしくお願いします。ところで、HPトップ画面の写真ですが、十月桜ではないかと思いますが・・・。


ひろしまフオト歩き



2015・11・29  匿名さん「新刊『汚名』たのしみです」


新刊「汚名」たのしみです。

どんな小説なのか、幕末好きには内容が早く知りたい。

歴史が大きく変わるとき、人はどんな風に生きたら良いのか、やはり過去の人物の生き方は興味あります。



2015・11・22 山田淳一さん「頼山陽の再評価」


「2015・11・20『脱・皇国史観を希求』の記事」拝読いたしました。

 私の高校時代の恩師は、皇国史観の代表者ともいうべき平泉澄博士のお弟子さんでした。私自身、金剛山の在道館で平泉先生にお目にかかったことがあります。正直に申して、ある意味で、尊敬もしております。

 しかし、平泉先生も、私の恩師も、頼山陽氏の評価には厳しいものがありました。その理由の第一は、『日本政記』で天皇を批判している、という点でした。

 頼山陽は、一面、勤王主義や軍国主義に利用された面があり、その点がG.H.Q.の「忌諱に触れた」ということが戦後の「黙殺」という山陽評価につながったことは確かです。それにまんまと乗ったのが、戦後のいわゆる左翼史家ではなかったでしょうか。皇国史観も問題ですが、いわゆる東京裁判史観も大いに問題であるように思います。(ご投稿では櫻井よしこ氏の著作からの引用が続きますが、割愛致します)

 山陽氏の再評価も、勿論、いわゆる皇国史観の復活ではなく、このような脱・東京裁判史観という文脈の中でなされるべきもののように考えております。私も、見延さんに啓発されながら、ボチボチと日本の近現代戦争史を見返す作業を始めているところです。

 


  見学場所の「衣掛けの松」
  見学場所の「衣掛けの松」

2015・11・13

匿名さん「山陽ラブ」

 

「厳島年籠記行 頼享翁」は事前に古文書研究会で勉強させて頂いており、進藤多万さんのバスの中での講義は復習を兼ねて、私には良かったです。


名古屋の山陽さん」と見延さんの、山陽ラブは甲乙付け難いですね。

名古屋の山陽さん」の詩吟も素晴らしかったですね。旅猿ツアーを盛り上げて頂きました。


 

2015・11・11

山田淳一さん「宇都宮黙霖」

 

旅猿ツアー「頼亨翁 錦帯橋の旅」、お世話になりました。

お陰様で、楽しい充実した旅になりました。御礼申し上げます。

ありがとうございました。

また、宇都宮真名介(黙霖)について、お話の腰を折るような茶々を入れてしまい、申し訳ありませんでした。

 お話の様に、黙霖の父は、中黒瀬村西福寺の三男俊嶺であり、遺骨も、東広島市八本松町吉川の西福寺に収められ、墓もここに建てられています。しかし、「遊歴」の時期を除いて、黙霖は、人生の大半を呉・長浜で送っており、呉の人間は彼を「広・長浜の人」と称して譲らないのです。心情お察しの上、ご無礼の段、お許しください。

 

山田淳一 恐惶百拝頓首頓首

 

※追記;(文献でも、また、ネットでも多々黙霖に関する記事は出ておりますが、「呉市史 第一巻」に簡潔な事績の紹介と長浜住蓮寺にある誕生碑と顕彰碑の写真が出ていたように思ったのですが、目下どこへ行ったものか見当たらず、お送りすることができませんでした。)


旅猿ツアーにご参加くださり、ありがとうございます。また黙霖についてもご教示いただき、ありがとうございます。

 

数年前、東広島の西福寺を訪ねた際、ご子孫の方から「離婚した(事情があって結婚できなかったのかもしれない)黙霖の両親は、晩年復縁し、今、この寺で親子三人が仲良く眠っている」という趣旨の話をうかがいました。とても感動し、小説にしたいと思ったことを、山田さんのお話を聞きながら、不意に思い出しました。

 

黙霖に関しては2、3冊資料を持っております。「宇都宮黙霖顕彰会」(現在活動中かは不明)があり、ご子孫が呉市(広だったかは不明)にいらっしゃるようです。もしお知り合いならよろしくお伝えください。

 

                        見延典子

 

