2015・7・31 石村良子さん「何処も同じ母心」


古文書教室では、今月は山陽の奥さん梨影の手紙を読んでいます


山陽が亡くなった次の年、聿庵は江戸より帰藩の途次、5月7日支峰を伴い帰広します。次の日8日の聿庵あての手紙です


お金をもらったお礼、山陽が大塩平八郎にもらった脇差を聿庵にあずけた?ことで、子供が人らしくなり 物もできたらお譲りください(面と向かって言えなかった?)とか、


又別の手紙では支峰がものにならなかったらどなたか家臣の養子にと、三樹は書く心でいるがすぐ遊びたがるとか(11歳半)、忙しい家事の合間心配する、何処も同じ母心の手紙です


 


山根兼昭さん「構成吟のご報告」


2015・7・22 山根兼昭さん「ちょっと違和感が」


「江戸時代のロックスター」について…

今、頼山陽ネットワーク会員の年齢層がどういう状況なのか解りませんが、恐らく中高年層だと思います。ちょっと違和感がありますので、「江戸時代の風雲児」「・・・・熱血漢」「・・・ロマンティスト」どうでしょうか。


2015・7・19 匿名さん「お祭りが成功裡に…」


 「萬蔵祭」 の記事を拝見しました。

長濱萬蔵さんは見延さんの祖父のお兄さんだそうで、余程、

ご一族で白石区の本郷商店街の発展に貢献された証しだろうと思います。

祭りの名前だけでなく、銅像まであるとは大変なことです。

思慮深い知的なご尊顔とお見受けしました。

お祭りが成功裡に、盛大に実施されることを祈念しております。


 


2015・7・18

匿名さん「すごくいい写真ですね」

 

17日の広島市内の空、すごくいい写真ですね。プロの方?

 

 

2015・7・15 匿名さん「旭山動物園に行ってきました」

 

旭山動物園は2回目です。動物を間近で見ることができて、迫力があります。子供だけでなく、大人も楽しめますよ。




2015・7・14 名古屋の山陽さん「名古屋と広島が大分近く」

 

アレ、いつの間にか外史先生率いるカープ女子が名古屋ドーム球場まで来ているんですか。そりゃードラゴンズも頑張らなきゃ。


広島球場も野趣味があって良いですが、ドーム球場の野球は、選手1人一人が役者であり将にドラマです。12日の藤井選手などは千両役者ですね。外史先生のお陰で、名古屋と広島が大分近くなったような気が致します。  

 

 

2015・7・10 山根兼昭さん「尾張旭市民塾 第3回」


尾張旭講座(7月9日第3回目)

九州揮毫旅行

頼山陽39歳、父春水の三年祭忌明け後、待望の九州へ揮毫旅行に出発いたします。

最初の訪問地博多では亀井昭陽を訪ねると、伊丹の酒を用意し歓待を受け、さすがの山陽もこの心ずかいに感激してしまいます。それから長崎に行きますが、あまりにも居心地がよく三ヶ月も逗留してしまいました。

そして長崎から船で熊本へ行く途中、暴風雨にあい九死に一生を得る思いをし天草に漂着するのであります。

そのときの体験を詠んだ詩があの有名な「泊天草洋」であります。

熊本に着いた山陽は、父春水の友人であった辛島?井を訪ねて父の事を報告したあと、高弟の徳富美信を水俣に訪ねます。そこで数日間世話になった山陽は「成簣」・・人は成すべき時に成す決断をする・・の額を残します。美信の孫・徳富蘇峰は書斎にこの額を掲げ「成簣堂」と名をつけ晩年まで活躍いたしました。

熊本から阿蘇を越え、竹田村の田能村竹田を訪ね久々の再会を喜び合います。竹田に別れを告げ一路東進、日田の咸宜園で旧友広瀬淡窓に再会いたします。山陽が菅茶山の廉熟にいた時からの関係で遅くまで酒を酌み交わしたのであります。

