明治の終わりか大正初期の本耶馬渓青の洞門
明治の終わりか大正初期の本耶馬渓青の洞門

2017・10・9

中津のオッサン「森鴎外と耶馬渓」

 

暇つぶしに図書館から森鴎外の「小倉日記」を借りていて読み、気になった個所を訳してみました。間違いがあれば指摘してください。


森鴎外と耶馬渓

森鴎外は1899年(明治32年6月20日)日本陸軍第12師団軍医部長に着任、小倉時代の鴎外について田中美代子(1936(昭和11)1018日-)文芸評論家)は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた鷗外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘。末延 芳晴(すえのぶ よしはる、1942年‐) 評論家)。『森鴎外と日清・日露戦争』において、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、鷗外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、鷗外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」とあります。また、末弟の森潤三郎が記述したように小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。

私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得ます。

 

森鴎外『小倉日記』【明治33年(190061日~7日】の記述

森鴎外 67日大分、日田、耶馬渓の旅

「午前九時小倉を発して大分に向ふ。徴兵の状を視察せんが為めなり。此行始て豊州線路(ほうしゅうせんろ)に由る。天晴れて風冷し。沿路麦圃(むぎばたけ)多く、又櫨樹(はぜ)の林を見る。」

鴎外が乗車した当時、朝9時に小倉駅を出発し、「午後一時四日市(宇佐)より汽車を下り」まで4時間を要しています。鴎外はよく行橋までは鉄道を利用したようですが、行橋以南に行ったのはこの時のみのようです。『小倉日記』によると、鴎外は四日市(宇佐市・現在の柳ヶ浦駅)で鉄道を下車した後、人力車で宇佐神宮に参拝し、その後、馬車で日出に向かい、この日は日出で宿泊しています。翌日は別府亀川から電機軌道で大分に向かいました。この電機軌道は通称〝別大電車〟と呼ばれ、九州初の路面電車として明治33年に開業しました。鴎外は当時開業したばかりの電機軌道に大変興味を持ったようで、その形状や座席配置など細かく日記に書き記しています。4日に大分を発ちますが、ここからは馬車を乗り換えながら途中1泊して日田豆田に向かい、57日まで逗留しました。

 

森鴎外『小倉日記』にえがかれた耶馬渓  

明治33年6月7日

原文・・・七日。晴。午前七時隈を発す。人力車に乗りて一山を踰え、三郷村に至る。山容水態漸く変じて、所謂火山岩の浸蝕を呈はし来る。石の隧道にして石の牖なきものを過ぐること一つ、下郷村の島に至りて午餉す。此より二時に柿坂、二時半に口の林、三時半に粟生(アオ)に至り、又石の隧道を過ぐること五つ、その三は牖あり、その二は牖なし。三郷村より此に至るまで、両山一水を挟んで聳え、道右岸を通ず。而して山と道との間、別に一渠を鑿りて道をして沮洳たらしめず。此水は即ち山国川にして、山陽記中耶馬渓を作るものなり。

かさなるや山々の峯雲の峯

清水入り出づる岩の窪哉

すずかせや吸い殻はたく岩の窓

午後六時仲津より汽車に上り、九時小倉に還る。

 

現代文・・・7日。晴天。午前7時日田市、隈を出発。人力車に乗車して伏木峠を越えて、中津市山国町三郷に至る到着、山並み川の流れの状態著しく変化、いわゆる火山岩の浸食を顕著にあらわしています。岩石をくり抜いたトンネルにして岩石を採光や通風のために窓をくりぬいた窓のない一か所を通過、中津市耶馬渓町下郷、島に到着し昼食。これから2時に柿坂、2時半に口の林、3時半に中津市本耶馬渓町青に到着。また、岩石をくり抜いたトンネルを通過すること5ヵ所、その内3ヵ所は採光や通風のために窓をくりぬいた窓があり、その内2ヵ所はありません。三郷村からここに至るまで山々は川の流れはさみ聳え、道は右岸を通っています。そして山と道との間、別に人工によって掘り割り突き進みにして道にして土地が低くて水はけが悪くはありません。この流れはすなわち山国川にして頼山陽が書きしるした耶馬渓を造った流れです。

