9月に延期になった「令和3年度春期尾張旭市民塾」
 9月に延期になった「令和3年度春期尾張旭市民塾」

2021・6・1

山根兼昭さん「SDGs´と頼山陽」

 

 

 最近SDGs‘SUSTAINABLE DEVELOPMENT GOALs-という言葉をよく見聞き致します。これは2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための目標」という意味で、地球温暖化対策や貧困飢餓問題から働き甲斐、文化的な生活など将来より豊かな社会を目指


す目標を持とうとする運動です。

 頼山陽も最近すっかり国際的になり、10年以上に及ぶ頼山陽ネットワークの活動の中で、多くの山陽を知り、山陽を介して多くの方々を知ることが出来ました。お陰様で小生の85年に及ぶ人生も、50代以降は将に山陽あっての人生であり、これからも山陽を追い求めたいと思います。

3月の皇居における「講書始の儀」で戦後初めて?頼山陽が講義のテーマになったことは画期的な事であると思います。

 その集大成として、今年も68日より「令和3年度春期、尾張旭市民塾」を準備しておりましたが、本日、9月に延期の通知が来ました。ワクチン接種が進み、1日も早くコロナが収まることを祈念するものであります。

 

2021・5・29

堀尾哲朗さん「頼山陽の『春秋(しゅんじゅう)(りょう)豕録(しろく)』とは」

 

「春秋」は孔子が関わった経書の名前、「遼豕録」は頼山陽の研究家・木崎好尚氏の説では(もと)とより頼家の経説(けいせつ)の上の総称(そうしょう)」と。 

 辞書は「世間知らずのくせに、自らを優れていると思い込んでいる者の譬え」と記し、頼春水一家の奥ゆかしさを示しています。

 山陽の生前を書いた『山陽先生行状』では「春秋講義」と題されましたが、山陽の死で講義は中断、稿本も行方不明、昭和初期に広島頼家の所蔵が判明し、『頼山陽全書』にも収録されて陽の目をみました。

『春秋』は紀元前722年から約240年間の中国・魯国の史書で、孔子が筆削(ひっさく)を加えた儒教の経書(けいしょ)です。山陽は経文に含まれた孔子の意図を伝えると同時に自身の考えも添えていますが、それは膨大な『春秋』経文の一部に止まっています。

 晩年『日本外史』が認められ『通義』も脱稿、『日本政記』の記述も順調に進めていた山陽は「孔子の(しゅ)(ひつ)と疑いなきは(ひと)り春秋のみ」の主張を掲げ、孔子の儒学を説くためこの講義を進めていたと考えます

 私は山陽の考えを知りたく『頼山陽全書』から山陽の文をパソコンに入力、読み下し文の作成を試みただけの粗雑なものです。

 

2021・5・26

堀尾哲朗さん『頼山陽を想う 春秋遼豕録』を自費出版

 

『頼山陽を想う 春秋遼豕録』(A4版、320ページ)を自費出版しました。『春秋遼豕録』は山陽が塾生の講義のため用意した原稿です。

 


2018年11月に火災により消失した山陽盃酒造。2020年4月4日(土)、火災から約1年半、焼け残った外壁や柱、梁などは解体せずに再利用され、昔の老舗酒造の趣を残しながら、綺麗にモダンに雰囲気を一新、新店舗オープンしています。

      同社ホムページから

 

 

2021・5・3

「山陽盃酒造」

   社名は頼山陽にあやかって

 

会員希望さんから「山陽盃酒造」(兵庫県穴粟市)という社名は、先代が「酒好きの山頼山陽にも愛される銘酒を造ろう」という思いからつけたという情報をいただいた。


2021・1・24 会員希望さん 

    → 事務局

 

「『旅遊』『頼山陽と耶馬渓』を購入希望します」

 

 


 『旅遊』、『頼山陽と耶馬渓」を購入希望します。

 会員希望します。

 

会員希望さんへ

『旅遊』、『頼山陽と耶馬渓」について、発行関係者に問い合わせ中です。今しばらくお待ちください。

                 頼山陽ネットワーク事務局

 

2020・11・30 中津のオッサン「曽木墨荘の研究は…」

 