日田を後にした山陽は、中津の末広雲華を訪ねます。そして雲華は山陽を景勝の地、山国谷へ案内いたします。そこで山陽はここを「耶馬渓」と命名したのであります。

約1年をかけた九州揮毫旅行も予定通り終える事ができ、無事広島へ帰ることが出来たのでありました。

余聞、この揮毫旅行で蓄えた資金を元に三年後、京都に念願の自宅「水西荘」を得たのであります。

感想、山陽は32歳の時京へ出て以来満8年ですが、このわずかな期間に各地の友人知人がものすごく多いのに驚きます。美濃尾張でもそうですし、九州でも各地に有力な支援者がいっぱいです。

九州では過去の汚名が残り藩によっては尾行がつくという事もあったようですが、知名度の上にその才能が一層山陽を有名にしたと思います。


                                                         

そう思って読むと、なるほどですね。

 

ただ、「日本の詩仙」にお尋ねするのは禁じ手につき、今後は使えません。

 

あしからずご了承ください。

2015・7・5

見延典子「山根兼昭さんへ」

 

「日本の詩仙」にお尋ねしたところ、お示しくださいました。

 

杜甫の「飲中八仙歌」と田能村竹田の煎茶にヒントがあるようです。


2015・7・3 山根兼昭さん「私にも力をお力を貸しください」

 

「蒙古來のお盆」に話題が集っておりますが、ネットワークの先生方初め読者の皆様、私にもお力を貸してください。

頼山陽は、中国の古事、歴史に関わる漢詩は、非常に少ないように思いますが、最近下記作品に会い苦闘しております。


李白清狂張旭顚 酔郷無土受游鞭

竹爈銅鼎別天地 獨着先生作一僊

題陸鴻漸眞   山陽外史

(詩鈔七ノ十三=題陸羽像=李白狂歌・・無處著游鞭・・儘付先生作一仙に作る、文政六年の作)


李白、陸羽、顔真卿・・・山陽は何を詠んだのかお願いします。]





2015・6・26 山根兼昭さん「尾張旭市民塾 第2回」


6月25日第2回目ー決意新たに上京・人生の転機ー


1、山陽32歳の2月、2年間お世話になった廉熟・菅茶山先生にお礼の挨拶をし別れを告げて大坂に向います。

混沌詩社に篠崎三島、小竹を訪ね、愈々京にて生涯の師・小石元瑞に会うのであります。

京で「真塾」を開くも塾生は集まらず、苦しい生活を強いられますが、そんなことは意に介せず努力の結果漸く幸運が訪れます。


 2、入京して三年目、三十四歳になった山陽は生活の基盤も定まらず、各地に出向いて潤筆料を稼いでいた頃、 「鞭声粛々・・」が大ヒット、この詩がどれだけ生活を助けたであろうか。

この年の春、父春水が長男聿庵を連れて有馬温泉へ行くとの連絡が入りました。山陽は父に大坂まで来てもらい4年ぶりに親子水入らずの対面をするのであります。 


「家君に別れ奉る後、難波橋に上る」      頼 山陽作

歓娯 頭を回らせば すでに茫然 ひとり長橋によって海天を望む

日おち山低うして 帰鳥没す 阿爺 今夕 何れの辺にか宿る


 3、10月になり、美濃赤坂(大垣)の矢橋赤水の招きで江馬蘭斎、細香に会います。美濃で山陽の動静を知った

村瀬藤城は我が家に招待をし歓待を致します。2人の年はは14歳離れており、山陽が美濃尾張を遊歴するのはこの時だけですが、藤城は生涯山陽を師と仰ぎ仕えるのであります。


4、山陽三十七歳の二月、父危篤の報に接し広島へ駆けつけますが、すでに埋葬されたあとでした。

土饅頭(土葬の墓)を目の当たりにして山陽は始めて号泣したのであります。

春水が亡くなる半月ほど前、竹原からお見舞いの梅の枝が届きました。それを春水の部屋に生けたところ春水が「梅の香りがする、梅颸」と言って紙に書き、これを今後静子の雅号にしなさい、と言って「歌人・梅颸」が誕生するのであります。


                                          

2015・6・25 新会員様「私のブログをご覧頂けたら」


2012年に広島の頼山陽史跡資料館に訪問した事があります。

最近、今までの旅行先をブログにまとめようと思い、頼山陽について

再び、調べてみたところ、「頼山陽ネットワーク」を知りました。

会員を希望しておりますので、宜しくお願い申し上げます。


追伸

宜しければ私のブログの頼山陽史跡資料館の訪問記事を御覧頂けたら幸甚に存じます。URLを付記させて頂きました。

「頼山陽 史跡資料館の記事」:http://cape.blog.jp/archives/1031360328.html

 