 

 

 

2015・10・26 

山田淳一さん

「花本哲志先生による新説」


頼山陽史跡資料館・学芸員花本哲志先生が、菅茶山と田能村竹田の初見時期について、「新説」を発表された。

 

菅茶山と田能村竹田との初見は、従来、文化八年(1811)閏二月の事とされて来たが、実は文政六年(1823)三月五日のことである、というのがその論旨である。

 

 

詳細については、『頼山陽史跡資料館開館二十周年記念特別展 風流才子の交わり~頼山陽と田能村竹田を中心に~』(頼山陽史跡資料館特別展実行委員会、平成二十七年十月)所収の花本哲志先生著「田能村竹田と菅茶山の出会いをめぐって」をご覧いただきたい。

 

爾後、花本哲志先生の「文政六年初見」説が定説となっていくのではあるまいか。

 

※事務局より

 

現在、頼山陽史跡資料館で開催中の「風流才子の交わり」について、

花本哲志氏ご自身による展示解説が行われます。

 

11月7日(土)、14日(土いずれも13時30分~

「新説」についても説明があると思いますので、是非ご参加ください。

 

問い合わせ先 頼山陽記念文化財団

☎082-542-7022


 

 

 

福山市の広島県立歴史博物館で 11月23日(月)まで
福山市の広島県立歴史博物館で 11月23日(月)まで

2015・10・20

匿名さん「頼山陽を愛した女流画人を鑑賞」

 

 県立歴史博物館の気になっていた催事、「頼山陽を愛した女流画人 平田玉蘊」を鑑賞しました。


たまたま、学芸員が別グループに説明していたのに便乗。充実した時間を過ごすことができました。


 

 

母子で見つめる猫や、百花繚乱の中で何気なく描かれた雀の戯れ。

養子が書いた、母・玉蘊の観音菩薩のような顔。 頼家の人たちとの交流。


「見延さんの著作に触れていなければ、無縁の世界だった」ことを実感しました。

 

 

 

2015・10・18 きむらとしみさん「お尋ねします」


欅の頼山陽の漢詩

大変興味深く読ませていただいています。

お尋ねです。


1 頼山陽と中川家文書が関係あるのか教えてください。


2 頼山陽は博多に数回来ていますが、頼山陽が太宰府に来た記録があっ   

  たら教えてください。


3 頼山陽が太宰府を題材にした漢詩を残していたら教えてください。


きむらとしみ様

 

お尋ねの件について、事務局の進藤多万からお答え致します。

尚、「欅の頼山陽」の件でご存じのことや、お気づきの点がございましたら、お知らせください。よろしくお願い致します。

 

1.については、全くの門外漢でわかりません。

 

2.文政元年5

 

3.下記で紹介しております。

    福岡県(大宰府)


 

2015・10・9  ナゴヤのカープファン「残念でした」


天下分け目の一戦、残念でした。

此の緊迫した試合に、山本マサ投手の引退試合が組み込まれ、ドラゴンズとしても負けられない一戦となってしまったことは複雑な心境です。

山陽カープ女子応援団長が分析しているように、此の一戦は負けられない、総力戦で戦うという強い意思が監督にあったかと思います。

今シーズンの戦績・カープー69勝71負3引分(阪神70勝71負2分)721107-43戦21勝22負)

将に1勝の明暗になりましたが、9月12日阪神戦の誤審も不運であったと思います。

改めて頼山陽幼少時の言葉ー汝、草木と共に朽ちんと欲するか。

来シーズンに期待します。ナゴヤもがんばります。



2015・10・7 ナゴヤのカープファン「天下分け目の一戦」


10月7日のカープ対ドラゴンズ戦、将に天下分け目の一戦

終盤のカープの戦績は、山陽の言葉を借りれば「扨々刮目・・サテ々カツモク」ー誠に目を見張るようだーと言っております。

最後の一戦を勝ってCS進出出来る様、山陽軍団フレーフレー。



山根さん御所蔵、頼山陽30代の頃の書
山根さん御所蔵、頼山陽30代の頃の書

2015・9・23 

山根兼昭さん「9月23日は頼山陽の184年祭」


「頼山陽詩集」(白川書院)より山陽の絶筆

 

