2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
主な登場人物
頼三樹三郎(22才)は頼山陽の3男
齊藤佐治馬は江差の町年寄(27才)
松浦武四郎(29才)は後に「北海道」の名付け親となる
齊藤佐佐馬五郎(14才)は佐治馬の弟
齊藤佐八郎は佐治馬、佐馬五郎の父で、隠居している。
あらすじ 蝦夷地に渡った頼三樹三郎は、江差の商家で、町年寄をつとめる齊藤家の屋敷で知り合った松浦武四郎と1846年(弘化3)10月14日(太陽暦では冬至の頃)、齊藤家所有の雲石楼で「一日百印百詩」の雅会が開かれる。
2025・3・12 第33回
午後の日が高く登る。三樹三郎の勢いはますます盛んになっていく。三樹三郎自身が驚くほど言葉があふれてとまらない。
詩を詠みながら、なぜか八歳のころ亡くなった父山陽のことが思い浮かぶ。八歳といっても父が亡くなったのは満七歳のときだから、記憶は鮮明で
はない。父は肺結核に罹患し、闘病の日々を送っていた。それでも夜遅くまで明かりを灯して書き物をし、亡くなる瞬間まで筆を持っていたと母は語っている。また父を知る者は、一様に父の才能を認めている。子どものころはわからなかったが、自分が詩を詠み、文を書くようになって、初めて父の苦心やそれを克服していった偉大さがわかるようになった。
少しでも父の才に追いつきたいと自分なりに奮闘する日々であったが、今、その一端が開花しているのを感じる。幸いにも脳が空っぽになるという感触は全くなく、空洞になったと思う間もなく、どこからともなく言葉が補われ、満たされていく。
部屋にはさらに客が増えて、三樹三郎を休ませないほどの題が投じられる。三樹三郎は少しの焦りも見せることなく堂々と、一つ、また一つと詠んでいく。
三樹三郎の顔に影がさしてきた。日が陰ってきたのだ。日没まであとどのくらいあるのか。三樹三郎が案じなめればならないものがあるとすれば、才能の枯渇などではなく、時との戦いである。ともかく詠む、また詠む。
日は山の端に落ち始めている。室内には明かりが灯され、夜のとばりが広がり始めている。やがて第九十九首目。「戸」と誰かがいった。
閉戸 戸を閉じる
開窓到閉戸 窓を開き閉戸の到る
九十又九詩 九十又九詩
運刀君亦就 運刀の君亦就(な)り
一笑了文嬉 一笑して文嬉を了る
意味 今朝窓を開けてからついに占めるときまで来て、九十九首の漢詩を詠んだ。刻刀を握る君の印も彫りあがり、破顔一笑のうちに画興を終えようとしている。
百首目は次のようになった。
驩然引太白 驩全(かんぜん)として太白を引く
一百課成時 一百の課成るの時
寒詩与頑印 寒詩と頑印と
狂跡留天涯 狂跡は天涯に留めん
意味 さあ、喜び勇んで酒をなみなみ注いだ杯を引き寄せよう。百印百詩が 仕上がったところなのだ。お寒いばかりの拙句と勢いのある百印ではあるが、バカげた雅興の足跡は江差の地にいつまでも残るだろう。
百首を読み終わったなら、おそらく自分は喜びと疲労からその場に倒れこむであろう、と三樹三郎は想像していた。しかし倒れなかった。
「すごい。ようやった」
「歴史に残るすばらしいし会だった」
多くの賛辞をうけながら三樹三郎は胸を張って言う。
「まだ詠める。次にお題はなんや」
その場にいた者は笑いに包まれた。
2025・3・7 第32回
三樹三郎は漢詩を読み続け、第三十一首目にさしかった。
江山風月無常主閑者是主人 江山風月常主無く閑なる者是主人
風細浪舒月 風は細やかに浪は月を舒(の)べ
峰巒掃翠煙 峰巒は翠煙を掃う
来擬恣吟眼 来たりて吟眼を恣(ほし)いままにせんとすれば
漁舟已着先 漁舟は已に先に着きたり
意味 風がかすかに吹き、月影は波に映り、連山の切り立った峰々が木々にかかる靄をはらうようにくっきり見える。この絶景を前に心静かに詩を詠むところを探すうちになんと見物の舟のほうが先に着いてしまった。
驚いたのは武四郎である。最低でも二文字、時に三文字、四文字を彫ることが多かったが、なんと十文字を彫らなければならない。武四郎は大小百ほどの蝋石を持っており、一番大きなものをとりだして、彫り始めるが、掘り終わる前には三樹三郎が次の漢詩を詠み始めている。
