曾木墨壮宅址に立つ碑の裏側に「曾木新治宅」とある(大分県の耶馬渓)

2020・11・18

 頼山陽ネットワーク事務局 

     → 曽木宏隆さん

「曽木家について」

 

すでにご存じかもしれませんが、本ホームページの頼山陽が歩いた道 に以下の記述があります。

 

曾木墨壮の妻「けい」は現在の福岡県上毛町久路土の手永(小倉藩の地方行政単位・付近の30カ村を束ねる)大庄屋矢野恒蔵の次女です。

 矢野家の後を継いだ義兄の建吉が32歳の若さで病死し、残された遺児恒小七が9歳であった為に、恒七が成人するまでの間中継ぎとして久路土の手永に就任します。そのため曾木墨壮の実家、現在の大分県中津市本耶馬溪町曾木の大庄屋は弟の曾木新治が継ぎます。 

山陽さんが曾木家にご一泊された当時、曾木墨壮は久路土の手永の時代ですが 実家の弟の家にご招待しています。よって本耶馬溪にある碑文は「曽木新治宅」と記載されています。


ルーツ探しのヒントに見延典子著『私のルーツ』があります。

併せてご参考になさってください。

                 頼山陽ネットワーク事務局

 

2020・11・16 

曽木宏隆さん「先祖、曽木墨荘のルーツを知りたい」

 

はじめまして、

ひょんなことで貴ホームページを閲覧いたしました。

私、横浜市に住む曽木墨壮から数えて五代目になる『曽木宏隆』と申すものです。私は系図の中で嗣子ではないのですが、曽木のルーツを探しています。墨壮(仁六)の父親が円助と名乗っていたことまでは分かったのですがその先が暗闇です。

どなたかご存じの方がいらっしゃったらご紹介いただきたいのですが?

 大変ぶしつけなメールですがよろしくお願いいたします。

 

2020・11・3

赤松昇さん(姫路市)

「頼山陽と渡部昇一」➁

 

私事ですが、昔、ビジネスで「冷や飯を食う」逆境の時期を過ごす経験をしました。その時に出会ったのが『易経』の「地火明夷」で不遇対処の道の卦でした。


 その教えの内容を実践して境遇を脱した貴重な経験をしました。その経験から『易経』を学ぶ様になりました。その『易経』のフィールドワークとして、河合寸翁と仁寿山校を探究する様になり、河合寸翁から、山崎闇斎、朱子、頼山陽、そして、渡部昇一先生の本と出会うことができました。彼ら賢人の生き方から、本当の学問とは何か、自分の人生をどのように生きていくのかを更に考える様になりました、また、最近では、死ぬまで学び続けることが大事であると考える様にもなりました。私は、自宅に佐藤一斎の『三学戒』の額を掲げています。昔、新たな道に挑戦するため退職した時、広島出身の会社の大先輩から頂いた額です。今もこの『三学戒』の額を毎日見ながら生活をしています。 私の人生目標である生涯学習の励ましの言葉となっています。

 

三学戒

(わか)くして学べば 壮にして為す有り

壮にして学べば 老いて衰へず

老いて學べば 死して朽ちず

 

書は安岡正篤先生が揮毫されたものです。

 尚、渡部昇一先生は、麗澤大学学長の中山理先生と『運命を開く易経の知恵』を出版されています。副題は「老いも若きも、学ぶべきは人間学」となっています。対談形式で書かれており、博識の両先生が様々な視点から『易経』を語られています。

参考文献

『知的生活の方法』 渡部昇一 著 講談社 1976年 

『人生を送る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言』 渡部昇一 著 致知出版社 2005

『小さな自分で一生を終わるな! 人生に奇跡を起こす生き方』ウェイン・W・ダイア― 著 渡部昇一訳・解説 三笠書房 1990

『明朗であれ 父 渡部昇一が遺した教え』 渡部玄一 著 海竜社 2020

『頼山陽傳』 安藤英男 著 近藤出版社 1982

『姫路城凍って寒からず』 寺林峻 著 東洋経済新報社 1998

『姫府名士 河合寸翁傳』 芳井直利 著 姫路市 1912

『播磨会会報誌 播磨が生んだ人物 河合寸翁』 藤戸孝純 著 姫路独協大学 播磨会 発行 1996

『運命を開く易経の知恵』 渡部昇一・中山理 著 モラロジー研究所・廣池学園事業部 2016

 

2020・11・2

赤松昇さん(姫路市)