9月17日、梁川星巌は江戸に発つため、夜 山陽に東遊の暇乞に訪れた。

その際、病床に伏していた山陽が詠んだ詩。

 

 

 

ー星巌と別れを話すー

燈は黄花に在りて 夜分かたんと欲す

明朝去って踏む 信州の雲

一壷 酒竭くとも しばらく起つことを休れ

死に垂んとする病中 また君に別る


大意

ー明日、君は信州に向かって旅立たれる。一壷の別杯を汲み終えても暫くは歓談してゆかれよ、もはや自分は鬼籍に入らんとして、これが今生の別れになる。ー


頼山陽の軸(写真)を飾って、かつての美濃東遊を偲びたいと思います。

 

 

2015・9・6 山根兼昭さん「ロマンチスト山陽の心情」


7月に詩集の紹介がありましたので、安藤英雄著(白川書院)「註釈・頼山陽詩集」を購入、新しい発見を致しました。

ー舟大垣を発して桑名に赴くー

転句「独り天涯にあって年暮れんと欲す・・」

1813年10月上旬に京を出発、大垣・江馬蘭斎宅で江馬細香に合います。それから美濃に行き11月8日に再び舟で大垣赤坂湊に着きます。山陽は細香との再会を心待ちにしておりましたが、当日は大雪で蘭斎宅まで行くことが出来ません。

「宿雪 漠々 謝家を隔つ 離情 述べんと欲して 路程はるかなり

 重ねて道蘊に逢う何処をか期せん 洛水の春風 桜花を起こす」

山陽は、細香に逢えるのは桜の花が咲く頃であろうかと落胆し、大垣湊を後にして名古屋へ向かうのであります。

しかしあきらめきれない山陽は、2たび大垣に戻り、細香に再会するのでありますが、願いが叶わず帰途傷心の思いで詠んだ詩に、ロマンチスト山陽の心情を感じずには居れません。

 


2015・9・3 匿名さん「ザ・タイガースのピー氏曰くの通りかと」

 

漢詩に疎い私ですが、詩のポイントの説明、迫力ある朗読等楽しい解りやすい講演でした。

見延さんの、力強い声に押され、私も大きな声を出し気持ちが良かったです。有難うございました。

「竈さらえ」確認しました。ザ・タイガースのピー氏曰くの通りかと思います。

瞳 みのる・人見 豊氏検索しましたが、凡人ではないですね。

凄い・凄い・凄い人物ですね。


  

 

2015・9・2 宇津志眞砂子さん

         「『竃さらえ』を読み返していますよー」


頼山陽ネットワーク増々内容が豊富になり、愚者といたしましては、目を離せばついていけなくなりそうです。

29日(土)の「頼山陽文化講座」は楽しく拝聴いたしました。

小説家としての見延さんに、いつも「・・・ありよね~・・」と共感を得る一人なのですが、この度の文化講座でも、頼山陽の「旅の漢詩」をより深く掘り下げていただきまして、再度、短編集「竈さらえ」を読み返していますよー

 「牛狐」の項・・・「瞥見大魚波間跳」の読み・・然りですね。

さらりと読みましたが、ぴーさん(失礼!ご免なさい)すごいですね。

それよりお伝えしたいことは、「牛狐」(「もう・こん」安芸訛りでもう来ないという意味)この度の講座で、山陽の九州の旅がどれほどの苦労だったかを知るにつけ、山陽さんの癇癪が垣間見えるようで、一人苦笑致しました。

「牛狐・もうこん」という書の意味を聞いて、漁師の息子又二は大笑い、一方山陽は ーこの旅を終えたなら、旅猿はやめて、腰を落ち着け、書き物に専念しようー と誓った。(山陽39歳)のも嘘ではないだろうと思いますね。

その後長崎の僧侶が、表装された「泊天草洋」の書軸を又二に届けるが、困窮生活の又二家族からは離れて、人の手に渡る度に、さらに更に

値が上がっていった。 とは・・・

あらためて読み返し、律儀な山陽、根性も才能もあった頼山陽に乾杯~です。

「竈さらえ」なんか見落としたものがある気がして、もう一度読み直します。


2015・9・2 山田淳一さん「9月1日の『匿名』さんへ 感謝」


9月1日の「匿名」さんへ 感謝

 ご教示ありがとうございました。『全書』「全伝」の同箇所で、田能村竹田が「匡山秋意巻」とその名を挙げた上で、村井蕉雪(古香)所蔵の中でも第一と賞していますね。それで、山陽も益々欲しくてたまらなくなって、引き返したのでしょう。如泰は明代の画僧のようですが、王建章ほどには有名でなかったようで、事績・作品がよく分かりません。