印は彫ったところで、実際の出来映えを伝えにくい。見た目では、三樹三郎のほうが圧倒的な存在感を放っているのはそのためだ。
三樹三郎の快進撃は続いていく。武四郎のことを考え、やや短めの詩題にする余裕すらある。
小自在(しょうじざい)
揮筆酩酊中 筆を揮う酩酊の中
本非悦人物 もとより人を悦ばす物に非ず
無意拙将工 拙と工(たくみ)とを意うなし
意味 与えられた詩題を得て一気呵成に酒に酔った気分で筆を運んでいる。もとより人を悦ばせるようなものではなく、上手も下手も、秀作も駄作も、作品の良し悪しなど考えているわけではない。
夜明け前から一切食べていなかったが、差し入れの握り飯が置かれ、三樹三郎は一口、二口と口に含み、茶で流し込んでいたが、その詩を訊いて一人が訊ねる。
「握り飯より酒のほうがいいのだな」
「言うまでもない」
三樹三郎は応じると、どっと笑いが起こり、誰かが酒を取りに走った。
その間も「幻影(げんえい)」「天縦吾嬾」(天は吾嬾を縦=ゆる=す)「意耳」(いじ)」「業精勤(業は勤むるを精=もっぱら=にす)など中国古典を材にとった詩が詠まれる。
見物客から「虱」の声が上がった。
捫虱(虱を捫=ひね=る)
虱也受人憎 虱は人の憎しみを受け
纔生身被裂 纔(わずか)に生きて身を裂かる
汝虱聞吾言 汝虱よ吾が言を聞け
意味 虱は人の憎悪を一身に受けて辛うじて生きているが、見つかり次第捻り潰される。虱よ、わしの言うことを聞け。どうせ憎まれるなら王猛のようなどでかい奴に食らいついて名を残してやれ。
ここでも笑いが起こった。王猛もまた中国の歴史上の人物である。
2025・3・4 第31回
齊藤佐治馬がようやく雲石楼を訪ねたのは、巳の刻(午前十時)をやや過ぎたころであった。どんな様子か見にいこうと思っていたところ、二三の来客が重なり、こんな時刻になってしまった。
「さて、どんな様子か」
期待半ば、不安半ばで雲石楼に出向いてみれば、客で半分ほど埋まり、火鉢の上の鉄瓶もシューシューと音を立て、室内には熱気がこもっている。
三樹三郎は「肝膽一古劔(肝膽は一に古剣)」「囂囂(ごうごう)」「撫孤松而盤桓(孤松を撫して盤桓=ばんかん=す)」「淵黙雷声(えんもくらいめい)」「容膝(膝を容る)」と詠み続けていた。
中国の古典に材を得ている漢詩には、すぐ理解できないものもある。おそらくこの場にいる者の多くも同じであろうと思うが、誰一人席を立つ者はいない。皆、呆気にとられたように三樹三郎の様子を眺めている。
一見する限り、普通の二十二歳の若者である。いや、正直言えば、出会った当初は祖父が広島藩儒頼春水、父が名の知れた頼山陽と聞き、名家の子息であるのだから、書や漢詩の心得くらいはあるのだろうというくらいに考えていた。
ただ、実際、父の佐八郎の求めで書いてもらった書は二十二歳とは思えない出来映えで、見直す思いが蘇った。だから今日の詩会のために雲石楼を提供したのであったが、まさかここまで実力があるとは想像もしていなかった。
目の前の三樹三郎は全身からとんでもない熱量をあふれ出させ、まるで言葉の霊媒師のように次々と漢詩を生み出している。これはただ者ではない。
佐治馬は一首、また一首と詠み続ける三樹三郎の前で胡座をかいた。とともに三樹三郎の超人的な様子を眺めながら「ゆかいだ、これはゆかいだ」と腹から笑いがこみ上げてくる。これまでの人生で見たことのない、会ったことのない、無尽蔵の可能性を秘めた若者に出会った楽しさ、喜びが佐治馬の全身を満たしている。
とともに、このようにすばらしい詩会がこんご江差で開かれることはないという思いにとらわれ、「誰か、誰か」と呼んだ。普段ならそのように呼べば、使用人が飛んでくるので、町中までこのような催しが行なわれていることを吹聴に行かそうと思ったのだったが、今は一緒にやってきた使用人まで目を丸くして、三樹三郎の様子に釘付けになっている。
玄関先がにぎやかになり、何人かと入ってきた。見れば、年のはなれた弟の佐馬五郎や父の佐八郎の姿もある。佐治馬と同じことを考えた者が、詩会の様子を吹聴してまわったらしい。
そしてやって来た者たちもまた目の前で繰り広げられている三樹三郎の才能の発露、そして剣道の真剣勝負のような武四郎とのぶつかり合いに心を奪われるのである。
2025・2・28 第30回
日は昇りはじめている。畳の端にはわずかに光が届くようになってきた。襖の開け閉めがあり、客が入ってきている。そのせいか室内に塵が舞う。すかさず「塵」のお題が出る。
掃塵 塵を掃う
男子霊台裡 男子は霊台の裡
不容一点塵 容(ゆる)さず一点の塵
何況窓煒際 何んぞ況んや窓煒(そうい)の際
亦須日々新 亦須(すべか)らく日々に新たなるべし
意味 男子たるもの、精神の裏に塵が溜まることを許してはならない。まして人目につく窓の帳や桟の塵はなおのこと。心も姿も日々新たに清潔に努めなければならない。
「刀」のお題が出たのは、隣の武四郎もまた三樹三郎に劣らず、篆刻に集中している様子が人々に伝わるからだろう。三樹三郎はちらりと隣の三樹三郎に目をやった。ようやく「掃塵」の文字を掘り始めたとことである。それでも長年培ってきた技術があれば、すぐに追いついてくるだろう。
磨刀 刀を磨く
文嬉到第九 文嬉は第九に到り
勢似捲風涛 勢いは風涛を捲くに似たり
刻雕喜明快 刻雕 明快を喜ぶ
不恠君磨刀 怪しまず君が刀を磨くを
意味 戯れに百を目指した詩も第九に至り、勢いはいよいよ波にのって、荒い風浪を巻きあげるに似ている。篆刻が彫り進むのは喜ばしいし、君が時折り刻刀を磨がくのはもっともなことだ。
現実に返ってみれば、客が数人やってきて、二人の様子を眺めている。想像していたように客がぞくぞく集まる状態とはほど遠いものの、今となってはどうでもいいことに思える。頭の中は熱く回転を続き、吐き出せど、吐き出せど、言葉があふれ出してとまらない。
声が聞こえる。誰かが「客が来たのか」というと、誰かが茶化すように「花売りではないか」という。「こんな季節に花売りでもあるまい」と会場に笑いが起こった。三樹三郎は「それをいただこう」といって一首を詠む。
売花声 花を売る声
韶風猶料峭 韶風猶お料峭として
残雪擁山城 残雪は山城を擁す
今暁売花去 今暁花を売て去(ゆ)く
春生満市声 春は満市の声に生ず
意味 春を告げる穏やかな風が吹いてきたが、風はまだ肌を刺す冷たさだ。残雪は山城のような様相で名残を留めている。今朝、花売りが通り過ぎるのを聞くと、町中に花売りの声が満ち、いよいよ春が来たことを知らせてくれる。
さらに「味無味(無味の味)」「挿華(華を挿す)」「松桂心(松桂の心)」「煙霞鋳痩容(煙霞に痩容を鋳す)」「鉄心石腸」「人澹如菊(人澹=あわ=きこと菊のごとし)」
やや文字数が増えて、武四郎の表情には焦りが生まれているが、まだ十数首しか詠んでいない。さらに「霜鐘(霜の鐘)」「吹煙(煙を吹く)」「寄松竹(松竹に寄す)」「大夢(大き夢)」「黙知(もくち)」「見山(山を見る)」「昨日(さくひ)」「迎客(客を迎ふ)」。ここまでで二十五首である。
2025・2・25 第29回
幼い頃から漢詩を教え込まれ、多くの漢詩を読み込んで、語彙や表現の蓄積のある三樹三郎であれば、呼吸するように、つまり息を吸ったり吐いたりするように言葉が出てくる。
時間さえかければ百首程度は苦もないと考えている。ただ、やはり五分余りで一首詠むというペースをそのまま日
没まで続けるのは未知なる領域である。ともかく無心に一首ずつ詠んでいくしかない。
お題は「開窓」「汲水」「澆園」「炊煙」と続く。概ね江差の冬の風景と重ねて詠んでいく。風景を詠むというのも漢詩の基本ではある。
「次は?」と声をかけたところで題が止まる。ややあって、誰かが「鴉」という。
「鴉・・・」
三樹三郎の筆も一瞬止まる。そういえば、江差は鴉が多い。魚をおこぼれに預かろうと自然集まってくるのだろう。しかし詠むのはそのような俗っぽい風景ではない。
鴉出林 鴉林を出(い)づ
紅霞抹青嶂 紅霞は青嶂を抹し
鳥語感吾心 鳥語は吾心を感ぜしむ
彼也雖禽鳥 彼また禽鳥と雖も
舞晨知出林 舞晨林を出づるを知る
意味 朝霞が山々の峰を紅に染め、鳥たちの語らいが心に響いてくる。鴉は何の取り柄もない野鳥ではあるが、夜明けとともに林を飛び出すことを知っている。
三樹三郎がお題を自在に変化させることがわかり、次は「雲」と誰かがいった。三樹三郎は「宿雲」として詠み、吟詠する。「宿雲」とは前夜から垂れこめている雲のことである。
一人が沸いた湯で茶をいれ、三樹三郎と武四郎のそれぞれの前においた。すかさず誰かが「茶」というと、三樹三郎が「茶を煮る」として詠んだ。
煮茶 茶を煮る
世貴口中蜜 世は口中ぼ蜜(あま)きを貴ぶも
煮茶心思深 茶を似て心に思うこと深し
終古無人識 終古人の識るなし
玉泉嘗苦心 玉泉苦心を嘗(な)めたるものを
意味 茶について世間は味ばかりを重んじるが、私は茶を煮る一連の所作にひきつけられる。地中から湧き出る清水が源にあり、茶を煮ることにどれほどの苦心があったか知る人など昔からいないことがこの茶を飲んでわかる。
三樹三郎は余白に「心当作感(心当感を作る。意味は心がけているのは感じたままに詠むこと)」と書き込んだ。
2025・2・18 第28回
三樹三郎と武四郎は床の間を背に座った。三樹三郎の前には紙、硯、筆、文鎮、武四郎の前には蝋石、彫り用の小刀がある。
閉めきられていた雨戸が開き、障子の向こうには明け始めた庭が浮かびはじめている。真冬のはりつめた空気が漂っている。
「さて、武四郎殿、用意はよろしいか」
三樹三郎が声をかけると、隣の武四郎がやや緊張気味にうなづく。
明け六つの鐘が鳴り始めた。六つ目の鐘がなり終わったとき、三樹三郎が声を放った。
「では一日百印百詩の会を始める。誰かお題を述べられよ」
本来は客に求めるべきところ、客はいないので仲間が言った。
「では、僭越ながら、清晨でお願いしたい」
清晨とはきよらかな朝、すがすがしい朝などの意味がある。
驚いたことに、「清晨」と聞いた瞬間に三樹三郎の筆は動きはじめ、左手に持った紙に漢詩が書き付けられていく。
清晨
山青残月薄 山青くして残月薄く
燈白古邨寒 燈白くして古邨寒し
橋霜人未過 橋霜未だ過(わた)らず
満耳水珊々 満耳水珊々たり
意味 山稜はくっきりと青い輪郭を描き、月影は薄く山の端に残っている。寒夜、常夜燈の下で、古い港町が世の明けるのを待っている。橋の上の新雪はまだ踏む人もいないままで、聞こえるのは朝の澄んだ水の流れだけである。
三樹三郎は一度吟詠したあと「次は」とお題を促す。隣で「清晨」を彫っていた武四郎が一瞬三樹三郎のほうに視線を放った。お題を聞くとともに掘り出したものの、まだ彫り終えておらず、あわてたのである。
日のあるのうちに百首詠むと書いた。一首に費やす時間として「八分二十四秒」とした研究書がある。だがこれは現在の時間で午前六時から午後八時まで十四時間かけて詠んだと計算してである。すでに書いたように、このころは不定時法で、冬至の日中の時間は九時間五十分程度しかない。つまり単純計算して一首あたり5分50秒ほどで詠まなければないことになる。
そんなことなど三樹三郎は百も承知であった。
2025・2・16 第27回
三樹三郎と武四郎は宿泊部屋や食事を提供してくれている齊藤佐治馬に相談した。人を集めるにはしかるべき場所が必要である。二人は法華寺を考えていたが、不幸が入れば使えず、顔の広い佐治馬なら力を貸してくれると思ったのだった。
佐治馬は二人の提案を聞いたあとで、「であれば、うちの雲石楼を使えばいい」
「雲石楼?」
雲石楼は江差中心部のやや高台にある齊藤家所有の別宅で、主に客人をもてなすときに使われている。齊藤家では他にも十適園という別荘をもち、春には畑で野菜類、りんご、梨、ブドウなどの果実も育てているという。
「あそこなら、人は集まりやすいだろう」
「使ってもよろしいのですね」
「おもしろいではないか。大いに江差を盛り上げてくれ」
佐治馬自身が文人への憧れと理解があるので、話ははやい。二人はすぐ下見に行った。高台にあり、江差の海も見下ろせるが、今は雪に閉ざされている。まずは門の周辺の雪掻きからはじめなければならない。
当時は太陰歴なので、冬至は十月十四日である。すでに十月も数日が過ぎている。急いで会が開かれることを吹聴してまわる必要もある。
一年でもっとも日中の時間が短い日、夜明けととも、観客から与えられた題材で三樹三郎が漢詩を詠みはじめ、武四郎が印を彫りはじめ、日没までの百の詩と百の印が完成する。名づけて「一日百印百詩」の会で、おそらく物見の客が押し寄せるように集まるだろう。