かさなるや山々の峯雲の峯

清水入り出づる岩の窪哉

すずかせや吸い殻はたく岩の窓

午後6時中津駅より汽車に乗車し、9時に小倉に帰る。

■当時の鉄道事情

豊州線路は現在のJR日豊本線のことで、小倉―行橋間は明治28年(1895)、行橋―柳ヶ浦間は明治30年(1897)に開通しました。開業当初は前者が「九州鉄道」、後者が「豊州鉄道」という別会社で、明治34年(1901)に合併

 

 

田中訥言作・大和絵屏風         (現徳川美術館所蔵)
田中訥言作・大和絵屏風         (現徳川美術館所蔵)

当時の御用商人たちは、格付を、三人衆(松坂屋の伊藤家ほか)、除地衆(のち岡谷鋼機の岡谷惣助ほか)、十人衆(材摠木材の鈴材摠兵衛ほか)で、財力はありながら、決して派手な暮らしはしないのが名古屋商人の特徴であり、「質素倹約」が共通の家訓でありました。

 

頼山陽は1813年11月、小林降雪に連れられて、本町の岡谷惣助宅は案内されました。丁度そこで大和絵屏風を制作中の田中と訥言を紹介されたのであります。その縁でのち「訥言作・楠公父決別図」に山陽が画賛を書いております。また、倹約家の惣助はその屏風を500両で買うのであります

 

明治維新の廃藩置県により、豪商達は用立てした手形が落ちず、全国的に破産者が続出するのでありますが、名古屋商人は44人中17人が生き残り、明治から昭和にかけ名古屋経済をけん引するのであります。

 

名古屋人の借金に頼らない経済観念は歴史的にこうして培われました。それで、例えば無借金経営の会社が多い。持ち家率は全国一。嫁入り道具は派手で三人娘がいると身上が破産してしまうと言われている。最近では名古屋嬢の下着保有数は全国一という統計があります。

名古屋名物、モーニングコーヒー(350円)これは普通でさらに野菜サラダ付きもあり(お値打ち感の象徴)
名古屋名物、モーニングコーヒー(350円)これは普通でさらに野菜サラダ付きもあり(お値打ち感の象徴)

2017・10・5

山根兼昭さん「頼山陽の名古屋探訪・今昔記ーその2 江戸後期、名古屋の豪商たち」

 

尾張藩は、戊辰戦争などの軍事費調達のため御用商人に、総額で9万両もの拠出を命じました。

田中訥言作           「楠公父子訣別図ー画讃頼山陽」
田中訥言作           「楠公父子訣別図ー画讃頼山陽」

五十年程前ですが、ある経済評論家が「東京人と大阪人と名古屋人が食事をする。東京人は三人分のお金を用意する。大阪人は自分の分を確認する。名古屋人はお礼の言葉を考える。」

 

名古屋人の合理性は、ただ安いだけでは買わない。安いのではなく「お値打ち」でないとダメなんです。高くても良いものーお値打ちーなら買う。その観念の発展した最たるものが、「トヨタのカイゼン」です。戦後まもなく社長になった商社出身の石田退三は、車ずくりはど素人でしたが、生産性の向上、品質管理を徹底させ無駄を省く方策を確立したのであります。これが世界用語「カイゼン」です。

 

八大都市で魅力度最低は名古屋だそうです。しかし知らないと云う事は損ですね。今名古屋へ来たらお金がたまって楽しい老後が待っているかもしれません。

 

 

「若菜」ホームページの写真が小さく、拡大してもここまで。
「若菜」ホームページの写真が小さく、拡大してもここまで。

2017・9・29

「得月楼」と書いたのは…

見延典子 🔁 山根兼昭さん

 

山根さんから教えていただき、「若菜」のホームページを見ました。当初「得月楼」の署名は「子成」(山陽の字(あざ)」かと考えましたが、ここで字を使うのは疑問です。


署名をよく見ると、そもそも最初の漢字が「子」であるかも疑問です。続く漢字は「紘」のように編と作りから成っているように見えます。

 

但し書きに「水西荘」の文字が見え、山陽ゆかりで名古屋方面にも詳しい人物として後藤松陰が思い浮かびます。松陰の号は「世張」。もっとも「世張」を崩して写真のような署名になるかはわかりません。頼山陽が書いたのでないことだけは明らかと思いますが、思い過ごしでしょうか。

 

どなたかご意見をお願い致します。

 

 

