2015・5・18 Nさん、Yさん「会員希望」

 

Nさん

初めまして。修道大学での講演、ありがとうございました。

広島には中学生のころから30年近く住んでおりますが最近になってようやく広島のことを知りたいという気持ちが湧いてきておりましたので、本日のお話は大変興味深いものでした。また、歴史は常に勝者が書いたものであるということ、都合よく政治に使われるということを最近感じはじめておりました。自分の歴史観をあやふやなままにしないためにもいろいろと学ばさせていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

 

Yさん

516日に修道大学でされた講演会を聴かせていただき、興味をもってこのページにたどり着きました。さっそく「花燃ゆ」評を読んで、ますます興味が膨らみました。よろしくお願いします。

 

 

Nさんへ、Yさんへ

会員登録いただきまして、ありがとうございます。

早速、「頼山陽ネットワーク通信第」15号、最新「追っかけ日記」をお送りしました。「追っかけ日記」はいかがでしたか?(笑)

「頼山陽ネットワーク」は内容の充実をはかっていきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

(この講演は一般には告知されていないため、ホームページ上でのご案内はいたしませんでした)

 

 

 

2015・5・16 石村良子さん「仲間募集」


頼山陽史跡資料館「古文書教室」5月より旧日銀3階に引っ越しました。頼祺一先生の御指導のもと 頼家の人々の日記 手紙など読んでおります。時間は第二第四木曜3時から4時半までです。

(6月から11月の頼山陽文化講座期間中は第二木曜の代わりに土曜1030分から12時までとなります)

読める人読みたいひとが読むという形です 黙って座ってるだけでも楽しいです。

先日は山陽が尾道の亀山夢研に送った手紙を読みました。山陽が夢研の硯を鑑定する話です。内容は又の時にて。


 ところで蒙古来の「東風」ですが、春は勿論ですが、私在山口時代秋さば釣に行ったとき、東風が吹いたら時化るので帰っていた記憶があります。

漁師も恐れていました。頼山陽も長崎から熊本に行く途中雲仙岳にかかる黒雲が海に広がって暴風雨になり、遭難したのも山東風(やまごち)では? 宿の主人の話で、うろおぼえです。


石村良子さんへ

北海道生まれの私は「東風」という言葉を俳句の季語として知っているくらいです。「山東風」という言葉があるのも初めて知りました。面白いですね。頼山陽はすべて知った上で、重層的に用いたのではないでしょうか。

「古文書教室」での山陽の手紙の解読は、新発見があればお知らせください。




2015・5・14 山田淳一さん「蒙古襲来について

 

 頼山陽ネットワーク、いつも楽しく拝見させていただいております。

 さて、「関連出版物と評価」の2015.2.27.の条で、服部英雄氏の『蒙古襲来』(山川出版社)を紹介しておられる一文を拝読させていただきました。早速購入して読んでみたいと存じます。

先生は、「頼山陽の「蒙古来」(蒙古来る)には「神風」は出てこない。「東風」という言葉で詠まれている。だが詩の内容から考えて、「神風神話」に「蒙古来」は利用されたのではないか、というのが私の仮定であったが、残念ながらそんなことはどこにも書かれていなかった」と述べておられました。おそらくは、「元寇」という国難に身を呈して勇戦する鎌倉武士の忠誠と、これを援けて神風を吹かせる神国日本というナショナリスティックなイメージを、戦時中の日本の軍国主義的精神風土と重ね合わせて捉えられたのだろうと思います。実際、戦時中にはそうした「神風神話」と山陽の「蒙古來」を重ね合わせたイメージとして捉えていた人がいたであろうことは想像に難くありませんし、武士道と軍国主義を結び付けてナショナリズムを鼓舞した点においては、「蒙古來」も「神風神話」も、共に利用される要素があったように思います。

 そもそも「神風」神話は、元寇以後の鎌倉期から成立するようですが、一回目の「文永の役(1274)で神風が吹いた」とする説は、そう古いものではなく、明治の学者からのようです。歴史教科書の記述から見れば、明治431910)年の『尋常小学日本歴史』に初めて文永の役の記述が登場して以来、戦前の教科書における文永の役の記述は、武士の奮戦によって元軍を撃退したと記載されており、大風の記述はなかったようです。しかしその後、第二次世界大戦が勃発し日本の戦局が悪化する中での昭和181943)年の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初めて登場します。それ以来、戦後初の教科書である『くにのあゆみ』以降も大風の記述は継承され、代わって武士の奮戦の記述が削除されることになったとのことです。