二人の目論見では一詩一印できあがるたび客に買ってもらい、買わない客でも見世物料として金子を払ってもらう。従って「百印百詩」の完成するころには懐も暖まるだろう。考えただけでもウキウキして、もはや会は成功したような面持ちで準備を進めている。
二人は前夜から雲石楼に泊まり込み、雪掻きを繰り返し、部屋にも複数の火鉢を持ち込んで部屋をぬくめるなど準備万端整えていった。
そして迎えた十月十四日。まだ夜の明けやらぬ町にゴーンという捨て鐘の音が響きわたった。捨て鐘は明け六つの鐘の前に鳴る鐘である。当時は不定時刻法で、時刻は固定されていない。明け六つから暮れ六つまでの時間は夏至では十四時間半ほどだが、冬至なら九時間五十分ほどである。
東の空が白々と明けてきた。幸い雪は降っておらず、二人の思いが通じたようだ。ところが客など来る気配はない。集まってきたのは飲み仲間の西川春庵や菊池謙介など数名である。室内に重苦しい空気が漂う。
だが三樹三郎は平気な顔していった。
「わしらが熱心にやっていれば、じきに集まってくるやろう」
2025・2・12 第26回
何日かして、武四郎が三樹三郎に話しかけてきた。
「こんなものを彫ってみたが、どうや」
武四郎の手の中には蝋石に彫られた印がある。三樹三郎はそれを手にとり、しげしげと見入り、「なかなかものや」と褒めた。
三樹三郎は齊藤佐八郎から書を頼まれて書いたものの、印がなくて困って
いた。書には巻冒印、朱印、白印の印がいるが、奥州から蝦夷地を目指そうとしていたとき、石巻辺りで印一式の入った袋を落としてしまったのだった。
その話を武四郎にしたところ、「自分は十代の頃に篆刻の手ほどきを受け、篆刻家として暮したこともある」という。そこで印を彫ってもらったのだ。
「ありがたい。武四郎殿は器用やな」
武四郎の荷物の中には蝋石が多くあるのは、篆刻で生計を立てていた名残であろう。ほかに変わった形のものも持っている。
「それはなんや」
「勾玉や」
勾玉とは日本における装身具の一つで、祭祀にも用いられたと言われる。武四郎は勾玉のほかにも奇石や古銭の収集をしていた。武四郎が見せてくれた勾玉は大きさも色合いもさまざまで眺めるほどに神秘的な輝きを放っている。
また武四郎が描いていた絵を見たこともあるが、細部まで描きこなれたもので、やはり絵を描く三樹三郎を感心させた。
初めこそ会話の少なかった二人であるが、共通の話題で次第に打ち解けつつある。勾玉を不思議そうに眺める三樹三郎を見ながら、武四郎が言った。
「先日は茶屋の話をしていたな」
「飲みにいきたいが、先立つものがないという話か」
「三樹三郎殿ほどの才があれば、漢詩を売って金に換えればいいやろう」
「そうしたいのはやまやまやが、話がこない。先日、法華寺にいって檀家を紹介してもらおうとしたが、未だに返事はない」
「噂が足りないのやろう」
「噂?」
「せっかくの腕があるのやから、もっと吹聴すればいい」
三樹三郎は武四郎の言葉の真意に気づいた。
「わしの書が売れれば、武四郎殿も篆刻の彫り賃が入るということか」
「見抜かれたか」
武四郎は雪解けを待たず、江戸に帰るつもりらしい。そのため路賃を得たいと考えているのだろう。こういうことは二人で考えるほうが道は開ける。
「まずは三樹三郎殿の書の腕前を知ってもらうため、多くの客を呼び、皆の前で書を書く」
「それなら漢詩を詠むというのはどうや。客の要望を受けて五絶を詠み、それを書く」
「いいな。次々に注文を取り、次々に詠んでいく」
「武四郎殿は次々に印を彫っていく」
「見世物やな」
「猿が芸をみせて金をとるようなものや」
「わしの父は若い頃、そうやって漢詩や文を売って旅を続け、祖父から『旅猿』と呼ばれていたそうや」
「旅猿か。言い得て妙やな」
三樹三郎がさらにいった。
「井原西鶴を知っているやろう」
「大坂の俳諧師か」
「西鶴は一日に四千句を詠んだという話だ」
「常人にはできかねる話やな」
「その話を聞いたとき、漢詩で三千首を読むのは不可能やが、百首くらいなら詠めると思うたものや」
「できるか」
「できる」
「一日といっても、もうじき冬至や」