 光本鳳伏翁の『山陽先生の幽光』によれば、「如泰の巻は蕉雪が譲らず、又約束した王建章の幅は手に入らず、山陽は常に之を恨としたが岡山の晝家煙村(梅氏名は澹、字は澹卿、仙藏と稱す)は青琴の門人で九州漫遊の際此の如泰の横巻を摸察し携へ歸り、之を聿庵に與へた、聿庵は父山陽が曾て此の巻の事を語ったのを想ひ起して、京都に送った、山陽之を喜び鑑賞措かず、遂に題言を書し聿庵に返付した」(前掲書、582頁)という後日談を伝えていますが、その題言には、「僧如泰の山水横巻、肥後村井氏の所蔵なり。其の何れの代の人かを知るべからず。其の晝法を詳にするに、蓋し崇禎順治間の人ならん。其の筆墨の鬆秀朗潤、絶えて匠氣無し。或いは疑う、明季の士夫、胡塵を避け、緇流に隠るる者か。村井家、蔵弆に富み累幅を誇示す。此は其の甚だ珍とする所に非ざるが如きも、而も余最も留戀す。」(光本・前掲、582頁。また坂本箕山『頼山陽大観』、496頁。)とありますから、山陽はどうやら如泰を明末の人とにらんでいたようです。それにしても、さほど高名でもない人物の画に惚れ込んだ山陽ですが、その審美眼は、やはり田能村竹田が「古香(蕉雪)所蔵の中でも第一だと賞した」ほどの鋭さを持っていた訳ですね。

 また、「此は其の甚だ珍とする所に非ざるが如き」にもかかわらず、わざわざ豊前から引き返して来た山陽に対して、古香(蕉雪)は、「此の巻、能く頼子をして行路六百里を往還せしむ。頓に價を倍す。当に深く蔵すべきのみ。」(同上)と、山陽の執心を逆手に取り、その高い審美眼の評価を盾にして断ったと言いますから、流石の山陽も瞑目して引き下がるしか無かったでしょう。古香賢なりと言うべきか。

 王建章の幅の顛末については、やはり鳳伏翁が、「かくて(鹿児島から)再び熊本に至り重ねて加藤清正の廟に謁し復た村井蕉雪を訪うた折柄、蕉雪は別荘に在り庭の手入をして居た、山陽は手傅つて百日紅を移植し、蕎麥の饗應を受けつヽ徐に『如泰の巻を譲り下さらぬか』と懇請したが却々聞かぬ、山陽は猶懇望の意を述べたので、蕉雪は『如泰は望まれても譲られぬが其の代りに王建章の名幅を友人より得て差上申さう』と約束した、山陽も止むなく夫にて別を告げた、其の後京都より屢書簡にて百日紅は繁茂したであらうとか、蕎麥は甘味かったとか、暗に王建章を催促するやうな事を言ひ越し、最後に『武士に二言はなき筈既に四五年を経た、若し王建章が手に入らずば如泰の巻を贈らるべし』との尺牘を出した、此の王建章の幅は熊本の木下某が蔵し居り、蕉雪も申し込む機會のなきに苦んで居た、偶ま木下氏が大病に罹り蕉雪の診療にて全快したので、一日蕉雪を招き全快の宴を開き、『さて先生の庇護で九死に一生を得た、是は粗末の品なれど心ばかりの謝禮なれば、御笑納下されたい』と美しき短刀一振を差出した、蕉雪は手を振り『イャイャ拙者は御承知の醫師なれば短刀は無用、夫より拙者所望の品がある、其の品を頂戴したい』と云ふ。木下氏は『成程御尤の御申條然らば何なりとご所望に任せませう』と答へたので蕉雪は『實は御次の床に掲げある晝幅を戴きたい』と言ひ出した、木下氏は『是では不足である』と答へたが、蕉雪は大いに喜び『是頂戴すれば外に用なし』とて早々携へ歸り荷造して京飛脚に托せんと待ち居るに、京飛脚は意外にも山陽の訃報を齎し來たので、終に其の家に傅へて蕉雪の跡なる現今熊本市新鍛冶町の村井シズ子が如泰の巻と共に秘蔵して居る*」(前掲書、581-582頁。坂本箕山・前掲書、494-495頁参照。*箕山は、「此の晝幅、今は大垣の中島芦舟と云へる人が所蔵して居る」(496頁)と記している)と伝えています。実に山陽にはお気の毒な仕儀のことでありました。