「頼山陽と渡部昇一」①

 

前回、『易経』と頼山陽の考察文を投稿させていただきましたが、渡部昇一先生の著書『知的生活の方法』を読んで『易経』と頼山陽のことを知りました。渡部昇一先生は、皆さんもよくご存じと思いますが、上智大学名誉教授で、英語学者、哲学者、評論家でもあり、多くの著書を出されている著名な方です。平成27年に逝去されました。享年86歳でした。


知の巨人」と云われ、自宅には地下三階の書庫があり、15万冊の蔵書を遺されました。私は30歳の時、先生の講演を聞いて、明確で分かり易く、興味深い講演だったことを覚えています。

 

 

著書『知的生活の方法』の中で、渡部昇一先生が頼山陽の漢詩に出会ったことが書かれています。先生は小学生の頃、少年講談や少年向き『三国志』を読まれ、大人向けの『キング』という雑誌の付録にあった『唐詩選』の有名な漢文を見て、感動されたそうです。その事から、五言絶句を知り、漢文をやりたいと思い、お姉さんに塚本哲三著『基礎漢文解釈法』の本を買ってもらって漢文を学び始め、朝5時ごろ台所で火を焚く手伝いをしながら大部分を読み、学ばれたそうです。その著書の中に、頼山陽が11歳の時に書いた『立志論』に出会い、自分よりも年下の人間が書いたことを知って愕然としたそうです。そして、先生はその漢詩の二文「男子不学則己 学則当超羣矣」を書いて机の前の壁に貼り付けたそうです。また、頼山陽が「汝草木と同じく朽ちんと欲するか」を紙に書いて自らを励まして勉強したと知って、先生も同じように紙に書いて机の前に張り付けていたそうです。その様なことから、漢文と漢字が無暗に好きになったそうです。それから頼山陽が13歳の時に作った『立志詩(述懐)』に出会って、当時12歳だった先生は、山陽にあやかりたいと思って漢詩を作り始めたそうです。渡部昇一先生は子供の頃に頼山陽の漢文に出会い、頼山陽と同じく「小さな自分で一生を終わらせるな」と思われたのではないでしょうか。そして、愛国心を強く持たれていたのも同じだったのではないでしょうか。渡部昇一先生も母親を尊敬し、母から常に正直であれと幼少から教えられていたそうです。そして、自分に対して忠実であれと心に基軸を持っておられたようです。先生が子供たちに遺された教えは「明朗であれ」とのことです。未来を生きる若者に対して、日本のあり方や未来を生きる道筋を書籍として多く遺して下さっています。

 

先生は経済的に苦しい学生時代、苦学して大学生活を送り、ドイツやイギリスに留学をされています。苦学生であっても、焦らず腐らず、自分に忠実に弛まぬ努力をしたから今日があるとおっしゃっています。頼山陽も大志を抱いて出奔した後、厳しい監禁生活の間に時期を待って学び続けました、又、河合寸翁も、祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。 (続く)

 

2020・10・30 藤丸祐輔さん「松尾芭蕉と頼山陽」

 

突然のお便り失礼致します。

頼山陽先生の足跡を、浅はかな手順で恐縮ですが、ネット上で検索している所を御事務局のサイトに出会いました。

大変興味深く、また頼先生に関する事の研究においてもずば抜けて

おられると感銘を受け、不躾ながらお便りをお送りした次第です。

私は大分県北部地方の生まれなのですが、景勝地耶馬渓があり、頼先生がご紹介下さったお陰で世に知れ渡ったという経緯がございます。

当時、というより古くより日本の概念において中華大陸の学問や文物。景勝地までもが尊く、日本のものは卑しいとみなされていた。

いやそんなことはないと、国学者(という言葉で括ってよいものかなのですが)頼山陽先生が日本各地の景勝地を巡り、その素晴らしさを紹介し、歌に詠みて後世に残していったという偉業があるのは皆様ご存知かと思います。

ある時、いやここ23日ふと思いまして、「そういえば松尾芭蕉の『奥の細道』も景勝地を巡り、歌ではないが俳句を残した旅をしているな?何か共通する所があるのではないか」と思いました。

松尾芭蕉は伊賀出身。伊勢神宮のお膝元という事もあり、本居宣長という国学の大家を生んでいます。無論芭蕉も国学の影響を十二分に受けているのは間違いないでしょう。

長年芭蕉研究は謎が多く、行程をたどると全く行って無い土地の景勝を詠んだり、有名な松島に関してはあんなに絶賛した俳句を残したにも関わらず逗留1泊。こんな調子じゃ「幕府スパイ説」なんていうトンデモ説が出るのも無理はありません。