2015・6・22

山田淳一さん 「東風」典拠の謎―菊池五山の詩について

 


頼山陽『蒙古來』の「東風」、典拠の謎――菊池五山の詩について――


 頼山陽『蒙古來』における「東風」の語義の謎についてはすでに触れてきた。しかし、謎はさらに残る。弘安四年閏七月一日の「大風雨」を「東風」という語を以て表現したのは、全く山陽氏独創の「文学的」用語法のみであったのか、という謎である。この問題は、次の三段に分けて考えられる。

(ア)古典・古記録に「東風」ないし「東風」を意味する記事があるかどうか。

(イ)それを山陽氏が読み、利用したという痕跡が認められるか。

(ウ)山陽氏以外に「東風」と記した用例は無いか。それと山陽氏の「東風」との(先後)関係はどうであるのか。

という三点である。

(ア)古典・古記録に「東風」ないし「東風」を意味する記事があるかどうか。

 台風は移動する。そして北半球にあっては時計回りに渦を巻いているのであるから、移動した位置によって風向きは変わることになる。台風の中心が「北方」にあれば「東風」になるが、「南方」にあれば「西風」となる。黒田俊雄氏は、何を根拠にしたのか分らないが、「・・・閏七月一日、前日夜半から吹きはじめた北西の風は夜に入っていっそうはげしく、海はわきかえって風涛は船をうち砕いた」(『日本の歴史8 蒙古襲来』、中央公論社、昭和40年、p.116)と記している。「前日夜半」に「北西の風」であったということは、すなわち、この時台風の中心は筑前の「南西」にあったことになる。

 服部英男氏は、諸種の資料から「九州北半から西日本を縦断し、近畿から日本海に抜けたか。台風の速度は1030キロメートルというから、時速30キロで20時間かかって京都近くに進んだか。京都が午後七時から暴風雨圏内なら、前日深夜から九州付近が嵐の影響を受けていた。」(前掲書、p.357)と推測している。したがって、「東風がダメージを与えた」とは、「前日深夜から台風の中心が九州北半にあって筑前沿岸に接近し、暴風雨の影響を最大限に与えた」という謂いに他ならない。

 このように、移動するにつれて刻々と変わる「風向」を正確に記録したものなど、当時にあっては考えられないのではないか。また、「風向」について、仮に記したものがあったとしても、それは記録した時点での様々な「風向」であると考えた方が自然ではないか。―――確かにその通りである。しかしながら、蒙古軍船に暴風雨の被害を最大限にもたらした時、その時の風が「東風」であったことを、何らかの口伝・伝承の類で伝えたものが古典・古記録の中に取り込まれていることなどはあり得ない、と断定するのも聊か早計なのではなかろうか、とも思うのでる。あるいはまた、山陽氏と同じような象徴的な意味で「東風」と記した典籍も無いとは限らないのではなかろうか。典拠の探索は、暇人の暇潰しとして一興である。

『増鏡』「第十 蒙古襲来」の件に次の一文がある。

「石清水社にて、大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に、黒雲一村にはかに見えてたなびく。かの雲の中より、白羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたゝしかりければ、かしこには、大風吹くるとつは物の耳には聞えて、浪荒だち海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。」

―――「かの雲の中より、白羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたゝしかりければ、かしこには、大風吹くる」とは、強い「東風」を暗示するものではあるが、この文に続けて「なほ我が国に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ」とあるように、この件は石清水八幡の霊験を語るものであって、必ずしも実際の「東風」を示唆しているものではない。

(イ)それを山陽氏が読み、利用したという痕跡が認められるか。

 『増鏡』は、『日本外史』劈頭の「日本外史引用書目」にその書名が見えている。おそらく、山陽氏は四鏡の一として有名な『増鏡』を読んでいたであろう。しかし、『増鏡』のこの件を『蒙古來』の「東風」に利用したか、という段になると疑問である。文学的表現として強い印象を与えるこの一文が、山陽氏をして「東風一駆」という語を吐かしめたと想像を逞しくすることもできないではないが、それは、あくまでも勝手な想像上の話である。思想的な関連から考えても、私はその可能性はかなり薄いと思っている。