明治の頃の人々は、一回目の「文永の役」は何となく敵がいなくなって、二回目の「弘安の役(1281)」には嵐が来て助かったと思っていたようです。

 しかし、山陽の「蒙古來」という『日本樂府』の詠史詩も、また『日本外史』巻四も、元寇を一回目(文永の役)と二回目(弘安の役)などと分けておらず、二回目の「弘安の役」のことを詠い論じているように思います。このことは、山陽の時代にあって、既に元寇=「弘安の役」というイメージが定着していたことを窺わせるものですが、こうした「元寇」=「弘安の役」というイメージは、大正天皇が愛唱されたという、「四百余洲をこぞる十万余騎の敵 国難ここに見る弘安四年夏の頃」という軍歌「元寇」(明治25年、永井建子作詞・作曲)によって、一層強化・拡大再生産されたことでしょう。ただし、ご指摘のように、山陽の「蒙古來」も軍歌「元寇」も、共に「神風」という用語は使っていませんが、軍歌「元寇」が「・・・死して護国の鬼と 誓いし箱崎の 神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし」「天は怒りて海は 逆巻く大浪に 国に仇をなす 十余万の蒙古勢は 底の藻屑と消えて・・・」と、「神風」を連想させる内容であるのに対し、山陽の「蒙古來」は「恨む可し 東風一驅して大濤に附し 羶血をして盡く日本刀に膏せしめざるを」と、むしろ「東風一驅」を男児の勇を発揮する暇を与えなかった「恨む可」きものとして捉えています。したがって、この点から言えば、先生の言われるように「詩の内容から考えて、「神風神話」に「蒙古來」は利用され」るような内容にはなってはいないように私には思われるのです。山陽は、その点については儒学者らしい合理性を貫き、武士の廉恥・忠義・克己・勇武という人間的な徳と実践こそ価値あるものと見ていたのではないでしょうか。もっとも、これは「詩の内容」と言うより、「詩の語句」から考えて、と言った方がよいかも知れません。

 それにしても、この詩にはよく分らない点があります。「東風」とは、日本では一般に「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と歌われたように、「春」の到来を告げる東から吹く風を意味する語です。しかし弘安の役における大風による元軍の覆滅は、旧暦の五月十二日で、季節は夏です。それなのに、なぜ「東風」なのでしょうか?

 谷口廻瀾氏は、「東風一驅」に「いはゆる伊勢の神風の吹き荒れたるをいふ」と註し(『頼山陽愛国詩史 日本樂府評釈』モナス、昭和十二年、p.126)、「詩詞世界」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn04.htm)では、「東風」について、「春風。日本側に勝利の春をもたらした風。ここでは、神風の意で使われている。詩のはじめでは「颶氣」であったものが、長閑な「東風」となったことで、事態の推移を言外に表現している」と註していますが、前者は、「俗に言う神風」のことを指すというだけで、何らこの語の説明になっていませんし、後者は、長閑な「東風」が、どうして「一驅して大濤に附」すのか、イメージとして矛盾した内容となっていて、納得し得る説明とは言えないように思えます。

 安藤英男氏によると(『頼山陽詩集』近藤出版社、昭和五十七年、p.258-259)、この詩は、『日本樂府』六十六曲のうち、第三十五曲に載せてあるが、制作は早く、十八、九歳の江戸遊学中のもので、その初形では「東風」とあるところは「風伯」となっているようです。「風伯」とは「風の神」の意ですから、こちらの「風伯一驅」の方が、「東風一驅」よりもよほどイメージとしてしっくり来るのではないでしょうか。それなのに、どうしてわざわざ「東風」に直したのでしょうか? ここに、語に重層的な意味を持たせて詩句のイメージを膨らませる山陽独特の用語法があるのではないかと思われるのです。