しかし頼先生のように、国学というテーマで彼を見ると、不思議と彼のこうした俳諧旅行記も、ある種の国学運動のひとつ、「日本にも素晴らしい名勝・旧跡もあるんだ」という頼先生のような「日本ルネサンス」が目的ではなかったかと愚考します。

芭蕉の方が時代的には少々早いですが、同じく国学の立場で見れば二人が志した理想が一致するのではと考えます。

突然のお便りにもかかわらず乱文並びに愚考をお許し頂きたく、今後とも当事務局様のご活躍を楽しみにしております。

 

2020・10・18

山根兼昭さん

篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」の感想

 

(本文からの抜粋)

私(国際的前衛画家の篠田桃紅)の父は、もともとの出自が岐阜の大地主の長男で、名前が頼治郎だったことから、頼様、頼様、と呼ばれていて、大切に育てられたことも関係しているのでしょう。

十何代か続いてきた父の実家は、

作品(ネットから)
作品(ネットから)
 2015年幻冬舎
 2015年幻冬舎

学者の頼山陽、三男の頼三樹三郎が、京都から定期的にやってきて、離れに泊まり、漢学や歴史の講義をしていたりしていたほど、学問に熱心で、父の時は、縁戚の篠田芥津(かいしん)から、書、歴史、漢学、篆刻をならっていました。


父は慶応3年美濃芥見村の生まれで、半年後、元号が明治に変わる時代で、江戸時代の儒教の教えが色濃く残り、私達娘の教育も儒教そのもので、

男女7歳にして席を同じくせずを実践しておりました。・・・・・

 

 *家系図 美濃芥見村大地主・篠田伝左衛門ー長男(頼治郎)3女(桃紅)、次男(敏司)長男(映画監督・篠田正弘)

 

(感想)

「頼山陽、三樹三郎を連れて京都から定期的にやってきて、離れに泊まった。」とあり、「父の実家」は村瀬藤城家かと思いましたが、村瀬家は美濃上有知村、篠田家は美濃芥見村。三樹三郎は山陽が46歳の子ですので篠田家訪問は山陽晩年のことと思います。

また、村瀬藤城の本名「村瀬平治郎」(5代目)。篠田頼治郎の父(伝左衛門)は村瀬藤城の「梅花村舎」で学び、頼山陽とも関係が出来たのかと思います。

村瀬藤城と篠田伝左衛門はともに美濃の大地主ですが、二人の接点は確認できませんでした。

 

「篠田桃紅」のことはこの本に接しはじめて知りましたが、現在107歳のご高齢でご活躍のようで強い生命力を感じます。

 

2020・9・14 

      下村孝夫さん(大阪府在住)「頼山陽の真贋問題」

           

この頃でも頼山陽の真贋問題があるんですね。この大阪ではその昔、と言っても大正から昭和にかけて蕪村と並び頼山陽の掛軸は贋物の代名詞のような扱いであったらしい。やはり「日本外史」などより文学的な美文調の詩歌にひかれた父親から聞いた話では、「うちに頼山陽がある」と聞けば、それは大抵贋物であったようだ。少々旧家の筋であっても例外ではなかった。

 

古美術商の間ではそれだけ大量の商品()が流通していたことになる。実は、私の母方の祖父も古美術商だったらしく、そのあたりの専門で本物と偽物を器用に選り分けていたらしい。その贋物の出所の大半は京、大阪で美術学校の学生の習作にしては本物以上の秀作もあったと聞いている。従って、大阪ではこれが「頼山陽の偽物です」と堂々と自慢気に見せびらかす人もいたとか。いかにも大阪人らしいです。では、本物はどこにあるのかと言うと、実は大阪ではたとえ本物をもっていても決して他人に口外しないのが礼儀らしい。と、すると「これは偽物です」と見せびらかした掛軸も本物だったりすることもあり得る。奥の深い話である。

 

私の実家にもその後行方不明になったがそのような物が数点あったように思う。それは母方の祖父から出たものであったが、あれも偽物であったように思う。何故なら遠い昔、母が嫁ぐ折りに祖父が何の講釈もなしに「好きなのを持って行け」と言われたことを明かしてくれたことを今でも覚えている。                                                                                    つづく-

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

 詳しくはこちら

 

石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら