2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。

この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。

 

連載小説

 はるかなる蝦夷地 

    ―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末

                           見延典子

主な登場人物

  頼三樹三郎(23才)は頼山陽の3男 

  齊藤佐治馬は江差の町年寄(28才)

  松浦武四郎(30才)は後に「北海道」の名付け親となる

  

あらすじ 1847年(弘化4)蝦夷地江差家で逗留中の頼三樹三郎は、患っていた乾癬も快癒し、念願であった蝦夷地探索も果たす。いよいよ蝦夷地を去る日が近づいてきた。

 

2025・4・14 第40回

 

江差に戻った三樹三郎は一年九ヵ月滞在した江差を去る支度をはじめた。「江差の五月は江戸にもない」といわれるほどの賑わいも目に収めた。風土が違えば、広がる景色も、そこでの暮らしも異なる。しかし人の心、喜怒哀楽という感情の面では、共通するものがあるのではないか。多くの見聞を広げた日々であった。


 荷造りしていると人影が近づいてきた。佐馬五郎である。江差に来たときから三樹三郎を兄のように慕ってくれた。素直で、真っ直ぐな佐馬五郎の存在は異郷にあって安らぎであった。その佐馬五郎も元服を終え、十六歳の若者になった。髪の形も変わって、見違えるほど成長している。

「ほんとうに帰ってしまうのですか。漢詩も、文を書くことも、もっと教えてほしいのに」

「佐馬五郎殿は努力家だから、確実に上達している。これからも怠らず、続けていけ必ずうまくなるやろう。書きためたら便りをよこせ。添削して進ぜよう」

「ほんとうですか。そうします」

「佐馬五郞殿はこれからどうされるのや」

「所詮は部屋住みです。父上や兄上が許してくれるなら、三樹三郎殿のように詩文を読みながら各地をまわってみたい」

 三樹三郎は苦笑した。

「いやいや、わしのようになってはならぬ。そやけど、旅はたのしい。それを生業とするのは厳しいが、たまの旅なら楽しかろう。京都にも来るがよい」

「お訪ねしてもよろしいのですか」

「京都には寺社が多くある。いろいろ案内して進ぜよう」

「必ず参ります」

 目を輝かせて答える佐馬五郎ではあるが、京都行きの夢は叶わないことになる。二年後に病にかかり、わずか十八歳でこの世を去るからである。

 仲間たちが送別の会を開いてくれた。一度では終わらず、また今晩も、明日の夜もと続いた。その中に思いがけない顔があった。

「武四郎殿ではないか」

 松浦武四郎が松前に向かったのは今年の正月であった。引き留めても急ぎ江戸に帰るような話をしていたので、無理にひきとめなかった。しかし話を聞けば、江差を去ったあと松前に長逗留していたという。

「蝦夷地は去りがたく、長居になってしまった」などととぼけたことを言っているが、実際には松前に滞在しながら、松前藩の内情をあの手この手で探っていたのだった。だがほんとうの話をするはずもなく、三樹三郎もよもやそのように大胆なことをしていようとは想像もしない。

 武四郎は三樹三郎よりやや早く船に乗った。今後は江戸で暮らしを立てるという話であった。三樹三郎は故郷の京都に根を下ろすつもりであったから、こんどこそは今生の別れになるであろうと思ったが、そう遠くない将来、二人は京都で思いがけない再会を果たすことになる。

武四郎が蝦夷地を離れたときには見送りはほとんど集まらなかったのとは対照的に、三樹三郎が去るときには多くの友が集まった。「江差八勝」でつながった齊藤佐治馬をはじめとする仲間もさることながら、お政の姿もあった。涙ぐんでいるようにも見える。

「またいつか戻ってきます」

 再会を誓った三樹三郎ではあるが、三樹三郎にも「またいつか」は来ないのである。

 

2025・4・9 第39回

 

 雪が解け、春になったら、三樹三郎にはどうしてもやりたいことがあった。蝦夷地内陸部の踏破である。蝦夷地より北に位置するオロシアの脅威に加え、蝦夷地周辺には異国船が出没を続け、日本をどのように守るのか急務になっている。せっかく蝦夷地まで北からには、最果ての地まで行ってみたい。幸い健康は回復した。まずは現況を知ることからはじめるべきである。

  但し、実際に事を起すのは簡単ではない。1839年(天保10)蛮社の獄が起こり、高野長英は捕縛されたものの、1844年(弘化元)牢屋敷の火災によって逃亡。今も見つかっていないことから、各所での取り締まりが厳