 山陽命名「得月楼」扁額
 山陽命名「得月楼」扁額
 宮ノ渡し
 宮ノ渡し

名古屋宮ノ渡しを上陸し、2~3百メートル先に宮ノ宿本陣がありました。明治の世になり、六年に本陣跡に開業したのが、「ウナギの蓬莱軒」でした。当時、宮町(旧宮ノ宿)は、東海道七里の渡しで桑名へ、陸路は佐屋街道で桑名へ、中山道へのバイパスとして美濃垂水まで美濃街道として文字通り多くの人々が行き交う要衝でありました。

蓬莱軒も大変繁盛しましたが、特に近所の旅館などからの出前の注文でした。いくつものドンブリを運ぶたびに、割れるものが出てきました。

2017・9・28

山根兼昭さん「名古屋の食文化の代表格『ひつまぶし』」🔁 見延典子

 

頼山陽が名古屋に逗留したという記録の中に、五〇歳の時、納屋橋の料亭を「得月楼」と命名いたしました。この「得月楼」は漬物が有名でしたが、メニューの中に「ウナギ料理」もあり山陽も賞味したと思われます。ウナギの料理蒲焼きーは江戸時代には多く食されており、中期には、平賀源内が「土用の丑の日」にウナギを食べることを考案し、以降、夏場に食べる習慣が全国に広まったと言われております。

 蓬莱軒本店
 蓬莱軒本店
「ひつまぶし」
「ひつまぶし」

それを見かねた女将(先々代)が、おひつにご飯とウナギを盛って、数人前とし、食べる時茶碗に分けることを考え評判を得ました。しかし後、おひつを一人前の大きさにして現在の「ひつまぶし」になったのであります。

 

一人前のおひつでも、量が普通のドンブリの一半くらいありますので、最初ご飯とウナギをまぶす、次に茶碗に一ッ杯分を取って食べる、次は茶碗にとってのりやワサビをトッピグして食べる、三杯目はワサビや薬味を添えて、特製のお茶を注ぎ、お茶ずけとする。沢山食べてもさらにおいしい。これが名古屋の食文化です。

 

現在では多くのうなぎ屋さんで「ひつまぶし」は食べられます。また本家争もあるようですが、残念ながら山陽は「ひつまぶし」に出会えませんでした。

 

(感想)

蓬莱軒本店は、熱田神宮の西で不便な場所ですが、午後一時に行っても二時間待ちで、三時にやっと食べることが来ましたが、待つだけの価値はありました。繁盛の原因は中国の人が半分くらいで驚きました。名古屋でショッピングする外国人はそう多くありませんが、「ひつまぶし」のために新幹線を途中下車するのかなと思いました。来年は九州旅行ですが、再来年は名古屋へ「ひつまぶし」を食べに来てください。

 「若菜」のホームページから
 「若菜」のホームページから

山根兼昭さんへ 🔁 見延典子

 

「ひつまぶし」おいしそうですね。中国人の食への執念(?)にも圧倒されます。ところで「得月楼」の扁額ですが、内容、名前がよく見えません。「若菜」のホームページに同じものが紹介されていますが、やはり不鮮明です。山陽の書体とは異なるような気がいたしますが…。

 

 


2017・9・22 

山根兼昭さん

「頼山陽の命日に寄せる」

 

9月23日、今年は山陽没後185年です。

伊藤松雄著「随筆 漢詩を探る」-昭和10年7月桑文社刊ーの中から頼山陽の記載を紹介いたします。


本文(抜粋)

京都では、鳩居堂の世話で、木屋町に詫住居を営んだが、翌年三十歳の時美濃の国へ遊歴に出かけた。処が美濃国郡上郡上有知村に村瀬平五郎と云う豪農があって、傍ら酒造と質屋をやっている。

しかもこれが藤城と号して、詩文に没頭している人物、山陽はこの家に一ヶ月ばかり逗留して、その添削や指導にあたった。この藤城が山陽にとっては第一の門人で、山陽より六歳年長であった。・・・

それから大垣へ付近を遊歴して後、濃州を経て、名古屋にも暫く逗留し、やがて京に戻ってきた。時に山陽三十一歳。再び熊谷鳩居堂の世話で、今度は三本木へ家を持った。・・・

 

ー山陽と細香ー

山陽が門戸を開いて間もなくのことーー友人の梁川星巌が「妻を迎えたら如何だ、誠に好配偶と思われる女性がある。」とすすめた。

美濃大垣、江馬春齢と云う蘭科の医者、その娘で「お裊」という妙齢な美人、しかも墨竹をよく描き、学才あって、詩文に秀でていると云うー 山陽はその才名も兼ねて聞いていたので「では、何分よろしくお願い申す」と山陽は星巌に一切を任せた。・・・ 