曾木墨壮の事ですが、悲しいかな西南の役に呼応した大規模な百姓一揆で

完全に焼かれてしまい。古文書などは現在見つかっていません。

また、曾木墨壮を対象とした研究はおこなわれていません。

豊前市教育委員会にも尋ねてみますが、不明と思われます。

 

2020・11・29 曽木宏隆さん → 中津のオッサン&事務局

 

事務局の方及び中津のオッサン ありがとうございます。参考にさせていただきます。

尚、墨荘本人と墨荘の孫冨蔵(天保13年生、大正8年没)からの詳細については手元の『曽木家・遺徳録』にあります。

また、墨荘の父親円助以前についてと、冨蔵の父(墨荘の長男)喜市についてはその詳細を記するものを探しております。そのうちに中津まで出かけて調べたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

 

2020・11・26

中津のオッサン「曽木墨水の年譜」

 

「曾木墨壮」についてお尋ねの記事を見て、参考になればと以前調べた「曾木墨壮の年譜」を添付しますので参考になれば幸いです。

耶馬渓の曾木家は明治10年西南戦争に呼応した百姓一揆で消失、残された、その後、曾木〇〇は大分県庁に勤務し、優秀な官吏として活躍、本家は大分市内移転に戦前まであったと調べはついていますが、今一歩で追跡ができていません。

山陽が競秀峰を雨で描かれなかった漢詩など掛け軸などあったとか。昭和20年の空襲後が不明です。また、出典は現在調べていますが、残念ながら失念しています。

 

曾木墨壮年譜 1772年(安永元年)~1838年(天保9年)年

西暦

元号

 

1772

安永元年

豊前国下毛郡曾木村(中津市本耶馬渓町)、大庄屋遠入円助の長男として誕生。父の代に遠入姓から曾木姓に改姓。

1785

天明5

中津藩儒学者野本雪厳に学び、その後三浦梅園に学ぶ

 

 

熊本に遊学し高木紫溟に漢学と画を学び

村井琴山に医学を13年間学ぶ、弾琴も学ぶ

 

 

文化年間に上毛郡緒方村(福岡県上毛町緒方)で「豹隠亭(ひょういんてい)という居を構え、医師として開業(?)久路土手永の子供役(大庄屋の事務方)を勤める。その手当が八石だったために豹隠亭は地元では八石屋敷といわれていた。

1811

文化8

墨壮の先妻ケイの兄矢野健吉が小倉藩新田藩の久路土手永で大庄屋であったが夭折した。嫡子恒七が幼少であったため、矢野家に入り、11年間(文政4年)まで久路土手永を務める。

1818

文化元年

12月賴山陽が九州遊歴中、中津市永添正行寺雲華上人を訪問。山国谷を案内する、後日、山陽は山国谷の景勝を図巻に著し耶馬溪と名付ける。1212日には中津市本耶馬渓曾木にある墨壮の実家に一泊

1822

文政5

矢野健吉の嫡子恒七が20歳になったので久路土手永の役職を譲る

1826

文政9

小倉新田藩は墨壮の行政手腕をかって岸井手永大庄屋に任命

1832

天保3

10月、熊本での修業時代からの旧友豊後竹田藩、田能村竹田が上京途中に訪ねて来て、約一ヶ月間逗留、謝礼として南画「梅花書屋図」を描きあげて墨壮に贈る。

梅花書屋図-遠くまで見渡せる広大な平野と、どこまでも続く梅林。蛇行する川の畔に家がある。開け放たれた石門をくぐれば、そこは梅に囲まれた閑静な書屋。屋内の人物たちは、巻子を手に取りながら絵画や文学についての談笑に時を過ごしているようだと解説文があります。墨壮は梅を愛していました。描かれた人物は、竹田と墨壮と言われ、その風景は墨壮宅(岸井手永大庄屋役宅)の前にあった池と遠景の山を描いたのではと、言われてみてはそのようにもみえます。  

国重要文化財、出光美術館蔵

1838

天保9

320日、岸井手永大庄屋役宅にて執務中に倒れて急逝

亨年67

 

曾木墨壮宅址に立つ碑の裏側に「曾木新治宅」とある(大分県の耶馬渓)

2020・11・18

 頼山陽ネットワーク事務局 

     → 曽木宏隆さん

「曽木家について」

 

すでにご存じかもしれませんが、本ホームページの頼山陽が歩いた道 に以下の記述があります。

 

曾木墨壮の妻「けい」は現在の福岡県上毛町久路土の手永(小倉藩の地方行政単位・付近の30カ村を束ねる)大庄屋矢野恒蔵の次女です。

 矢野家の後を継いだ義兄の建吉が32歳の若さで病死し、残された遺児恒小七が9歳であった為に、恒七が成人するまでの間中継ぎとして久路土の手永に就任します。そのため曾木墨壮の実家、現在の大分県中津市本耶馬溪町曾木の大庄屋は弟の曾木新治が継ぎます。 

山陽さんが曾木家にご一泊された当時、曾木墨壮は久路土の手永の時代ですが 実家の弟の家にご招待しています。よって本耶馬溪にある碑文は「曽木新治宅」と記載されています。


ルーツ探しのヒントに見延典子著『私のルーツ』があります。

併せてご参考になさってください。

                 頼山陽ネットワーク事務局

 

2020・11・16 

曽木宏隆さん「先祖、曽木墨荘のルーツを知りたい」

 

はじめまして、

ひょんなことで貴ホームページを閲覧いたしました。

私、横浜市に住む曽木墨壮から数えて五代目になる『曽木宏隆』と申すものです。私は系図の中で嗣子ではないのですが、曽木のルーツを探しています。墨壮(仁六)の父親が円助と名乗っていたことまでは分かったのですがその先が暗闇です。

どなたかご存じの方がいらっしゃったらご紹介いただきたいのですが?

 大変ぶしつけなメールですがよろしくお願いいたします。

 

2020・11・3

赤松昇さん(姫路市)

「頼山陽と渡部昇一」➁

 

私事ですが、昔、ビジネスで「冷や飯を食う」逆境の時期を過ごす経験をしました。その時に出会ったのが『易経』の「地火明夷」で不遇対処の道の卦でした。


 その教えの内容を実践して境遇を脱した貴重な経験をしました。その経験から『易経』を学ぶ様になりました。その『易経』のフィールドワークとして、河合寸翁と仁寿山校を探究する様になり、河合寸翁から、山崎闇斎、朱子、頼山陽、そして、渡部昇一先生の本と出会うことができました。彼ら賢人の生き方から、本当の学問とは何か、自分の人生をどのように生きていくのかを更に考える様になりました、また、最近では、死ぬまで学び続けることが大事であると考える様にもなりました。私は、自宅に佐藤一斎の『三学戒』の額を掲げています。昔、新たな道に挑戦するため退職した時、広島出身の会社の大先輩から頂いた額です。今もこの『三学戒』の額を毎日見ながら生活をしています。 私の人生目標である生涯学習の励ましの言葉となっています。

 

三学戒

(わか)くして学べば 壮にして為す有り

壮にして学べば 老いて衰へず

老いて學べば 死して朽ちず

 

書は安岡正篤先生が揮毫されたものです。

 尚、渡部昇一先生は、麗澤大学学長の中山理先生と『運命を開く易経の知恵』を出版されています。副題は「老いも若きも、学ぶべきは人間学」となっています。対談形式で書かれており、博識の両先生が様々な視点から『易経』を語られています。

参考文献

『知的生活の方法』 渡部昇一 著 講談社 1976年 

『人生を送る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言』 渡部昇一 著 致知出版社 2005

『小さな自分で一生を終わるな! 人生に奇跡を起こす生き方』ウェイン・W・ダイア― 著 渡部昇一訳・解説 三笠書房 1990

『明朗であれ 父 渡部昇一が遺した教え』 渡部玄一 著 海竜社 2020

『頼山陽傳』 安藤英男 著 近藤出版社 1982

『姫路城凍って寒からず』 寺林峻 著 東洋経済新報社 1998

『姫府名士 河合寸翁傳』 芳井直利 著 姫路市 1912

『播磨会会報誌 播磨が生んだ人物 河合寸翁』 藤戸孝純 著 姫路独協大学 播磨会 発行 1996

『運命を開く易経の知恵』 渡部昇一・中山理 著 モラロジー研究所・廣池学園事業部 2016

 

2020・11・2

赤松昇さん(姫路市)

「頼山陽と渡部昇一」①

 

前回、『易経』と頼山陽の考察文を投稿させていただきましたが、渡部昇一先生の著書『知的生活の方法』を読んで『易経』と頼山陽のことを知りました。渡部昇一先生は、皆さんもよくご存じと思いますが、上智大学名誉教授で、英語学者、哲学者、評論家でもあり、多くの著書を出されている著名な方です。平成27年に逝去されました。享年86歳でした。


知の巨人」と云われ、自宅には地下三階の書庫があり、15万冊の蔵書を遺されました。私は30歳の時、先生の講演を聞いて、明確で分かり易く、興味深い講演だったことを覚えています。

 

 

著書『知的生活の方法』の中で、渡部昇一先生が頼山陽の漢詩に出会ったことが書かれています。先生は小学生の頃、少年講談や少年向き『三国志』を読まれ、大人向けの『キング』という雑誌の付録にあった『唐詩選』の有名な漢文を見て、感動されたそうです。その事から、五言絶句を知り、漢文をやりたいと思い、お姉さんに塚本哲三著『基礎漢文解釈法』の本を買ってもらって漢文を学び始め、朝5時ごろ台所で火を焚く手伝いをしながら大部分を読み、学ばれたそうです。その著書の中に、頼山陽が11歳の時に書いた『立志論』に出会い、自分よりも年下の人間が書いたことを知って愕然としたそうです。そして、先生はその漢詩の二文「男子不学則己 学則当超羣矣」を書いて机の前の壁に貼り付けたそうです。また、頼山陽が「汝草木と同じく朽ちんと欲するか」を紙に書いて自らを励まして勉強したと知って、先生も同じように紙に書いて机の前に張り付けていたそうです。その様なことから、漢文と漢字が無暗に好きになったそうです。それから頼山陽が13歳の時に作った『立志詩(述懐)』に出会って、当時12歳だった先生は、山陽にあやかりたいと思って漢詩を作り始めたそうです。渡部昇一先生は子供の頃に頼山陽の漢文に出会い、頼山陽と同じく「小さな自分で一生を終わらせるな」と思われたのではないでしょうか。そして、愛国心を強く持たれていたのも同じだったのではないでしょうか。渡部昇一先生も母親を尊敬し、母から常に正直であれと幼少から教えられていたそうです。そして、自分に対して忠実であれと心に基軸を持っておられたようです。先生が子供たちに遺された教えは「明朗であれ」とのことです。未来を生きる若者に対して、日本のあり方や未来を生きる道筋を書籍として多く遺して下さっています。

 

先生は経済的に苦しい学生時代、苦学して大学生活を送り、ドイツやイギリスに留学をされています。苦学生であっても、焦らず腐らず、自分に忠実に弛まぬ努力をしたから今日があるとおっしゃっています。頼山陽も大志を抱いて出奔した後、厳しい監禁生活の間に時期を待って学び続けました、又、河合寸翁も、祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。 (続く)

 

2020・10・30 藤丸祐輔さん「松尾芭蕉と頼山陽」

 

突然のお便り失礼致します。

頼山陽先生の足跡を、浅はかな手順で恐縮ですが、ネット上で検索している所を御事務局のサイトに出会いました。

大変興味深く、また頼先生に関する事の研究においてもずば抜けて

おられると感銘を受け、不躾ながらお便りをお送りした次第です。

私は大分県北部地方の生まれなのですが、景勝地耶馬渓があり、頼先生がご紹介下さったお陰で世に知れ渡ったという経緯がございます。

当時、というより古くより日本の概念において中華大陸の学問や文物。景勝地までもが尊く、日本のものは卑しいとみなされていた。

いやそんなことはないと、国学者(という言葉で括ってよいものかなのですが)頼山陽先生が日本各地の景勝地を巡り、その素晴らしさを紹介し、歌に詠みて後世に残していったという偉業があるのは皆様ご存知かと思います。

ある時、いやここ23日ふと思いまして、「そういえば松尾芭蕉の『奥の細道』も景勝地を巡り、歌ではないが俳句を残した旅をしているな?何か共通する所があるのではないか」と思いました。

松尾芭蕉は伊賀出身。伊勢神宮のお膝元という事もあり、本居宣長という国学の大家を生んでいます。無論芭蕉も国学の影響を十二分に受けているのは間違いないでしょう。

長年芭蕉研究は謎が多く、行程をたどると全く行って無い土地の景勝を詠んだり、有名な松島に関してはあんなに絶賛した俳句を残したにも関わらず逗留1泊。こんな調子じゃ「幕府スパイ説」なんていうトンデモ説が出るのも無理はありません。

しかし頼先生のように、国学というテーマで彼を見ると、不思議と彼のこうした俳諧旅行記も、ある種の国学運動のひとつ、「日本にも素晴らしい名勝・旧跡もあるんだ」という頼先生のような「日本ルネサンス」が目的ではなかったかと愚考します。

芭蕉の方が時代的には少々早いですが、同じく国学の立場で見れば二人が志した理想が一致するのではと考えます。

突然のお便りにもかかわらず乱文並びに愚考をお許し頂きたく、今後とも当事務局様のご活躍を楽しみにしております。

 

2020・10・18

山根兼昭さん

篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」の感想

 

(本文からの抜粋)

私(国際的前衛画家の篠田桃紅)の父は、もともとの出自が岐阜の大地主の長男で、名前が頼治郎だったことから、頼様、頼様、と呼ばれていて、大切に育てられたことも関係しているのでしょう。

十何代か続いてきた父の実家は、

作品(ネットから)
作品(ネットから)
 2015年幻冬舎
 2015年幻冬舎

学者の頼山陽、三男の頼三樹三郎が、京都から定期的にやってきて、離れに泊まり、漢学や歴史の講義をしていたりしていたほど、学問に熱心で、父の時は、縁戚の篠田芥津(かいしん)から、書、歴史、漢学、篆刻をならっていました。


父は慶応3年美濃芥見村の生まれで、半年後、元号が明治に変わる時代で、江戸時代の儒教の教えが色濃く残り、私達娘の教育も儒教そのもので、

男女7歳にして席を同じくせずを実践しておりました。・・・・・

 

 *家系図 美濃芥見村大地主・篠田伝左衛門ー長男(頼治郎)3女(桃紅)、次男(敏司)長男(映画監督・篠田正弘)

 

(感想)

「頼山陽、三樹三郎を連れて京都から定期的にやってきて、離れに泊まった。」とあり、「父の実家」は村瀬藤城家かと思いましたが、村瀬家は美濃上有知村、篠田家は美濃芥見村。三樹三郎は山陽が46歳の子ですので篠田家訪問は山陽晩年のことと思います。

また、村瀬藤城の本名「村瀬平治郎」(5代目)。篠田頼治郎の父(伝左衛門)は村瀬藤城の「梅花村舎」で学び、頼山陽とも関係が出来たのかと思います。

村瀬藤城と篠田伝左衛門はともに美濃の大地主ですが、二人の接点は確認できませんでした。

 

「篠田桃紅」のことはこの本に接しはじめて知りましたが、現在107歳のご高齢でご活躍のようで強い生命力を感じます。

 

2020・9・14 

      下村孝夫さん(大阪府在住)「頼山陽の真贋問題」

           

この頃でも頼山陽の真贋問題があるんですね。この大阪ではその昔、と言っても大正から昭和にかけて蕪村と並び頼山陽の掛軸は贋物の代名詞のような扱いであったらしい。やはり「日本外史」などより文学的な美文調の詩歌にひかれた父親から聞いた話では、「うちに頼山陽がある」と聞けば、それは大抵贋物であったようだ。少々旧家の筋であっても例外ではなかった。

 

古美術商の間ではそれだけ大量の商品()が流通していたことになる。実は、私の母方の祖父も古美術商だったらしく、そのあたりの専門で本物と偽物を器用に選り分けていたらしい。その贋物の出所の大半は京、大阪で美術学校の学生の習作にしては本物以上の秀作もあったと聞いている。従って、大阪ではこれが「頼山陽の偽物です」と堂々と自慢気に見せびらかす人もいたとか。いかにも大阪人らしいです。では、本物はどこにあるのかと言うと、実は大阪ではたとえ本物をもっていても決して他人に口外しないのが礼儀らしい。と、すると「これは偽物です」と見せびらかした掛軸も本物だったりすることもあり得る。奥の深い話である。

 

私の実家にもその後行方不明になったがそのような物が数点あったように思う。それは母方の祖父から出たものであったが、あれも偽物であったように思う。何故なら遠い昔、母が嫁ぐ折りに祖父が何の講釈もなしに「好きなのを持って行け」と言われたことを明かしてくれたことを今でも覚えている。                                                                                    つづく-

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
南々社

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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