「おもしろい。一年で一番日の短い日、日の出から日没までに百首詠むというのはどうや。お題は客からもらう。武四郎どもも同じく印を百彫るのや」
「三樹三郎殿がやれるのいやから、わしとてできるやろう」
2025・2・4 第25回
松浦武四郎は第二回の蝦夷地探索で集めた情報を水戸藩に渡すつもりであった。水戸藩は蝦夷地開拓を真剣に考えており、情報は喉から手が出るほどほしいのである。
実際、最初の蝦夷地探索を終えたあと、水戸藩に立ち寄ると、藩校弘道館の教授頭の会沢正志斎が会ってくれ、また二度目の蝦夷地探索に向かう際にも「路銀の足しに」といっていくばくかの金子を与えてくれた。武四郎はすでに水戸藩の上層部から目をかけられているが、水戸藩ではもう少し武四郎を泳がせて、使い物になるか見定めようとしていることも承知していた。
これまでの人生で、一度も後ろ盾をもったことのない武四郎は、初めて自分の健脚によって集めた情報を買ってくれるところがみつかったことを喜び、なんとしても水戸藩と気脈を通じたいと考えていた。
ところで水戸藩では徳川光圀の時代から蝦夷地に関心を寄せ、影響を受けた徳川斉昭は1839年(天保10)藩士たちが蝦夷地に移住したと仮定した際の改革を書いた『北方未来考』を出版したことはすでに紹介した。
水戸藩では1838年には廻船、海産物問屋を営む大内清衛門に蝦夷地を探検させ、『大内清衛門聴取書』『蝦夷情実』にまとめている。大内清衛門は蝦夷地との交易で得た巨利を献金したことによって水戸藩の郷士となり、さらに1856年(安政3)には勘定奉行に出世するのである。つまり水戸藩は、蝦夷地の防衛を訴えながらも、場所請負制度によって利益を手にしていたわけである。
蝦夷地には以前から近江商人も進出し、松前藩の御用商人となって莫大な利益をあげていた。近江といえば、後に近江彦根藩の第16代藩主井伊直弼が大老になり、安政の大獄で弾圧する中には徳川斉昭以下水戸藩の藩士も含まれるが、伏線として蝦夷地における覇権争いが想像できるのは、興味深い。
2025・1・20 第24回
武四郎は梁川星巌との交流も話した。三樹三郎は江戸で暮しはじめたころ、星巌の開いた神田お玉ヶ池の玉池吟社に通っていた。
星巌は父山陽の友人で、ことのほか三樹三郎をかわいがってくれたからだが、三樹三郎が蝦夷地に渡る前年つまり昨年、妻の紅蘭と京に移ってしまった。
さらに話を聞けば、武四郎は十代のころには大坂の篠崎小竹の塾も訪ね、婿である後藤松陰にも会ったことがあるという。小竹を訪ねたころは儒学を学びたいと思ったが、すぐに自分には向かないと気づき、入塾はしなかったという。
また反乱を起す前の大塩平八郎も訪ね、家塾の洗心洞に入塾するように勧められたとも話した。
大塩平八郎も篠崎小竹も山陽の知己で、後藤松陰は山陽の弟子であったことから、三樹三郎は十五歳のころから小竹の塾生として数年間世話になっていた。
三樹三郎はその大坂時代に水野忠邦の政権下で御納戸頭をつとめていた羽倉簡堂を紹介され、三樹三郎の才を期待した簡堂の推挙によって昌平坂学問所への入学が許されたという経緯がある。しかし水野忠邦による天保の改革の失敗から、簡堂が幕府中枢から去ることになり、三樹三郎は後ろ盾を失ってしまう。そのあたりの不満もあり、寛永寺の灯籠を蹴り飛ばす一件につながったのだった。
いずれにせよ、武四郎は会いたいと思う人物はどのような手段を講じてでも訪ねることを信条としているようだ。
それに対して三樹三郎も蝦夷地までの道中では幾多の人々の世話になったものの、多くの場合は紹介状や知人を介して縁をもつなど、しかるべき手順を踏んで訪れている。武四郎のように場当たり的に訪ねるという真似はしない。
三樹三郎は自分とは異なる思考回路と行動力をもつ武四郎を、半分は羨ましく思いつつも、残り半分では自分にはやりかねると考えた。三樹三郎は一見豪放磊落に見えるが、見た目ほど厚かましくも、強引でもない。酒に呑まれて自分を見失った寛永寺の灯籠の一件はともかく、朱子学者として一代で鳴らした頼春水を祖父や、在野に身をおきながら文人として大成した父山陽をもち、幼い頃から礼というものをたたき込まれている。そのため世間の常識から大きく外れるようなことはしないし、できない。現に寛永寺の灯籠の一件以降は、行動に自制がくっわるようになっていく。