「伯」は「あるじ・かしら」の意があり、「東」には「西土」に対する「東土」すなわち「日本」の意があります。また、日本の国内では「関東」を指す用法があり、それはこの時代鎌倉幕府を意味しています。「風」には、「ならわし・おしえ・いきおい」の意もあります。「蒙古來る 北自り來たる 東西次第に呑食を期す」「趙家の老寡婦を嚇し得て 此れを持して來り擬す 男兒の國」とあるを踏まえれば、「東」は「日本」を指し、その日本の「風」は「男兒の國」なのであり、その「風」がまさに「颶風」となって「大濤に附し」たというイメージを描くことができるのではないでしょうか。なお、「男兒國」とは、文政己丑年刊の『日本樂府』の註記には「本邦古名廬磤洲。磤廬:國語男兒也。」とあり、この「廬磤洲」とはヲノゴロ(島)=自凝=淤能碁呂(嶋)(袁能許呂)で、伊邪那岐命と伊邪那美命(『古事記』の表記に拠る。『日本書紀』の表記は伊奘諾尊、伊奘冉尊)によってコヲロ、コヲロと造られた我が日本国のことです。つまり、「をのころ」(をのごろ)は「男兒(をのこ)」を意味しています。したがって、「東風」の語は、「男兒國たる我が日本の雄々しく勇武を尚ぶ精神・気風が颶風となって現れたもの」というイメージを含ませた語と解することもできるのです。

 また、「相模太郞 膽 甕の如し、 防海の將士 人 各ゝ力む。 蒙古來る 吾は怖れず、吾は怖る 關東の令 山の如きを。 直に前み 賊を斫って 顧るを許さず、吾が檣を倒し 虜艦に登り、虜將を擒にして 吾が軍 喊ず。」という句を受ければ、「東」は鎌倉幕府、とりわけ、その主である「膽 甕の如」き北条時宗をイメージさせるものになり、「風」は、「時宗のもとに一致団結して蒙古軍を駆逐せんとする勇猛果敢な鎌倉武士団のいきおい」となって、「東風」は、それが颶風となって現れたものというイメージの広がりを持たせた、と言えるかも知れません。

 ともあれ、このような解釈が成り立つか否かは別として、山陽は、いわゆる「神風」を、度会(伊勢)神道のように人間に対する超越的な神の加護と見たのではなく、あくまでも日本国の、あるいは鎌倉武士の尚武の気風という、人間の側からする粉骨砕身の努力が現れたものと見ていることは間違いないでしょう。

そうした、鎌倉武士団が防塁を築いて一致団結して勇敢に戦ったことが、元寇撃退の成功の大きな要因であるという見方は、現代の歴史学においても首肯されています(大越(ヴェトナム)の反乱などもあったが)。

 また、弘安の役(1181)の主力軍である江南軍10万は、慶元(寧波)・定海等から出航して北九州に襲来しますが、「慶元(寧波)・定海等」は明らかに日本の「南」であり、「北」ではないにもかかわらず、どうして「蒙古來る 北自り來たる」と詠われているのでしょうか? 東路軍4万余にしても、その出航根拠地は合浦ですから、「東」ではあっても「北」ではありません。これは、蒙古そのものの故地である満州の地を指したものでしょうか。だとすれば、「東風」と同じようなイメージを「北自り來たる」の語句に持たせたものと言えるかも知れません。先生のご意見は如何なものでしょうか。

 猶、付言しておけば、文永の役では「神風」は吹かなかったとする「文永の役・非神風説」の根拠としては、

①フビライは、はじめから今回の派兵を「おどし」のためにおこなったので,日本を本格的に侵略するつもりはなかった。なぜなら、

ア)文永三年の蒙古牒状が、大帝国の蒙古が小国の日本に対して書いた国書にしては、譲歩の言葉で書かれている。

イ)蒙古牒状の末尾に「不宣」とあるが、「これは命令ではないよ」と言い表している。

ウ)最初の元寇である文永の役(1274)までに蒙古は四度も使者を日本に送っている(日本に達したのはそのうち2回)。これは蒙古が他国を支配するときの例から見て異例のことである。