 そして、耶馬渓―――山陽らしいエピソードで、大変楽しませて頂きました。



2015・9・1 匿名さん「村井家からぶんどりに失敗したものは…」

 

村井家からぶんどりに失敗したものは・・・。

釋如泰の「匡山秋意巻」です。(頼山陽全傳・上473頁)

それにしても小説家の想像力はすごい!!

 

 

2015・8・31 山田淳一さん「ご講演、お疲れさまでした」


 頼山陽文化講座でのご講演、お疲れさまでした。面白い逸話を交えてのお話に、大変楽しく拝聴させて頂きました。ありがとうございました。

 お話の中で、熊本の村井琴山の所持する掛け軸に執心して、「くれ」・「やらぬ」と、三度も熊本を訪れたという一節がありましたが、村井琴山は文化十二年に既に歿しているようですから、相手は、恐らくその長男の村井蕉雪であったろうと思われます。山陽は熊本で父の旧友・辛島鹽井(名は憲、字は伯彝、藩校時習館の教授)を訪ね、鹽井の紹介で村井蕉雪(名は煥、字は子陽、明和六年~天保十二年)らと交わっています。

 そして、そのことが伏線となって、耶馬渓の奇観に「これだ!」と思って、「耶馬渓山水図巻」ができたという「小説家的発想」には、なるほど、と思わせるものがありました。してみると、あるいは、≪詩碑≫の七絶にも出てくるように、村井蕉雪のところで見た山水図というのは、北宋初頭の董源ないし巨然のものであったかもしれませんね。

 楽しいお話を、ありがとうございました。


 



2015・8・10 山根兼昭さん「頼山陽の書」

 

今年の1月、山根さんが講師を務める愛知県の尾張旭の頼山陽講座(愛知県)の受講者から「この屏風は、以前美濃に来た頼山陽が滞在費を得るために揮毫したものだと骨董商より聞いておりましたが、管理しきれないので、頼山陽講座で活用してほしい」と屏風を譲られた。

 

それを軸装にした(写真)

 

「頼山陽が世話になった村瀬藤城に送ったものではないか」と山根さんは推測する。書かれている詩は、従来の頼山陽の詩にはないもので、山陽の詩とすれば新発見。

(この件はこちらをご参照ください)

 

今後は「頼山陽の真筆」として講座で活用していくという。

 

 



2015・8・8  小林智之さん「私も同じようなことをやっています」


 見延さんのお母様への米寿の記念誌、本当に大変だったと思います。すばらしいですね。実は、私も同じようなことをやっています。写真は20~30枚に留め、母の「窓日」に投稿した短歌を選んで載せようとしています。母への記念と子孫への伝承にしたいのですが。母の病気の進行が早く、間に合うかどうかが心配です。




2015・8・5 Tedおじさん「『にっぽんの旧聞』の執筆者です」

 

この度は拙ブログを貴ウェブサイトにてご紹介いただき、まことにありがとうございました。おかげさまにて、過疎ブログのアクセスが突然の急上昇。炎上したのかと一時は心配になったほどです。

拙文を読み直してみると、見延様をブログのダシにしてしまったようなとらえ方もされ得る書き方になってしまったかともと恐縮しております。もとよりかくのごとき作為はありません。ひとえに私の文章力、構成力の不足によるものだと、嗤ってお許し下さい。

「敗れざる幕末」は、性急な結論と分かりやすい歴史の帰結を求める昨今の「花燃ゆ的社会」にあって、阿部正弘とその周辺に光を当てた力作だと感嘆して読ませていただきました。

今後の変わらぬご活躍を祈念しております。

 

にっぽんの旧聞

 

 

   見延典子
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