三樹三郎が瞬間的に感じ取った武四郎との差異は、二人の気質の決定的な差異であった。とともに武四郎もまた三樹三郎と自分の差異に気づいていた。
武四郎には自身の行動を縛るようなものは存在しない。そもそも三樹三郎のように紹介状を書いてくれる知己などほとんどいない。生まれてこの方自分の口は自分で糊してきた。野宿で過ごした夜は一夜二夜ではなく、二十代にして、ある意味生きることの極限のようなものも経験してきた。武四郎が考える常識とは、自分の大きさに合わせたものであった。
武四郎から見て、三樹三郎は「良家の子息」である。齊藤家にあっても、頼家の子息として一目おかれている。「お伊勢さん」の近くで生まれ育ったくらいしか取り柄のない武四郎とはなんという違いであろうか。
武四郎は自尊心を保ちつつも、どこかで三樹三郎に劣等感を抱いていた。その劣等感から心の底では三樹三郎を「所詮、お人好しで、ぬるま湯につかったボンボン」と見くびっていた。武四郎が知り合った者の中には会沢正志斎、藤田東湖といった水戸藩の重臣、加藤木昭三などの隠密もいる。しかしその話を三樹三郎することはなかった。彼らと接触していることが何を意味するか、三樹三郎なら察することはできるだろう。そして三樹三郎のようなお人好しであれば、口外を禁じたところで守り切れないであろうとも見抜いていた。世渡りの術をもつという点において、武四郎は三樹三郎をはるかに凌駕していたのである。
2025・1・18
はるかなる蝦夷地 第23回
「武四郎殿はいつも出かけているが、どこへ行かれているのか」という三樹三郎の問いかけに、武四郎は答えた。
「どこということもないが」
「それでも出かけているやろう」
「歩きたくなるのや。無性に」
「雪の中を?」
「雪の中でも、どこでも、じっとしていると身体がムズムズしてくる」
相変わらず素っ気ないが、武四郎がこんなふうに言葉を返してくれるのは珍しいことだった。三樹三郎はさらに訊いた。
「武四郎殿はいつまで江差におるのや。春までか」
「いや、それまでは待てない。箱館から船が出るようなら、今すぐにでも内地に渡りたい」
「今すぐ?」
「この雪ではむずかしいが、雪の晴れ間があれば、船は出るやろう」
「帰るのはお生まれになった伊勢か」
「いや、両親は亡くなった。江戸で仮り住まいや」
武四郎が江戸に向かうなら、母への手紙を託せば、京都に向かう者を探してくれるかもしれない。その話をすると、「お安い御用や。江戸には知り合いが多くいる。京都に行く者に託して進ぜよう」
「ありがたい」
三樹三郎は文机の前に座り直して、母への頼りの続きを書き始めたが、ふと気づいて問うた。
「江戸での知り合いとは、どのような方々や」
「嶺田楓江殿とか尾藤水竹殿とか」
三樹三郎は「え」と大きな声を出して武四郎を見直した。
「尾藤水竹を知っておるのか」
「今回、蝦夷地再訪の際、嶺田楓江殿と水竹殿の屋敷を訪ねたところ、近くの『笹の雪』で送別の宴を張ってくれたわ」
さらに送別の宴の参加者として、水竹の口から山陽の弟子であった石川和助(後の関藤藤陰)、門田尭佐(朴斎)の名前も出た。二人は福山藩士で、特に石川和助は後に藩主阿部正弘の命で、蝦夷地に赴く人物である。
「水竹殿はわしの親類や」
「知っておる」
「え? ご存知やったか」
「水竹殿のご母堂と、三樹三郎殿の御祖母様は姉妹なんやろう」
「そこまでご存じであれば、なぜ今まで話されなかったのや」
「なぜといわれても、なんとのう、めんどうやったんや」
武四郎は平気な顔でいうが、三樹三郎にすれば、どうしてそんなことが面倒なのか、まるでわからない。
2025・1・15
はるかなる蝦夷地 第22回
「母上様 長きにわたる不在をお許しください。会津で秋琴殿にお頼みした便りは届いているでしょうか。その後、奥州を北上し、九月に蝦夷地に渡り、今は江差の町年寄齊藤家に厄介になっております。当地の寒
さは聞き及んでいる以上のものではありますが、幸い息災に過ごしております・・・・・・」
そこまで書いたところで、三樹三郎の筆が止まった。
江戸にいるころ、三樹三郎の妹で、母にとってはたった一人であった陽子がわずか十六歳の若さで病死したという訃報が届いた。今は兄の又次郎が広島の本家から京都に戻り、家塾の真塾を営みつつ、母と暮しているが、さぞ傷心のうちに過ごしているであろう。しかも三樹三郎が期待を裏切るような失態をしでかし、合せる顔がない。
それでも京都には帰らず、とうぶん北方を旅することに決めたことを伝える便りは、道中立ち寄った会津藩士の浦上秋琴に託した。秋琴の弟の春琴は京都で暮し、秋琴とは文を交しているだろう。また藩主という立場上、他藩の藩士と接触する機会も多く、秋琴に託せば、日数はかかっても母に届くと思ったからだ。
当時、手紙のやりとりは、私信であれば、知り合いを介して手から手へ渡っていくことが多い。とはいえ相手の善意、親切に頼るわけだから、届くのに何か月、時に一年くらいかかることもあれば、場合によっては届かないこともある。
そうであっても託せるべき相手が見つかれば幸運である。今、江差では海を渡って内地に赴く者は少ない。天候悪化で人々の往来は途絶えがちで、頼りを託すべき相手もいない。
生来心配性の母であれば、三樹三郎がどのような日々を過ごしているのか気を揉み、食べるものも喉をとおらない状態ではなかろうか。「おのれはなんという親不孝であろうか」と情けなさのあまり、泣きたい気持ちになる。
筆をとめ、仰向けになって天井を仰いでいるとき、松浦武四郎が部屋に入ってきた。武四郎と同室で過ごすようになっておよそ一ヵ月ほどになる。武四郎は雪掻きの手伝いをするでもなく、ときおりふらりと外に出て行き、三樹三郎が床につくころ文机に向かって何ごとか書いている。そのせいもあって昼夜が逆転する生活を送っている。
三樹三郎は思いついたように「武四郎殿は茶屋にはいかないのか」と問うた。
「茶屋? わしは酒は呑まぬから」
「酒は呑まずとも、何というか」
「なんや」
「つまり、その」
「女か?」
「まあ、そんなところだ」
「わしは化粧の匂いが苦手や。酒を呑む女子も好きにはなれぬ」
ピシャっといわれ、三樹三郎は話を変えた。
2024・1・10
はるかなる蝦夷地 第21回
「それにしてもよう降るな」
独り言のように呟きながら、三樹三郎は雪を掻く手をとめて天を仰ぐ。雪は三樹三郎をめがけ、一心不乱に降ってくる。海に近いせいか水分を吸った雪が顔をたたきつける。
雪が降り続く日々は行動が制約される。といって何もせず過ごすわけ
にはいかない。三樹三郎は齊藤家の食客であれば、できることはしなくてはならない。そこで雪掻きが日課になった。齊藤家には下男もいて、本来雪掻きは彼らの仕事ではあるが、降り積もる雪の量があまりにも多いため、できる者がするという状態になるのだ。
蓑を着て、蓑笠をかぶり、手には藁製の手袋を履き、足にも足をすっぽり覆うような藁製の履き物をはいて、現在の雪掻き道具に近い除雪道具を使う。「雪かきすき」「こすぎ」ともよばれ。三尺(約90㎝)ほどの柄の先についている板に雪を載せ、掻いていく。
手や足はかじかみ、感覚がなくなっていく。半刻ほど作業するだけで、全身からは汗が吹きだす。なんとか屋敷前がきれいになったとしても、翌日には雪が降り、その繰り返しであった。この地で暮して行くには体力、根気が必要であることを思い知らされる。
気がつけば、佐馬五郎もいっしょに雪掻きをしている。幼い頃からよく手伝いをしているとみえ、雪を掻く動作、特に腰の入れ方など堂に入っている。それでも軒下から下がる氷柱をとったり、雪だるまをつくったり、かまくらをほったり、子供らしさも残っている。
雪掻きを終え、熱い茶を飲み、供される餅など食べたあとは、心地よい疲労とともに、詩作への創作欲がみなぎるのを感じる。今回の蝦夷地での滞在中、できるだけ多くの漢詩を詠み、詩人として飛躍したい。
その日も、頭の中に浮かんでくる文字を紙に書きつけていく。言葉が浮かんでは消え、別の組み合わせが生まれ、また自分で作り出した語句と思ったものが亡父山陽の詩の一節と気づくこともある。亡父の漢詩は繰り返し朗詠してきたからだ。亡父のことを考えると、自然に母梨影の面影が浮かんできた。
「京都の母上はどのようにお過ごしなのやろうか・・・・・・」