(ウ)山陽氏以外に「東風」と記した用例は無いか。それと山陽氏の「東風」との(先後)関係はどうであるのか。

 獨嘯軒百山(田中親之)なる人物の『日本楽府 五百史談』(若林書店・東枝書店、大正五年)は、山陽氏の「蒙古來」に関連して、比較のために山陽氏以外の人の句が多く収められている。中でも池五山、すなわち菊池五山と山田方谷の句が私の注意を引いた。五山の句は「東風與便天助之。一殲永絶覬覦跡。」というもので、直接「東風」という語を使っている。方谷の句は彼の全集第一巻に収められている(山田方谷全集刊行会、昭和二年、p.366)もので、「雲旌電車向西馳。」(雲旌電車西に向かって馳せ)という句に間接的に「東風」であることを語らせている。

 方谷の詩は、「戊午四月二十八日。例有事于我祖廟。使館中諸士献詩賦。以蒙古入寇圖爲通題。」(同書)とあるので、これが安政五年の作であることが分る。また、方谷は敬神の人でもあったので、「雲旌電車向西馳。」の句は、『増鏡』の一節を直接踏まえたもののように思われるが、山陽氏の『蒙古來』より後の作であることは明らかである。

 一方、菊池五山の「東風與便天助之。一殲永絶覬覦跡。」(東風ともに便ち天これを助け、一殲永く覬覦の跡を絶つ)は、「東風」という語そのものを用い、詩意も山陽氏の『蒙古來』に近い。五山は明和六(1769)年の生まれで、山陽氏より十一歳の年長である。揖斐高氏の訳注によると、山陽氏が寛政九、十年頃に詠んだ原作の『元史を読む』を改作し、『蒙古來』として『日本楽府』の一篇としたのが文政十一年十二月のこと(揖斐高訳注『頼山陽詩選』、岩波文庫、2012年、p.318)というから、そのころ五山はすでに文名高く、『五山堂詩話』を続々と刊行していたことになる。つまり、山陽氏の『蒙古來』における「東風」の語は、菊池五山の詩の影響を受けている可能性が高いのである。ところが、揖斐氏は、岩波の『新 日本文学大系65』で『五山堂詩話』の校注を手掛けておられるにもかかわらず、『頼山陽詩選』の『蒙古來』の訳注にそのことについて、一言も触れられていない。

 五山のこの詩について、「文化十二年乙亥 書林 日本橋通 玉山堂」の奥書きのある『今四家絶句』(上下)の「五山先生百絶」を調べてみたが、これにはこの詩は載っていなかった。今の私に可能な範囲で(目下行方不明な書物も二、三あるが)調べてみたが、見つけることはできなかった。古本にも五山の詩集の出物は見当たらないようだ。専門家の検討を待ちたいと願う次第である。

 ただし、山陽氏『蒙古來』における「東風」の語が、菊池五山の影響を受けていることが明らかになったとしても、なお、五山の「東風」の語の典拠の問題は残る。また、それによって山陽氏の『蒙古來』の真価が何ら影響を受けるものでないことも無論のことである。

 

山田淳一さんへ

頼山陽は菊池五山に信頼を寄せていました。五山の詩も山陽になんらかの影響を与えているのかもしれません。そして山田さんも指摘されているように、人口に膾炙したのは山陽の詩であったわけです。



2015・6・19

山田淳一さん「再び頼山陽『蒙古來』における「東風」の語について」


 弘安四年夏五月、元軍は大挙して筑前に入寇した。しかし、秋閏七月一日、俄かに到来した大型「台風」によって蒙古軍は海の藻屑と消えた。世にこれを「神風」と称する。―――これが一般的に人口に膾炙した「元寇」像であろう。