その背景としては、

○高麗には「三別抄」という抵抗組織ができて蒙古は鎮圧に手を焼いていた。

○宋は蒙古と戦うために北方の領土を捨て、南に退いて「南宋」を建国し、大々的に蒙古に抵抗していた。

○こうした情勢の中で日本の位置と態度は蒙古にとってかなり重要なものであった。

という情勢から、

蒙古は南宋と日本を分断して戦いを有利にしようとしていたにすぎず、属国とか支配することまで考えていなかったのではないかといわれるようになった。

②「元軍は夜に船に戻ってそのまま帰った」、だからこそ弘安の役までに何度も使者を送ってきた。(『八幡愚童訓』等参照)

③そもそも文永11年の1020日は現代の11月4日にあたり,台風など来るはずがない。

④日本側の記録『八幡愚童訓』には「嵐」のことは一行も書かれていない。「朝になったら敵がさっぱりいなくなっていたので驚いた」と書いてある。

などがあります。

 一方、この「非神風説」に対する疑問として、高麗の歴史書『東国通鑑』には「夜半に大風雨があったこと,多くの船が海岸の崖や岩にあたって傷んだこと」が書かれている等という指摘がありますが、これには、戦う気の無かった高麗軍が言い訳のために書いたのではないか、という疑問も呈されているようです。

私はまだ読んでいませんが、服部英雄氏の『蒙古襲来』は、こうした問題に一石を投じる研究となっているようですので、読んでみたいと思います。ご紹介ありがとうございました。


 

 山陽氏の「蒙古來」につきまして、その後、気になって渡辺昇一氏の『日本史の真髄2 頼山陽の『日本楽府』を読む』(PHP研究所、1992年)を開いてみましたところ、次のような一文が目に留まりましたので、ご報告しておきます。

 「この頼山陽の血湧き肉躍る元寇の闋は、実は当時としては新史観だったのである。というのは元寇を語る当時の文献のほとんどすべては、「神風」のことだけをたたえて、武士の功績のことには触れてなかったからである。これは史書を書く人の多くが公家か僧侶か神主であり、自分たちの祈りの効果を言い立てる立場の人だったからである。かの北畠親房の『神皇正統記』ですら、元寇のことは「筑紫にて大に合戦あり。神明威を現し、形を現して防がれけり。大風俄か起こりて、数十万艘(これは誇張)の賊船皆漂倒破滅しぬ。末世とはいへども、神明の威徳不可思議なり・・・」と書いて、武士の奮戦や北條時宗の大胆さには少しも目を向けていない。特に一般に広く読まれた『太平記』――これは小島法師の作と言われる――はわざわざ武士の功績を否定している。

「そもそも大元三百万騎(約二十倍の誇張だ)の蒙古ども一時に亡びし事、全く吾国の武勇に非ず、唯三千七百五十余社の大小神祇・宗廟の冥助に依るに非ずや」(傍点渡部)」

『太平記』は広く読まれただけに、長く世間の通念になっていたと思われる。

 さすがに江戸時代になると水戸の学者たちは時宗の功績を讃えるようになったが、新しい時宗像をひろく日本中に普及させたのは何と言っても頼山陽である。元寇の頃、時宗の位はわずかに従五位の上であり、大勝の後も、その功によって正五位の下に進められただけである。つまり功績はほとんど認められなかったにひとしい。これが当時の宮廷、公家、宗教界の元寇観だったのである。その点、頼山陽は武士の立場から元寇を書いた。」(前掲書、p.164-165

 もし、この渡辺氏の説が正しいとすれば、明治431910)年の『尋常小学日本歴史』に「神風」の記述がなく、戦前の教科書における文永の役の記述が、武士の奮戦によって元軍を撃退したと記載されていたことこそ、実は頼山陽の影響であったということになるかも知れません。

 

山田淳一さんへ

ありがとうございます。

「東風」の件は目からウロコです。なるほど。

神サマなんてぜんぜん信じていなかった(と私には思われる)頼山陽が神国日本の広告塔にさせらたという思いをいよいよ強くしました。

他にも有益なご指摘がありました。

心より御礼申し上げます。

 

 

2015・5・5 おでかけリンちゃんさん

         「頼山陽の山水画を鑑賞しました」


皆さんはすでにご存じかもしれませんが、情報提供しておきます。

現在、ひろしま美術館で開催中の特別展、毛利博物館所蔵「毛利家の国宝・至宝展」の中の第2章「山水画の世界」に、頼山陽の山水図がありました。遠くに出かけなくても、頼山陽ゆかりの広島で鑑賞できるとは嬉しいですね。まだご覧になっていない方は、お早めに!5月31日まで、開催中です。

 

おでかけリンちゃんさんへ

耳寄りな情報をありがとうございます。

広島美術館に行かれた際は、袋町の頼山陽史跡資料館にもお立ち寄りください。現在、頼山陽の書が多数展示されています。小中校生は無料です。




























2015・4・29

おでかけリンちゃんさん「トップページに…」 


頼山陽ネットワークのトップページに、愛猫の”おでかけできないリンちゃん”をとりあげていただき、ありがたいやら恥ずかしいやら。

HPの両サイドを飾るイラストもとっても可愛くしていただきました。

このたび、「ひろしまフォト歩き」も、頼山陽ネットワーク会員の皆さまのご愛顧により、閲覧数が10万回を達成することができました。ありがたく厚くお礼申し上げます。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。


おでかけりんちゃんさんへ

閲覧数が10万回、おめでとうございます。

日々素敵なお写真を楽しませていただいているうえに、「頼山陽ネットワークの顔」として使用のご許可をいただき、感謝申し上げます。

おでかけリンちゃんのお写真が楽しみでアクセスしてくださる方もいらっしゃいます。今後ともよろしくお願い致します。


2015・4・17 匿名さん「「盒」と「盆」は全くの別字」

 

雲華が山陽におくったという「華製盒子」ですが、山陽ネットではこれを「盆子」とされていますが、「盒」と「盆」は全くの別字です。雲華が送ったという「盒子」は、ふたのある入れ物のことで、想定されるのは、堆朱の合子(ごうす)とか陶磁製の合子です。お盆ではありません。なお、堆朱にしろ、陶磁(景徳鎮の染め付けなど)にしろ、御茶のほうで珍重される唐物(からもの)です。

匿名さんへ

間違いをご指摘いただき、ありがとうございます。

早速、訂正いたしました。

今度ともご教示くださいますようお願い申し上げます。

 

 

2015・4・15 匿名さん「『頼山陽』、『竃さらえ』を読みました」


見延典子著『頼山陽』、『竈さらえ』を読みました

すっかり見延典子さんのファンになりました。

今後とも楽しい話題を提供してください(^_^)/


匿名さんへ

今後ともご愛読のほど、よろしくお願い申しあげます。



2015・4・13  山陽母さん「黒田復帰で運の85%はとられたか?」


黒田復帰で運の85%はとられたか?

その上新井までうっては。

1勝で1週間をしのいだ昔を思えば(空を見る)

山陽の守備位置はセンター 中庸でしょう。


山陽母さんへ

結果として優勝すればいい。

今年のカープファンはまだ強気です(汗)



 

2015・4・4 頼山陽ネットワーク代表代行 石村良子さん

         「改めて感謝いたします」

 

頼山陽ネットワーク「旅猿亨翁お花見編」無事終了いたしました。

Yさん曰く こんな高尚な花見は初めてです。私も同感です。

頼先生の講話はすばらしかったです。頼先生 見延さん 進藤さん 望月さん 有難うございました。

参加してくださった皆様 改めて感謝いたします。

又次の旅猿 「中津山陽碑 長崎花月を尋ねる旅」「旅猿亨翁錦帯橋編」が実現しましたら御参加お願いいたします。

追記

山陽女子もカープ女子に負けず熱いです(あつくるしい?)

迷いながら信じながら赤き情熱魂で道のむこう突進するのです


石村良子さんへ

企画に始まり、望月さんとのたびたびの下見、ありがとうございました。石村さんの「赤き情熱魂」に、「山陽女子」も「山陽男子」もついていくだけです。またの企画をお待ちしております。

 


2015・4・4 匿名さん「心地よい疲れです」

 

4月1日、得難いお話しを聞き、桜も見れて、沢山歩き、心地よい疲れです。ありがとうございました

 

匿名さんへ

旅猿ツアーにご参加いただき、ありがとうございます。のんびりながら、いい運動になりましたね。また一緒に歩きましょう。


 4月1日 「旅猿ツアー」 宮島でお花見
 4月1日 「旅猿ツアー」 宮島でお花見

2015・4・3 匿名さん「満開の桜の季節に貴重な企画」

 

満開の桜の季節に貴重な企画に参加することができ、感謝しています。観光では見ることができない場所にも案内して頂き、楽しかったです。次の機会には、もう少し勉強して参加します。

 

 匿名さんへ

旅猿ツアーにご参加いただき、ありがとうございます。宮島の魅力を再認識できましたね。次回もぜひご参加ください。

 

2015・3・31 財津正人さん「原作がないのが駄作の要因』

 

頼山陽NWいつも楽しみに読んでおります。

おっしゃるように、「花燃ゆ」は明確な原作がないのが駄作(だとすればですが、見ていないので)大きな要因であると思います。

フィルターといいますか、壁というほうがいいように思いますが、まず、原作の時点で編集者なり、読者という「フィルター」と通し、なにより、原作者の納得を持って、一つの作品となっており、テレビドラマになる際、もう一回、脚本家の目を通す。

そうしている過程で、視聴にたえうる作品となるのだろうと思っています。ストレートに紆余曲折なしにドラマとなった作品に、味わいがないのもおそらくそういう機微の様なものが、一切省かれ、効率化だけを求められた結果、そのような味気のないテレビドラマになるのだと思います。

恐いのは、珈琲と同じで、これぞテレビドラマだ!と本気で思いこむ人たちが年々増えてきてしまうこと。

僕はもうずいぶん前にテレビには見切りをつけておりまして、家にはテレビはありません。

テレビドラマの映画化と同じく、創作における安易な道は楽ですが、その楽な道には、釘をさせる人間は、きちんとさしていくほうがいいのかなあと思っています。

 

財津正人さんへ

テレビのない生活ですか。なかなかそこまで思いきれません。テレビ番組に文句をいえなくなるし(笑)

ただ、テレビを視聴する時間は減っていますね。といって読書時間が増えたわけではありませんけど。テレビのかわりにインターネットが入ってきたというところでしょうか。

 

財津正人さんのブログ

 

 

 

2015・3・31 中津のオッサン「中津のオッサンの思いつき」

 

ホームページ新企画「頼山陽がカープファンだったら」を見ての思いつき企画。『敗れざる幕末』をNHKの大河ドラマにする企画をだれかやらないだろうか。

いままでのNHK大河はほとんどが勝者の物語り、ここで、真田幸村につづき、敗れた人に焦点をあててもおもろいとと思うのは私だけではないはず。

複雑な政治事情な幕末、裏を支えた老中阿部正弘などの行動と視点現在の日本史教育における弊害を取り除くために新たな幕末の視点を多くの人に知ってもらえると思います。

学園ドラマ「花燃ゆ」より、いいのでは。


中津のオッサンさんへ

29日のラジオを拝聴しました。わがままな人の話は面白いですね。但し、被害をこうむらなければですけど(笑)

阿部正弘は歴史的にも見直しが始まっています。今の時代、正弘のように人命を大切にする人こそ国のトップに立ってほしいですね。

「花燃ゆ」は学園ドラマではなく、いまやカルト集団の話。主人公の文が神出鬼没なのもカルトとしかいいようがありません。

 

中津のオッサンのブログ

 

2015・3・20 石村良子さん「旅猿ツアー花見編の下見」

 

頼山陽ネットワーク旅猿ツアー花見編のコース下見。 

山天狗Mさんに促され、大雨のなか行って参りました。行き当たりばったりの人生ではじめての下見、中々よいものでした。責任ある大人の感じです。苔むした櫻はつぼみも膨らみ見ごろになりそうです。宮島八景はまさに「山色空濛雨亦奇  淡粧濃抹総相宜」でした。


石村良子さんへ

4月1日の旅猿ツアーが近づいてきましたね。

たくさんの資料を送っていただき、ありがとうございます。

読むだけでも、頼山陽のおじいさんと旅している気分です。

当日はよろしくお願い致します。

 

 

 

2015・3・17 城本勲さん冑山歌と鷲野蕗太郎(南村)」

 

見延さんの『頼山陽』を読み、以下のようなことを考えました。見延さんの本から、たくさんのことを教わりました。有り難うございました。


山陽に惹かれてすでに長い月日が経ちます。何故か分からないのですが、頼山陽の漢詩に負うところが大きいと思います。母の日が近づくと、いつの頃からか頼山陽の漢詩「冑山歌(ちゅうざんか)」が思い浮かぶようになりました。ずいぶん前になりますが、大阪時代に、裏六甲の山並みの果てる辺りにポッカリと盛り上がった甲山(かぶとやま)に、先輩に連れられて行ってもらいました。ずっと後になって、子どものころに父が「冑山歌」という漢詩を吟ずるのを聴いたことを思い出しました。そして「甲山」が、冑山歌の「冑山(かぶとやま)」と同じだと考えるようになりました。


松前町(愛媛)の公式ホームページの中に、頼山陽と鷲野蕗太郎(南村)の親交が窺える文章があります。南村の交友は広く、中央・地方を問わず「橙黄園」を訪ねています。特に、頼山陽一家とは親しく、山陽は『日本外史』の初稿本を直ちに南村に贈っています。南村の多彩な交流を覗き見ることができます。ずっと前に南村塾跡(鷲野南塾「橙黄園」)を訪ねました。立派な長屋門の前に説明板(白板)が立っていました。そこには、「鷲野蕗太郎は、文化2(1805)725日、南黒田村庄屋の長男として生まれる。幼時より向学心強く、博学強記、秀才のほまれが高かったそうである。蕗太郎は大阪に出て、篠崎小竹の梅花社に入る。以来、京阪の儒者等と親交を結び、切磋勉励、学徳大いに進み梅花社塾頭になり、さらに小竹の養嗣子となって、塾の経営を依頼されるが、父病弱のため帰郷し、庄屋職を継ぐ」と書かれています。篠崎小竹と、先の頼山陽との接点は、この時に出来たのかも知れません。篠崎小竹の父は内子町(愛媛)の出身です。


 

城本勲さんへ

会員登録をしていただいた上に、貴重な情報をありがとうございます。

ホームページの「史跡、詩碑、漢詩」の項目については、まだ紹介していないデーターもあり、今後充実を図っていきたいと考えています。

四国については愛媛県四国中国市(山陽の義理の叔父である尾藤二洲の出身地)や道後温泉(杏坪)くらいしか思いつかない状態でした。

南村については確かに松前町のホームページ(規定により、まずは第一面の表示になります)に出ていますね。初めて知りました。

「頼山陽公式ホームページ」には頼山陽周辺の情報が集まりはじめており、ホームページをたちあげた意義が見出せつつあります。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

2015・3・11 たま鳥さん「私は昼の部の最前列に」


3月7日の文楽の件

私は昼の部の最前列にいました。見延元祖おっかけとやることが同じ。友人は昼・夜続けて見るそうです

 

たま鳥さんへ

最前列はいいですよね。

私は映画館も、最前列なんですよ(笑)

 

 

2015・3・5 おでかけリンちゃんさん「祝!広島市政功労表彰」

 

広島市政功労表彰の内示、まことにおめでとうございます。

時代小説に精魂を傾けられた20年間の歩みが評価されたということであれば、何より嬉しいですね。心からお祝い申し上げます。

ここ最近、HP「頼山陽ネットワーク」も皆さん参加型で内容充実してきており、そのあたりの評価もあるのかも?

 この調子で、広島本大賞にむけて一気に突っ走りましょう!!

 

おでかけリンちゃんさんへ

ありがとうございます。

広島市政に特に協力したわけではないのですけど(笑)

でも頼山陽、並びに頼山陽を通じて、江戸時代の文化の豊かさが伝わったとすれば、嬉しいですね。

 

 

 

2015・3・3  石村良子さん(頼山陽ネットワーク代表代行)

         「今日は乾杯ですね」

 

ひな祭りの今日 大ニュースですね。

広島市政功労表彰の内示!おめでとうございます。

頼山陽先生への一途な愛、情熱日ごろ感じております。

書かれた物にそれが出るから皆さんをひきつけるのでしょう。 今日は乾杯ですね。私は白酒で。

 

石村良子さんへ

早速、ありがとうございます。

こういうものは自分一人の力ではいただけません。そういうことがわかる年齢になったので、いっしょに喜んでくださり、嬉しく思います。

   見延典子
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