しくなっていた。それは蝦夷地とて同様で徹底した身元調査が行なわれた。

松浦武四郎は江差の人別帳(戸籍)に入れてもらうことで蝦夷地探索を可能にしたが、それは武四郎が天涯孤独の身であったからで、京都に母、兄がおり、いずれ京都に帰るつもりの三樹三郎はそこまでの決断はできかねる。

やがて「群来」という浜言葉があるように、海を埋め尽くすほどの大量のニシンが岸近くまで押し寄せ、産卵のために海の色が一面乳白色に変わりはじめた。群れ飛ぶカモメ、波間を渡るヤン衆の声、浜ではモッコを背負う人の波、波、波。江差の五月は江戸にもないといわれる季節が目前まで来ている。

三樹三郎もじっとしていられない気分になってきた。幸いにも道連れができた。久留米からきた柴山文平、紫陰と号する若者で、蝦夷地の探索をしたいと海を渡ってきたという。快活で、行動的な若者である。話しているうちに、冒険心がさらに奮い立ってきた。武四郎のように北蝦夷(樺太)、東蝦夷(択捉)までは行けずとも、行けるところまでいってみようという話になった。

準備に取りかかる。なるようになるというのはこれまでまでの三樹三郎で、病を得てからは身体をいたわる思いが芽生えた。夜は夏でも寒いくらいと訊けば防寒用の装備を整え、獣が多く、いつ襲いかかってくるかわからないと聞けば護身用の刃物も用意する。水や食料の持参も限度があるから、道中にある集落などの位置も確認する。

いよいよ出かける日になった。だが意気揚々と心が弾んでいたのは最初だけで、昼間でも薄暗い原始林の中を歩くことが二日、三日と続いていくうち、不安な心がもたげてくる。あれほど弾んでいた文平との会話も途切れがちになる。しかし進んでいくしかない。そんなとき出会ったアイヌたち。言葉こそ通じないものの、身振り手振りでこちらの思いを察してくれるし、アイヌがいわんとしていることもわかる。彼らの存在が行く先を明るく照らす道標のようになっている。

「木古内、巉岩、中破して、海、茫然たり。首を回へせば、亂峯攅簇の天、胡馬、生来、蹄鐵に似たり。鰏馳す。八十八灣の間」

「有珠、巉巌、蒼海を控へ。岸勢、弓を彎くに似たり。古刹、林を出でヽ碧に。奇花、石に纏うて紅なり。胡童、悪馬を馴らし。夷婦は、兒熊に乳す、獄頂、煙氣鎖し、黄昏、黒風漲る」

京都で生まれ、大坂、江戸で青春時代を送ってきた三樹三郎にとって、蝦夷地で見る原始の姿を残す蝦夷地の壮大で粗野な風景がいかに新鮮であったかが文章から伝わる。

「胡童、悪馬を馴らし。夷婦は、兒熊に乳す」とあるのは、アイヌの女性や子どもについて書いたものだ。暴れ馬に乗るアイヌの子ども、小熊に乳を与えるアイヌの母。野生の動物たちと共存している姿に感銘をうけたのだった。

但し、三樹三郎には木古内、有珠について記した文のほかに、沙流(日高)や現在の北方領土の国後に関する文も残っているが、日程から考えて実際に訪ねたかは判然としない。実際には和人領域内にある木古内、有珠あたりまでしか行っていないと考えるほうが自然である。

 

2025・4・5 第38回

 

三樹三郎の乾癬は、治療、乙部温泉での湯治のほか、季節がゆるみはじめたこともあって、幸いにも改善の兆しが見られた。三樹三郎は佐治馬に切り出した。

「これだけのことをしていただいたの

 紺紙金字経
 紺紙金字経

に、何もお返しができず、心苦しく思っておりました。なにとぞこれをお受け取りください」

三樹三郎は一片の紙切れを差し出した。佐治馬は手にとってしげしげと見入った。そこには三行で次のように書かれている。

 

七等覚支八聖堂支実際相諸菩薩摩訶薩

如実了知而於中学於一切法如実了知略

広之相善視元四念住際是名四念住実際

 

「これは?」

「はい。紺紙金字経と呼ばれるもので、ご覧のように紺色に染めた紙に、金粉や銀粉を混ぜたにかわで経文が書かれています」

「なにゆえこのようなものをお持ちで?」

「奥州を巡っているとき、平泉で親しくなった者からいただきました。なんでも奥州藤原氏ゆかりの経ということでした」

本来の紺紙金字経は、藤原清衡・基衡・秀衡の三代が中尊寺に奉納したいわゆる中尊寺経の巻物のうち、基衡が父清衡の成仏を願って法華経千部奉納を発願した紺紙金字法華経を指し、藤原清衡が中尊寺を建てた1126年に奉納したとされる。

後に金粉や銀粉で書かれた経文が流行し、国内でも数多く作られるようになった。三樹三郎の入手した紺紙金字経もその一つと思われるが、定かではない。

「そのような経緯があるなら、三樹三郎殿が持っているのがよろしかろう」

「いえ、昨年に江戸を発ったときには、成り行き任せの生き方しかしておりませんでしたが、北の海を渡って江差の地では齊藤様はじめ多くの皆様のお世話になりました。百印百詩の会を成功させ、多くの友も得ました。しかも乾癬の快癒にまで尽力してくださり、何かお返ししなければ、気が済みません。祖父は儒教を信奉しておりまして、このたび初めて仏の慈悲に触れた気がいたします。その意味でも受け取っていただきたいのです」

 三樹三郎の言葉は本心から出たものであった。子どものころから手のつけられない腕白ぶりで父の山陽を嘆かせ、大坂の篠崎塾や江戸の昌平坂学問所でも自分の思いを優先させる生き方をしてきた。しかし江差に渡り、健康を害する経験をして多くの人々に助けられ、一人で生きているわけではないという当たり前のことに気づかされた。青春の最中にいる三樹三郎ではあるが、見える景色が変わってきた。

「そこまで言われるなら、乾癬の治療に当っている本多殿に差し上げたらいかがか。本多殿も喜ばれるであろう」

 三樹は佐治馬の言葉に従い、から本多に紺色金字経を贈った。代わりに佐治馬に対しては齊藤家が所有する果樹園「十適園」に関する記文を書いて贈ることになった。十適とは「晴雨雪月花酒茶琴書画」を備えたという意味である。

雪が解け、春になると果樹の花が咲き出す。敷地内には新築の別荘が建つ予定になっている。三樹三郎は早速その地を訪ねて構想を得た。

「伯交(佐治馬のこと)は才高く、これに加ふるに学を以てし、養うて発するゆゑんのもの、これを講ずること熟せり。然れども千軍萬馬の中に立ち、膚撓(わめ)かず、目の逃るもの、亦皆今日の物に適すると、物に適せざるとより始まる」と書き、「十適の楽しみを楽しみ、さらに経史の学をもって精神を涵養、他年外難の暁には千軍萬馬の中に立ち、勇気を奮って事に当らんことを望む」とも言った。

「他年外難の暁には千軍萬馬の中に立ち、勇気を奮って事に当らん」という言葉はその後佐治馬が直面する現実を言い当てるものであったが、佐治馬自身はもちろん、書いた三樹三郎自身もその時点で自分の言葉が予言めいていたことを知るよしもなかった。

 

2025・3・28 第37回

 

 一寸先も見えなくなる大吹雪、肌を切るように吹き抜ける風の鋭さ。ゴウゴウと地鳴りのような音をたててうねる日本海。江差の冬は過酷である。

江差に建つ江差八勝記念碑
江差に建つ江差八勝記念碑
頼三樹三郎が書いた江差八勝
頼三樹三郎が書いた江差八勝

瀬戸内海や琵琶湖など穏やかな風景に馴染んできた三樹三郎にとって、天候次第で荒れ狂う日本海の様子は、いかにも北の果てに来たという思いを実感させ、もはや逃げ場はないという気にさせられる。ひたすら時がたつのを待ち、耐えるしかない、と。

 齊藤佐治馬の好意に甘え、近隣の湯


治場での長逗留を続ける。食べさせてもらっているだけでもありがたいのに、百印百詩の場所を提供してくれ、さらには多くの友も紹介してくれ、もはや頭の上がらない存在である。

 詩会はいったん中断となったが、三樹三郎のもとには本多覃、原元圭、釈日袋、梁瀬存愛、西川雍 高野慊らが詠んだ漢詩が届けられ、添削を続ける。その甲斐あって漢詩を詠む力は上達し、先の六名に佐治馬、三樹三郎を加え、八人で漢詩を貼り合わせた詩額を作ろうという話に発展した。題材として江差にちなむもの、ならば江差港の風景を詠もうということになり、八箇所の名勝について八人がそれぞれ七言絶句を詠み、「江差八勝」となってで後世に残ることになる。

 実際に詩会が開かれたのはその年、1847年(弘化4)五月で、詩額を作ることに尽力したのは漢詩では三樹三郎、資金は佐治馬である。三樹三郎はなんとしても江差の地に自分が滞在した足跡を残したかった。佐治馬はその思いに応え、支援を行なってくれたのだった。とうぜんのこととして、完成した詩額は齊藤家に納められたわけだが、程なく詩額は火災で焼け、三樹三郎は京都に帰ってから書き直すことになる。ただ、の書き直したものも京都から江差に送る途中で紛失してしまい、三樹三郎は三度書き直すことになる。後世、当初とは語句の異なるものが存在するのはそのためである。

 以下、江差八勝に納められた八首の七言絶句の表題を列挙する。

 

江差八勝

笹山暁雪(笹山の暁雪) 頼三樹三郎

法華寺霜鐘(法華寺の霜鐘) 釈日袋

鴎島煙檣 (鴎島の煙檣) 西川雍

津花夜市(津花の夜市)本多覃

大澗の遊鴎(大澗の遊鴎)梁瀬存愛

愛宕観瀾(愛宕の観瀾)原元圭

乙浦漁火(乙浦の漁火)高野慊

豊橋涼月(豊橋涼月)齊藤観

 

 三樹三郎の「笹山暁雪」は以下の通りである。

 

笹山暁雪(笹山の暁雪) 

笹山帯雪立洋空 笹山雪を帯びて洋空に立つ

掩映暁波藍碧中 掩映す暁波藍碧の中

江差江頭幾千家 江差江頭幾千の家

無窓不納白玲瓏 窓として白玲瓏を納めざる無し

 

意味 まだ雪をいただく笹山が広々した春の空にそびえ立っている。その姿が明け始めた濃い青緑色の波の中に映っている。江差港に面した多くの家並みのどの窓からもこの麗しく照り輝く姿が見えないところはないのである。

 

2025・3・24 第36回

 

 なんども通ううちに、おまさの身の上もわかってきた。出身は津軽で、父はなにがしかの譴を被って落ちぶれ、母は病がち。弟たちは幼なく、一昨年の三月のニシン漁時期にやってきて金を貯めた。ニシン漁が終わると郷里に帰ったが、今年の三月に再び舞い戻り、そのまま江差に居続けているという。年齢は十八というが、素性も含め、酒場の女の言葉だから、ほんとうかどうかはわからない。


 身の上話が誠であれば気の毒ではあるが、不幸な生い立ちを感じさせない明るさがよい。江差には浜小屋、酒場、茶屋、遊郭など、さまざまな形態の遊び場がある。おまさは津軽時代の知り合いの縁で、江差で働くようになったという。

「田舎に帰らないとは、惚れた男でもできたのか」と三樹三郎は冗談めかして聞くと、曖昧にしか答えない。あんがい当っているのかもしれない。

江差追分は滞在中に憶えたという。幼い頃から歌は好きで、一度聞いたら憶えられるという。三味線もまだ二年にしかならないのに、練習の甲斐あってみるみる上達して、教えてくれる者からは「筋がいい」と褒められたという。

馴染みになるにつれて言葉にお国訛がまじるようになった。津軽からきたというのは誠であろう。それがまた独特の情緒を生んでいる。歌も三味線も上手く、明るいながら、酒が進むほどに憂いのある表情を浮かべる。そんなおまさに、三樹三郎はますます入れこみ、二日と空けず通うようになった。

あるとき、おまさは文字が読めず、書けないことを知った。三樹三郎の母の梨影も下働きをしていたころは文盲に近かったが、父の山陽に見初められて家庭に入ってからは、山陽の教えをうけて、やがて手紙を書き、絵も描けるようになった。

父母はその当時は珍しい恋愛結婚であった。三樹三郎もできるなら好いた女性と結ばれたいと考えている。三樹三郎はおまさに母の面影を見ていたのかもしれない。

ところがそのうち三樹三郎の飲み屋通いもままならなくなってきた。江差に来たときから患っていた乾癬が、いったんはよくなったかに見えたものの、再び悪化したのである。初めは手足に症状が出るだけであったのに、身体にまで広がり、痒くてどうにもならず、夜も眠れない。

同情した佐治馬が「温泉に行ってはどうか」と進めてくれた。いわゆる湯治である。時間のかかることであるが、根本的に治していくしかなさそうだ。

 

2025・3・23  第35回

 

 江差に残った三樹三郎の周辺はぐんとにぎやかになった。詩を詠み、書書いて欲しいという依頼が舞いこむようになったのだ。もちろん三樹三郎も大いに乗り気で、揮毫の依頼はすべて引き受ける。

 三樹三郎の才能に魅了された佐治馬は、以前から考えていた仲間たちとの詩会を定期的に開くようになった。


 集まってくるのは以前からつきあいのある蘭方医の本多覃、同じく蘭方医で近江国出身の原元圭、日蓮宗法華寺十四世住職で、能登出身の日袋、回船問屋を営む梁瀬存愛、松前藩医の西川春庵 同じく松前藩士の高野慊である。

 全員、三樹三郎の百詩を詠む様子は見物しており、三樹三郎の実力のほどはよくわかっている。「ただの酒好きな若者だと思っていたのに、人はみかけに寄らないものだな」と今は尊敬の的になっている。三樹三郎自身は何も変わっていないのに、いきなり持ちあげられたようで、こそばゆいような思いがする。

 仲間たちはそれなりに顔も広く、三樹三郎への揮毫の依頼はさらに増えた。そして収入が増えれば、足は歓楽街へと向いていく。

 三樹三郎には目当ての女性がいた。佐治馬が最初に連れていったくれたときに会った昇月楼のおまさである。おまさの三味線に合わせた歌声がずっと心に留まっていた。

 その夜、三樹三郎は雪の降る中をおまさのいる店へと向かった。一度しか会ったことはなく、自分のことなど記憶していないだろうと思っていたが、三樹三郎を一目見るなり「頼さま。ずいぶんご無沙汰ね」といった。

「憶えていてくれたか」

「そのお顔は一度見たら、忘れませんよ」

 三樹三郎はあばたの残る自分の顔を掌で撫でた。

「でもあれっきりなので、どうしているのかと思っていたよ。なんでもたくさんの詩を詠んだという話だけど」

 百印百詩の話はおまさの耳にも届いていたのである。

江差では噂は飛ぶようにひろがる。江戸で起きたこと、京都で起きたことも、さして日をおかず広まっていく。特に飲み屋街では加速度的に拡散していく。

おまさといると楽しい。注いでくれる酒もおいしい。おまさの透けるような肌白い細い指先などいかにも雪国の女という感じである。

 

2025・3・19 第34

 

 一日百印百詩が終わり、まだ余韻が続く中、新年が明けた。松浦武四郎は「松前に向かう」と言いだし、旅支度をはじめた。周囲の者は道中の荒天や雪害を理由に止めたが、本人は「いや、案ずるまでもない。わしにとって松前は目と鼻の先や。それに来春には今一度北樺太へ向かいたい。そのため

   地図の「江刺」は正しくは「江差」


にも松前にいて、来春の計画など知りたいのや」と聞く耳を持たず、荷造りを続けている。

 その様子を見ながら、三樹三郎は「百印百詩の会は、ここ江差では大評判を呼んだ。幸いにもわしのところには揮毫の依頼が舞い込みつつある。武四郎殿とて一稼ぎできるであろうに」

 三樹三郎がいうように、百印百詩を境にそれまで三樹三郎のことなど歯牙にもかけなかった者からも「揮毫をお願いしたい」と声がかかるようになっている。このまま武四郎と二人で「旅猿」を続けるのも悪くはないと考えていたところであった。

 だが武四郎は「篆刻は食えない時代に生きる糧を得たいと始めただけのこと。いわば余技のようなもの」と淡々としている。

 三樹三郎自身は生涯の目標として詩を詠み、書を書くことを考えているから、武四郎の言葉には落胆を覚えた。

「では訊くが、武四郎殿の人生の目標とはなんや」

「日本中をもっと歩くことや。蝦夷地とて未踏の地がある。三樹三郎殿も歩くがいい。歩けば、世に中がよう見えてくるし、飯の種も転がってる」

「飯の種?」

「三樹三郎殿とて歩いて江差まで来たから、飯の種が見つかったのやろう」

「そういわれればそうや」

「せっかく蝦夷地まで来たのや。三樹三郎殿も蝦夷地の探索をしてはどうや」

「もちろんこのまま帰るわけにはいかない。春になれば奥地に分け入ってみたいと考えておる」

 武四郎は頷きながら、「いずれにしろ、江差の地で三樹三郎殿とで会えたことはよき思い出や。また会う日もくるだろう。そうや。三樹三郎殿。先日書いた百詩を、わしのために書いてくれぬか。記念に持っておきたい」

 二人で成し遂げた百印百詩である。三樹三郎は一晩かけて百詩を書き写したものを二部作り、武四郎はそこに百印を押した。できあがった二部の一日百印百詩を眺めながら、二人は改めて自分たちが偉業を成したという思いに包まれた。

正月早々、松前に向かうという松四郎に連れができた。如草という号を持つ俳人がやはり箱館に向かうというのである。折しも朝から吹雪いている日であった。それでも松四郎は蓑笠をかぶり、連れとともに平気な様子で出立していった。