 頼山陽は、『日本楽府』の第三十五闋「蒙古來」において、「恨む可し 東風一驅して大濤に附し 羶血をして盡く日本刀に膏せしめざるを」と、弘安四年七月朔日の「台風」を「東風」と記し、これを「恨む可し」と言うことで男児国たる日本の武勇を讃えた。「元寇」撃退の主たる要因を、「大暴風」(神風)という偶然によるものではなく、北条時宗とその下に結集した鎌倉武士の勇猛果敢な奮戦によるものであるという山陽氏の歴史認識は、「閏月、大風雷あり。虜艦敗壊す。・・・元の復我が辺を窺はざるは、時宗の力なり。」という『日本外史』巻四の記述や、『日本政記』の「国朝、大宰府を置きしより以還、外寇なきに非ず。然れども三韓の小醜に止まり、未だ元寇の患ふべき如きあらざるなり。而して防ぎて之を卻け、彼をして懲りて復窺はざらしむるは、北条時宗の力なり。世俗に此役を称する者は、曰く、「宗廟の霊に頼り、颶風大に作り、刃に血ぬらずして克つ」と。是れ言ふに足らざるなり。」(巻之十一 後宇多天皇)とあるを見れば明らかである。

 この詩の製作は早く、十八、九歳の江戸遊学中と考えられ、その初形では「東風」とあるところは「風伯」となっていた。なぜ、山陽氏は、わざわざ(日本人には春風を想起させるような)「東風」という語に直したのか。私は、それを語に重層的な意味を含ませてイメージを膨らませる山陽氏特有の用語法であるように考えた。すなわち、「東」には東土たる「日本」、あるいは関東の「膽 甕の如き」相模太郎=北条時宗をイメージさせる意図があったのではないか、ということである。

 ところが、見延先生が紹介された服部英男氏の『蒙古襲来』(山川出版社、2015年)を読んでいると、次のような一文が目にとまった。「閏七月一日、台風の中心が九州北半にあって渦を巻いていたのなら、東風がダメージを与えた。阿翁浦や船唐津のように、東側に丘陵、稜線の木々がある湾では、停泊中の蒙古船は難を逃れた。」(同書、p.365)―――服部氏は、緻密な調査に拠って、水中考古学などの成果から閏七月一日の「台風」が「東風」であったことを推量されたのである。私は、このことから、山陽氏が「東風」と書いたのは、勿論、詩的に「東風」の語の方がイメージ効果も良いと判断したこともあったであろうが、この時吹いた大風が実際に「東風」であったことを、何らかの資料によって知っていたのではないか、という疑惑を持った。

 そこで先ず『日本楽府』関連の古書を渉猟してみたところ、獨嘯軒百山(田中親之)なる人物の『日本楽府 五百史談』(若林書店・東枝書店、大正五年)を見出した。これを披歴するに、「蒙古來」に関連して、比較のために山陽氏以外の人の句が多く収められていて、中でも池五山、すなわち菊池五山と山田方谷の句が私の注意を引いた。五山の句は「東風與便天助之」というもので、直接「東風」という語を使っている。方谷の句は彼の全集第一巻に収められている(山田方谷全集刊行会、昭和二年、p.366)もので、「雲旌電車向西馳」という句に間接的に「東風」であることを語らせている。

 そこで、いよいよ、この時吹いた大風が「東風」であったことを、山陽氏は何らかの資料によって知っていたに違いない、という思いを強くした。差し当たり、『群書類従 正続』(続群書類従完成会、昭和三十四年訂正増補)を中心に、心当たりの文献に当たってみることにした。