四五日後のことーー細香女子が名古屋から戻って久しぶりでの春齢一家団欒、夕食の卓に向かった折、「裊や、お前のところへ結婚申し込みを、梁川星巌殿がはるばる持ってきたが、相手は頼徳太郎と云う貧乏儒者でなア、お断りしたよ。」

これを聞いた細香は、サッと顔色を変えて立ち上がったが、それからというもの、細香は気分がすぐれないと言って寝込んでしまった。後で訳を聞くと「女子と生まれたからには、是非とも頼氏の様な才子に嫁する日のあることを期しておりました。それをすげなく拒絶されたとあっては生きている甲斐はございません。」

春齢は驚いて、梁川星巌に訳を話しましたが、「それは誠に残念なー実はつい最近、山陽は結婚いたしました。」「娘の心が分からず誠に軽率なことをしてしまった。不憫ですのでせめて山陽先生のご門下にお加へ願へますか。」 それで江馬細香は門下の一人となった。・・・

 

「感想」

1、著者・伊藤松雄(1895年~1947年)昭和前期に活躍した演出家、頼山陽の記述をするとき、木崎好尚著「家庭の頼山陽」の山陽年譜などは参考にしていたと思いますが、山陽が京へ出た時、美濃遊歴時の年齢が2~3年早い事は気になります。随筆なのでこういう書き方もあるかと思います。

2、京都鳩居堂・1800年の初めころより山陽が鑑賞し改良された筆や墨が完成、気に入った山陽は鳩居堂に書など贈った。そうゆう縁で、京での山陽の生活の援助を鳩居堂が積極的に行った事が解かりました。

 

 

2017・9・15 杉本武信さん

             「頼山陽が出奔した理由は何でしょうか」

 

頼山陽が寛政12年に京都へ出奔した理由は何でしょうか。

漢学に飽き足らず、と言ってよいのでしょうか。

自由な学問を求めて、と言った方が良いのでしょうか。簡単には言えない。いろいろな理由があるのでしょうか。

 

杉本武信さんへ

21歳の頼山陽は立っています。右足は右岸=自分が希望する将来。左足は左岸=親や周囲が求める将来。右足と左足の距離がどんどん離れていき、痛みに耐えかねた頼山陽は川に落下します。本能のように泳ぎついた先が右岸にある京都だったというところでしょうか。

                         見延典子

 

 

2017・9・12  95さん「古文書研究会への参加希望」

 

山陽の後藤松陰宛書簡、梅颸さんの書簡コピーを持っております。江戸期の書簡がスラスラと読めるようになりたいと熱望しております。一度、月に二回開催されているとお聞きしている書簡を読む会に参加してみたいとも思っています。今月の会の日程などお知らせくださいませんか。時間の都合をつけて馳せ参じようかと思っています。お返事お待ちしています。

 

古文書研究会のページ、2つ目に出て来る漢詩について。

梅児墳外緑陰低は 木母寺にある梅若のお墓のことです。

木母寺の梅若のお墓の外は緑に覆われ といった意味だと思います。

 

95さんへ

 

ご連絡いただき、ありがとうございます。

古文書研究会は下記の通り行われています。

 

日時 毎週第2、4木曜日 15時~17時

場所 頼山陽史跡資料館(広島市中区袋町5-15)☎082-542-7022

講師 頼一先生(頼山陽史跡資料館名誉館長 広島大学名誉教授)

 

まずはご見学にいらしてください。

ごく稀れですが、日程が変更する場合があります。事前に資料館にお電話でご確認することをお勧めいたします。ご見学にいらした際、入会方法、会費についてご案内いたします。

 

漢詩の訳については、担当者にお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

 

                 頼山陽ネットワーク事務局

 

2017・9・2

グランマさん「ミステリーなお話になってまいりました!」

 

「山陽文徳殿」の内部を拝見させていただき、正直驚いています。

建物の外観といい、広い畳に山陽像といい、昭和6年に構想されたことと言い、何か大きな意図を感じざ


を得ませんね。

一種の廟なのでしょうか?畏敬の念をもって?というか、奉られ建てられたのでしょうか。

確かに、その思いは昭和6年日本人が「大日本」という幻想を抱きはじめたことにつながるような気がします。

ミステリーなお話になってまいりました!

   見延典子
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