2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。

この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。

 

連載小説

 はるかなる蝦夷地 

    ―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末

                           見延典子

主な登場人物

  頼三樹三郎(22才)は頼山陽の3男 

  齊藤佐治馬は江差の町年寄(27才)

  松浦武四郎(29才)は後に「北海道」の名付け親となる

  齊藤佐佐馬五郎(14才)は佐治馬の弟 

  齊藤佐八郎は佐治馬、佐馬五郎の父で、隠居している。

 

あらすじ 1846年(弘化3)9月末、蝦夷地に渡った頼三樹三郎は、江差の商家で、町年寄をつとめる齊藤家の食客となった。同室には蝦夷地を探検している松浦武四郎がいるが、彼の言動には不可解な点が多い。

 

2025・1・15  

はるかなる蝦夷地 第22回

 

「母上様 長きにわたる不在をお許しください。会津で秋琴殿にお頼みした便りは届いているでしょうか。その後、奥州を北上し、九月に蝦夷地に渡り、今は江差の町年寄齊藤家に厄介になっております。当地の寒


さは聞き及んでいる以上のものではありますが、幸い息災に過ごしております・・・・・・」

 そこまで書いたところで、三樹三郎の筆が止まった。

 江戸にいるころ、三樹三郎の妹で、母にとってはたった一人であった陽子がわずか十六歳の若さで病死したという訃報が届いた。今は兄の又次郎が広島の本家から京都に戻り、家塾の真塾を営みつつ、母と暮しているが、さぞ傷心のうちに過ごしているであろう。しかも三樹三郎が期待を裏切るような失態をしでかし、合せる顔がない。

それでも京都には帰らず、とうぶん北方を旅することに決めたことを伝える便りは、道中立ち寄った会津藩士の浦上秋琴に託した。秋琴の弟の春琴は京都で暮し、秋琴とは文を交しているだろう。また藩主という立場上、他藩の藩士と接触する機会も多く、秋琴に託せば、日数はかかっても母に届くと思ったからだ。

 当時、手紙のやりとりは、私信であれば、知り合いを介して手から手へ渡っていくことが多い。とはいえ相手の善意、親切に頼るわけだから、届くのに何か月、時に一年くらいかかることもあれば、場合によっては届かないこともある。

そうであっても託せるべき相手が見つかれば幸運である。今、江差では海を渡って内地に赴く者は少ない。天候悪化で人々の往来は途絶えがちで、頼りを託すべき相手もいない。

生来心配性の母であれば、三樹三郎がどのような日々を過ごしているのか気を揉み、食べるものも喉をとおらない状態ではなかろうか。「おのれはなんという親不孝であろうか」と情けなさのあまり、泣きたい気持ちになる。

筆をとめ、仰向けになって天井を仰いでいるとき、松浦武四郎が部屋に入ってきた。武四郎と同室で過ごすようになっておよそ一ヵ月ほどになる。武四郎は雪掻きの手伝いをするでもなく、ときおりふらりと外に出て行き、三樹三郎が床につくころ文机に向かって何ごとか書いている。そのせいもあって昼夜が逆転する生活を送っている。

 三樹三郎は思いついたように「武四郎殿は茶屋にはいかないのか」と問うた。

「茶屋? わしは酒は呑まぬから」

「酒は呑まずとも、何というか」

「なんや」

「つまり、その」

「女か?」

「まあ、そんなところだ」

「わしは化粧の匂いが苦手や。酒を呑む女子も好きにはなれぬ」

 ピシャっといわれ、三樹三郎は話を変えた。

「武四郎殿はいつも出かけているが、どこへ行かれているのか」

 

2024・1・10 

はるかなる蝦夷地 第21回

 

「それにしてもよう降るな」

 独り言のように呟きながら、三樹三郎は雪を掻く手をとめて天を仰ぐ。雪は三樹三郎をめがけ、一心不乱に降ってくる。海に近いせいか水分を吸った雪が顔をたたきつける。

 雪が降り続く日々は行動が制約される。といって何もせず過ごすわけ


にはいかない。三樹三郎は齊藤家の食客であれば、できることはしなくてはならない。そこで雪掻きが日課になった。齊藤家には下男もいて、本来雪掻きは彼らの仕事ではあるが、降り積もる雪の量があまりにも多いため、できる者がするという状態になるのだ。

蓑を着て、蓑笠をかぶり、手には藁製の手袋を履き、足にも足をすっぽり覆うような藁製の履き物をはいて、現在の雪掻き道具に近い除雪道具を使う。「雪かきすき」「こすぎ」ともよばれ。三尺(約90㎝)ほどの柄の先についている板に雪を載せ、掻いていく。

手や足はかじかみ、感覚がなくなっていく。半刻ほど作業するだけで、全身からは汗が吹きだす。なんとか屋敷前がきれいになったとしても、翌日には雪が降り、その繰り返しであった。この地で暮して行くには体力、根気が必要であることを思い知らされる。

気がつけば、佐馬五郎もいっしょに雪掻きをしている。幼い頃からよく手伝いをしているとみえ、雪を掻く動作、特に腰の入れ方など堂に入っている。それでも軒下から下がる氷柱をとったり、雪だるまをつくったり、かまくらをほったり、子供らしさも残っている。

 雪掻きを終え、熱い茶を飲み、供される餅など食べたあとは、心地よい疲労とともに、詩作への創作欲がみなぎるのを感じる。今回の蝦夷地での滞在中、できるだけ多くの漢詩を詠み、詩人として飛躍したい。

 その日も、頭の中に浮かんでくる文字を紙に書きつけていく。言葉が浮かんでは消え、別の組み合わせが生まれ、また自分で作り出した語句と思ったものが亡父山陽の詩の一節と気づくこともある。亡父の漢詩は繰り返し朗詠してきたからだ。亡父のことを考えると、自然に母梨影の面影が浮かんできた。

「京都の母上はどのようにお過ごしなのやろうか・・・・・・」

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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