①『元文類』巻四一 → 「暴風破舟」


②『高麗史』巻二九 → 「値悪風、船敗」


③『元史』相威伝  → 「颱風大作士卒十喪六七」


④『癸辛雑識』   → 「入夜半忽大風」


⑤『元 攻日本敗北歌』 → 「晦日大風雨作、雹大如拳」


⑥『元史』日本伝  → 「風破舟」


⑦『壬務官務家日記抄』弘安四年閏七月十一日 → 「逢大風大略漂没」


⑧『勘仲記』弘安四年閏七月十四日 → 「去朔日大風動」


⑨『一代要記』   → 「同九日・・・去朔日大風頓吹」


⑩『感身学正記』  → 「九日、・・・去一日大風皆破損畢云々」


⑪『八幡愚童訓』巻第一三 → 「去七月晦日夜半ヨリ乾風オビタゝシク吹テ」


⑫『皇年代略記』巻第三二 → 「大風俄吹」


⑬『皇代略記』      → 「大風俄吹」


⑭『保暦間記』巻四五八  → 「大風吹テ」


⑮『神皇正統記』巻第二九 → 「大風俄におこりて」


⑯『譯文 大日本史』本紀第六三 → 「大いに風ふき」


⑰『譯文 大日本史』列伝第一二八 → 「海風暴に発りて」


残念ながら、ここまでのところでは「東風」を意味する語は見つけることは出来なかったが、しかし、『増鏡』の中に次の文を見出すことができた。

「石清水社にて、大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に、黒雲一村にはかに見えてたなびく。かの雲の中より、白羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたゝしかりければ、かしこには、大風吹くるとつは物の耳には聞えて、浪荒だち海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。」(第十)―――「かの雲の中より、白羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたゝしかりければ、かしこには、大風吹くるとつは物の耳には聞えて」とは、言うまでもなく、かなり強力な「東風」を暗示するものである。それが蒙古賊船に向かって放たれた神仏の剛矢という文学的修飾を施されて、強く印象に残る。山陽氏の「蒙古來」における「東風」の典拠については、さらに探索を続けてみるべきであろうが、『増鏡』におけるこの一文も、一つの典拠と言いうるのではなかろうか。

 

山田淳一さんへ

一つだけはっきりしているのは、頼山陽は「神風」という言葉は使っていないということですね。




2015・6・14 山田淳一さん「東風の件、続き」

 

紫陽花の花も盛りの候となりました。

 さて、頼山陽の詠史詩「蒙古來」における「東風」の語についてですが、石村先生に貴重な御教示をいただき、感謝しております。石村先生には、古文書研究会をはじめ、色々、勉強させていただきます。

 「東風」は「山東風(やまごち)では? 」との御指摘でしたが、弘安四年閏七月朔日(グレゴリウス暦の8月23日)の大暴風は、京都辺の史料(例えば『勘仲記』)などからも「台風」であることは明らかです。『一代要記』には「一日 (略)甚雨大風、自上古第三度」と、上古以来の記録から見ても、三指に入る規模のものだったと記しています。そして、見延先生に紹介していただいた服部英男著『蒙古襲来』(山川出版社、2015)に、次のような記述を見出しました。「閏七月一日、台風の中心が九州北半にあって渦を巻いていたのなら、東風がダメージを与えた。」(同書、p.365)―――諸橋徹次の『大漢和』には、「東風(とうふう・ひがし風)」、「春風」以外には特別な意味(「台風」を意味するような)は無いようです。因みに、『大漢和』には「東風不與周郎便銅雀春深鎖二喬」という杜牧の『赤壁詩』の句が挙げられていましたが、東風に乗じて火を放ち曹操を破った赤壁の戦いのイメージと重なるものが、あるいは山陽氏の脳裏にあったのかも知れません。山陽氏が読んでいたという『元史』に、果たして「東風」という語があるのかどうか、まだ確認はしていませんが、何らかの理由から、山陽は閏七月一日の大暴風が「ひがし風」であったと知っていたのではないかと思います。石村先生の「山東風(やまごち)」説も無きにしもあらず、というところでしょうか。

 猶、まさか掲載されるとは思っていませんでしたので、草卒にお送りしました前便に、二三、初歩的な誤りがあることに気付きましたが、敢えて訂正はしないでおきます。

 

山田淳一さんへ

『日本外史』では「東風」とは書いていません。頼山陽が使い分けたとすれば、意味があるのかもしれません。

 

 

2015・6・13 山根兼昭さん「尾張旭市民塾 第1回」

 

ご無沙汰しておりますが、ご奮闘のご様子拝見しております。


 尾張旭講座・(6月11日第一回)江戸時代が育んだ頼山陽の人物像

1、儒学者ー朱子学の実践者

2、文学者ー漢詩人、明治になると欧米各国から「日本の文豪」と評価された。

3、歴史家ー「日本外史」の完成と影響

4、芸術家ー書、南画、彫刻(落款)

5、思想家ー尊皇、王政復古思想

6、経世家ー生活感から生まれた経済、財政通

7、浪漫家ー歴史浪漫主義、ロマンチスト


 1603年、徳川家康は開府と共に相談役として、儒学者・林羅山を登用いたします。そして第三代将軍家光の侍講として活躍すると共に、私塾「昌平黌」を開きますが、その後、代々の将軍の保護を得て1790年、「寛政異学の禁」により昌平黌学問所(学長林述斎)、各藩の塾などでは朱子学以外は禁止となったのであります。


このような時代に生まれた頼山陽は、飛躍的に才能を発揮、生涯を通して超人的な活躍を致します。


山陽はいずれの項目も超一流で、各論に付いては二回目以降の講座にご期待願います。

                                                      

山根兼昭さんへ

本年度も「尾張旭講座」が始まったのですね。夏を挟んでの連続講座とここと。何卒お元気でお過ごしください。

 

 

2015・6・12 石村良子さん「文人ネットワーク」

 

南部伯民(三田尻の医師毛利藩主毛利匡邦(まさくに)の侍医となる。文政4年江戸にいき,もと幕府老中で陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩主松平定信の侍医となった)


上田少蔵(山口大道酒造家文人であり芸術家への後援者)への手紙

 

玉堂(浦上)お宅へ滞留とか 逸見某より後から聞き残念に思います。この奇士は 京都で知り合い広島の私の宿へも一二度尋ねてくれ 頼弥太郎(山陽の父春水) 杉山玄瑞劉元高宅でも何回も出会い例の好物(七弦琴)を聞き帰る時は陽関三畳をひいてくれ送別 面白いことでした。     


前後略


*陽関三畳 王維の「送元二使安西」が有名である。「西出陽關無故人(西のかた 陽関を出づれば故人無からん)」の句は三度繰り返し吟じられることが多く、「陽関三畳」と呼ばれる。


 松平定信は頼春水に田沼政治について意見をもとめ 大いに意気投合したという事です。この時代政治を語るものが文人であった事興味深いです。後定信は山陽に日本外史の献上を所望しました


 先日テレビで間宮林蔵をやっておりました。山陽と林蔵は同年生まれです。


古文書教室では山陽が菅茶山にロシア船が北海道に来たことについて私見を述べる手紙を読みました。

 

石村良子さんへ

南部伯民、上田少蔵、浦上玉堂、松平定信、頼春水、頼山陽のつながりがわかりますね。文人は政治を語るというご指摘もその通りだと思います。

間宮林蔵の番組は私も見ました。私の曾祖父は戦前、南カラフトで暮らしていたんですよ。どうでもいい話ですけど(笑)

 

 

2015・6・3 松谷英雄さん「全国へ広めて頂ければ」


先日は、福山誠之館高校の同窓会総会にご講演頂きありがとうございました。早速、帰りに「敗れざる幕末」を買わせていただきました。署名があって嬉しかったです。さて、講演での、江戸時代の第四の「安政の改革」は、目から鱗の面白いご指摘でした。徳川家康の定めた祖法を破った改革は、初めてでは?お話の中で、徳川幕府の崩壊は汚職?的な発言がありましたが、私は制度疲労で幕府も藩も経済的にも破産していたと思います。破産を回避したのは、徳川家康の定めた祖法の海外貿易の禁止の国禁を犯した西国諸藩のみでは。また、御三家から将軍を出さないという趣旨の話がありましたが、八代将軍吉宗は紀州の出身では?加えて、水戸藩は昔から皇室親派で徳川家を残す方策との説もあります。東大・海軍・陸軍の三大事項に加えて、日の丸を御旗(国旗)の制定をしたのは、阿部候との話があります。是非、一次資料をご確認の上、全国へ広めて頂ければ幸いです。


松谷英雄様

御聴講いただいた上に、拙著のご購入をありがとうございます。

私の阿部正弘に関する調査、思いは『敗れざる幕末』で書き尽くしました。参考資料も末尾に一覧を掲げてあります。

正弘の見直しは始まっています。内憂外患の時代、正弘が試みたさまざまな施策が再評価されています。正弘が創立した誠之館の卒業生の皆様が一丸となれば、さらに大きな力となるでしょう。

                          見延典子

 

   見延典子
   見延典子

 

『汚名』(本分社)

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祝!日本遺産 認定

 近砂敦著『耶馬渓』

 見延典子の書下ろし

 小説『獲物』を収録

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